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右眼の紅色  作者:
6/21

五年前に始まった赫と銀の戦は、今もまだ続いていた。

「――緋里、隠れな!」

静かに、しかし鋭く放たれたその声に緋里は咄嗟にその場に伏せる。激しくなる動悸でおかしくなりそうだった。

「・・・・・・行ったみたいだ。いいよ、出てきな」

「はい」

音を立てないように起き上がると、朱音が黙って髪を撫でてくれる。よく頑張った、と言いたげなその手は五年間ずっと変わらない。どんなに戦が日常となろうとも、生きようとするのを諦めない姿勢は常に持つべきだった。

争いに無関係の隠族が棲む森の近くであったので、家に居る限りは危険が及ぶことは少ない。紅流が用意してくれていた食糧でしばらくは食いつなげたが、思った以上に戦は長引きそれも底をついてしまった。そこで二人は時折こうして森に出て食糧を取ってくるようになったのだが、それは常に危険と隣り合わせであり、死の覚悟さえ必要なものだった。


「いただきます」

二人で手を合わせ、皮を剥いたミラドの実を口にする。爽やかな酸味とともに、微かな渋味が口内に広がった。久しぶりの果物の味をじっくりと堪能する間もなく飲み込む。銀族がずっと周辺をうろついていたので中々森に出られず、ひどく空腹だったのだ。

「もう・・・十五になったか」

「・・・そうだね」

あれから、五年。紅流が死んでから、そして朱音と暮らすようになってから、もう五年の月日が流れたのだ。

「あの小っちゃかったのがこんなに大きく・・・人間てのは本当に成長が早い」

朱音がふっと、昔を懐かしむように緋里を見つめる。その優しい眼が嫌でも紅流を思い出させたが、もう辛くなるようなことはない。

「アカルもきっと、喜んでる」

だからこうして、二人で紅流の話が出来るようになった。吹っ切れさせてくれたのは朱音だ。信頼できる家族、寄りかかってもいい場所が出来たことで、緋里は独りで抱え込まずにやって来られた。それはきっと朱音も同じなのだろう、とそう思う。

朱音は、紅流に少し似ていた。決して緋里を甘やかしはしないが、いざというときはいつだって助けてくれる。また、紅流同様彼女は姉貴分的な性格を持っていた。一度弾みで〝姐さん〟と呼んでしまったこともあるくらいだが、それを聞いた朱音は何故か本気で嫌がり、物凄い剣幕で二度とそう呼ばないよう釘を刺したのだが。

「アカネさん、そういえばわたし一度も聞いたことなかったんだけど、アカルのお母さんってどんな人なの?」

彼女が紅流の幼馴染だったことを思い出して、緋里はふとそう尋ねた。

紅那(アカナ)さん?そうだね・・・・・・」

朱音は宙を見つめてしばし考える。

一緒に暮らし始めて以来朱音にはたくさんのことを教わったが、その最もたるものが口調の矯正だった。一人称を変えることから始まったそれは、今では一応ましになったらしい。自分のことは棚に上げて、と思わないではなかったが、七十年も使い続けた口調を今更直すのは相当大変だということは分かったのであまり言わなかった。朱音はきっと、緋里がこの先自分と同じことで後悔しないようにしてくれているのだろうと思ったのだ。

「・・・何ていうか、豪快な(ひと)だったよ」

「え?」

「いや・・・どう言ったらいいのか分からないけど、多分それが一番正しい。アカルが女だったらあんなだろうね」

それはむしろ朱音に当てはまるのではないだろうかと思ったけれど、また怒られても嫌なので何も言わずにおいた。それに、朱音は紅流より真面目な面があった。それによって生まれる優しさは紅流と似ているようで少し違う。

「そうだ、確か遺品をまとめた箱があったはずだけど・・・見るかい?」

朱音は立ち上がると棚の一番下にある引き戸を開けて、少し古びたその箱を取り出した。

「紅流がさっさと片付けちまったものだから中身は知らないんだけど・・・・・・」

ふたを開けた朱音はその動きを止めた。緋里も隣から覗き込む。

「・・・黒亞(クロア)、って・・・・・・」

「隠族の妖からの・・・手紙?」

緋里と朱音は互いに顔を見合わせた。


どうやら紅流の母、紅那には隠族の友人が居たらしい。

こんな位置に家がある以上それは全く不思議なことではなかった。緋里も何度か彼らの姿らしきものを見たことはあったが、いつも近付くとあっという間に逃げてしまうのであまりよくは知らない。隠族は、人を畏れるのだ。

