朱音
いつまでそうしていたか分からない。
涙も声も枯れてただ紅流の手を握るだけになったころ、不意にお腹が空いた、と感じた。
「・・・はは、こんなときに何言ってんだろ」
薄情なものだ、と思ったけれど、それは当然のことだった。紅流は死んだけれど自分はこうして生きているのだから、お腹は空くしいずれ眠くもなる。いつまでもこのままではいられない。いつまた銀族が襲ってくるかも分からないのだ。
「とにかく、どうにかして運ばないと・・・」
緋里は紅流の両脇を掴んで運ぼうとしたが、あれだけ身軽に森を駆け回っていたのが信じられないほどその身体は重く、全く動きそうもない。
「どうしよう、これ・・・・・・」
「――どうしたんだい?」
不意に頭上から声が降ってきたのに驚いて振り返ると、頭上に居たのは一匹の妖だった。銀族かと一瞬身構えると、その妖は素早く人の姿に変化して樹から飛び降りた。
「そんな小さな身体じゃ運べないだろう。手伝って――」
赫族であったことに安堵して、緋里はそこで初めて彼女が女であることに気付いた。中性的な声で咄嗟には分からなかったのだ。
「・・・アカル・・・・・・やっぱり、死んだのか・・・」
こんなに間近で女の妖を見るのは初めてだった。紅流に女っ気がなかったうえ、赫族はもともと女がひどく少ないからだ。
「知ってるんですか」
「ああ・・・」
妖は屈んで紅流の手を取り、やりきれないような顔をしたが、そこで初めて緋里の存在を思い出したように視線を上げた。
朱い眼をした妖だった。緋里より少し薄い色の髪を後ろでまとめていて、普段見慣れた男の妖たちとは全く違う柔らかな身体つきをしている。女である緋里でさえ一瞬目を奪われたほどに美しい妖だった。
彼女はしゃがみ込んだ体勢のまま、じっと緋里を見ていた。その瞳がひどく動揺しているように見えて、緋里は怪訝な顔を向ける。
「あの・・・何か」
「あ・・・いや」
はっとしたように目を逸らしてから彼女は少しの間紅流と緋里とを見比べ、ややあってから再び口を開いた。
「あんた・・・・・・緋里ちゃん、だよね」
「そうですけど・・・・・・・もしかして、〝アカネ〟さんですか?」
死ぬ間際に紅流が探すよう言っていたのを緋里は思い出す。
「・・・ああ。アカルからあんたのことを頼まれたんだ。もしものときは――ってさ。まさか、こんなに早くに・・・・・・」
死んでしまうなんて、と朱音は目を伏せた。緋里も紅流の最期を思い出して唇を噛む。
「・・・とにかく、とっとと運ばなけりゃならなそうだね。ここにいつまでも居たら危ない」
朱音は変化を解くと、紅流を背負って緋里の方を仰いだ。
「とりあえず家まで運ぶよ。ついてきな・・・・・・緋里」
「はい」
緋里は頷いて、朱音の後を走っていった。
銀族に見つからなかったのは奇跡といってよかった。二人は無事に赫森の玄武極にある家に辿り着き、ひとまず安堵の息を吐く。
眠ったように横たわっている紅流の手をいつまでも握っている緋里に、朱音が申し訳なさそうに言った。
「・・・悪いが、葬式をしてやる余裕はない。一晩だけここに置いて、明日には埋める。いいね?」
「アカルがここへ帰って来られただけでもう・・・充分です。本当に、ありがとうございました」
緋里は朱音の方に向き直って頭を下げた。
「いや、あたしもアカルを放っておけなかったから・・・。生きてると思い込んで待ち続けるより・・・ずっと、よかったと思う」
大事な妖なのだということがひしひしと伝わってきた。きっと過去に大きな関わりを持っていたのだろう。
「それで・・・緋里」
朱音は緋里を見据えた。
「あたしとここで暮らす気はあるかい?・・・アカルに頼まれたこととは別に、あたしはあんたを引