「隠族って身体がないんじゃ・・・。手紙なんて書けるの?」

「あたしもよくは知らないけど、確か触れずに物を動かせるとか何とか・・・」

首を捻った朱音に、緋里は昔紅流と話したことをふと思い出した。


「隠族は今は衰退しちまってあまり姿を見せねえが・・・昔は銀族の奴らと仲が良かったらしくてな、今の俺たちよりずっとすごい勢力だったんだぞ」

「あんなに小さい身体なのに?」

「身体っつーか何つーか・・・あいつらには決まった身体がねえんだ。要は魂だけの状態なんだよ」

「じゃあどうやって暮らしてるんだ?」

「食いもんは要らないらしいな。あと、考えただけで物を動かせるんだ、すげえだろ?」

「アカルが威張ってどうするんだよ・・・。そんなことが出来るのに、なんで衰退したんだろう?」

「さあな・・・そこまでは聞いてねえが。大昔に何かあったんじゃねえか?」


思えばあのとき、紅流は誰かからその話を聞いた風な口ぶりだった。きっとそれが紅那だったのだろう。

「ああ・・・それ、あたしも聞き覚えがあるよ。アカルから聞いたのか、それともアカナさんから直接聞いたのか・・・。ともかく、アカナさんがこのクロアって妖とかなり親密な仲だったのは間違いなさそうだね」

「うん」

手紙の量が全てを物語っていた。

「中身を見るのも悪いし・・・整理するだけにしておこうか」

朱音が苦笑しながら言った。本当は触れずにおくのがいいのだろうが、紅流の扱いがぞんざいだったのか結構乱雑に仕舞われていたのだ。

「・・・・・・あれ」

日付を確かめていた緋里は声を上げた。

「どうしたんだい?」

脇から覗きこむ朱音に緋里は一通の手紙を見せた。

「書きかけになってるね・・・」

朱音が呟いた通り、日付が最後まで書かれていなかった。けれど途中まで書かれている部分と紙の状態から察するに、一番新しいものだろう。

「これ・・・クロアさん宛てだね。これがここにあるってことは・・・・・・」

「アカナさんの、最期の手紙・・・?」

「・・・届ける前に亡くなったってことか」

朱音が悲しそうに呟く。筆跡がかなり弱々しかった。おそらく亡くなる寸前まで書いていたのだろう。それほどに大事な友人なのだ。

そのとき、ある考えが頭をよぎった。

「じゃあ、クロアさんはずっと、アカナさんからの手紙を待っているんじゃ・・・・・・」

朱音は諦めたように首を振る。

「もう三十年も前の話だよ。向こうだって生きているか分からない。隠族は短命だからね」

「短命?」

「確か、寿命は百年くらいだったはずさ。あたしらの半分しかない。アカナさんの友達っていうんじゃそれなりの年齢(とし)だったろうし、まず間違いなく・・・死んでいるだろうね」

「そんな・・・・・・」

緋里は二人のことでひどく落胆している自分に気付いた。どうしてこんな、自分と全く関わりのない妖のことが気がかりなのだろう。

〝だから・・・・・・待っててくれないか〟

そう言って出て行った紅流は帰って来なかった。もし紅流が死んだことに気付かなかったら、朱音の言ったように彼が生きていると思い込んで、思い込もうとしていつまでだって待っただろう。

そしてそれはきっと黒亞も同じだ。紅那が生きていると信じて、ずっと手紙が来るのを待っていたに違いない。

知らなければ絶望すら出来ない。それは、知った上で絶望するより遥かに苦しいことだった。

「・・・・・・アカネさん」

緋里は意を決して口を開いた。

「・・・隠森に、行かせてくれないかな」

その言葉に朱音は目を瞠った。

「な、なに言ってるんだい突然!」

「この手紙を、届けてあげたい。クロアさんが無理ならその子供だっていい。アカナさんが死んだってことを伝えなくちゃ」

「そんなの手紙が届かなくなった時点で百も承知だろう!」

「そんなことない。きっとクロアさんは、ずっと待ち続けてる。アカナさんが生きてるって信じたままでいる」

「だったらそのままでも別にいいじゃないか!考え直しな、こんなときに出歩くなんてどうかしてるよ。隠森だって完全に安全って訳じゃないんだ!もしあんたに何かあったら、あたしは・・・!」

朱音が両肩を痛いくらい掴んで揺さぶる。その眼の真剣さに一瞬怯んで、けれど緋里は真っ直ぐ朱音を見返した。

「アカネさん、アカルが死んだとき言ったよね。生きてると思い込んで待ち続けるよりずっとよかったって。クロアさんだって同じだよ」

「緋里・・・・・・」

「お願い。・・・この手紙を、届けさせてください」

緋里は頭を下げた。この五年間の中で、初めてのことかもしれなかった。

朱音はしばらく黙り込んだ。何度も溜息をつき、やり場のない想いに苛立っているようだった。

「・・・・・・どうしても、行くんだね?」

ややあってからゆっくりと尋ねた朱音の眼は、僅かに揺れていた。

「・・・・・・・・・はい」

「・・・分かった、好きにするといい。その代わり、あたしも一緒に――」

「わたし一人で行く」

今度こそ朱音の怒りに触れたらしかった。

「何でそんな馬鹿なことッ!一人でなんて・・・そんなの絶対許さないよ!」

朱い眼を険しくして緋里を見据える。だが緋里は怯むことなく話を続けた。

「心配してくれるのは嬉しいけど・・・でも、わたしの帰りたい場所はここそのものじゃないから」

かつてこの家には紅流が居て、そして今は朱音が居る。今も昔も、緋里の帰るべき場所はここだ。けれどそれだけではなくて。

「アカルやアカネさんが・・・家族が居る場所が、わたしの帰りたい場所だから。だから、アカネさんがここに居るって思えば、わたしはちゃんとここへ帰って来られる。アカネさんには、わたしの道標で居てほしい」

緋里は微笑んだ。

「大丈夫、絶対帰ってくる。出来るだけ早く済ませてくる。だから・・・・・・待っててくれないかな」

そう言った瞬間、朱音が朱い眼を見開いた。・・・・・・そして、涙を零した。

「アカネさん?」

「いや・・・前にも似たようなことを言われたのを思い出してさ。あんたは、本当に・・・・・・・・・アカルに、そっくりだ」

「アカネさん・・・・・・」

朱音はゆっくりと緋里を抱き締めた。温かい雫が頬に触れ、そのまま流れ落ちていく。

どれほどそうしていただろうか。緋里を離したときにはもう、朱音は泣いてはいなかった。

「いいよ、分かった。五年前だってあいつのその言葉を信じて待つと決めたんだ。今度だって、待つさ」

そう言った朱音は、とても柔らかくて温かな笑みを浮かべていた。

「ちょっと待ってな」

朱音は棚の一番上から細長い桐箱を取り出すと、それを緋里に手渡した。

「・・・・・・これは?」

「開けてみれば分かるよ」

ふたを開けると、そこにあったのはあの懐かしい紅色で。

「アカルの額布。埋めずに取っておいたんだ。・・・持っていきな」

緋里は震える手でそれを手に取り、そっと胸に抱き締めた。

「アカル・・・・・・・・」

朱音は黙って緋里の肩を抱き、そして頭を軽く叩いた。

「・・・行って来な。あたしはここで待ってる。だから、必ず帰って来るんだよ」

「・・・・・・はい」

緋里は髪を束ねていた紐を解いて、代わりに紅流の額布で結び直した。

ずっと近くに感じられる紅流の温かさに眼を閉じる。これは紅流の想いだ。朱音はきっと、緋里だけでなく紅流の帰りも待っている。

朱音のため、そして紅流のために必ず帰って来ると決めて戸口に立つ。

「行って来ます・・・・・・・――お母さん」

振り返りざま放った一言に朱音は一瞬とても驚いたような顔をして、それから優しく微笑んだ。

〝姐さん〟と呼ぶのを拒絶されて以降、緋里が朱音に見出したのは“母”の温もりだった。不思議なほどにそれは自分の中でぴったりとはまり、いつしか緋里は朱音のことを母として慕うようになっていたのだ。

「・・・ああ。気を付けて、行っておいで」

朱い眼と眼が合う。どちらの瞳も僅かに揺れていた。

けれど、歩き出さなくてはならない。緋里は外の世界へと、一歩踏み出した。

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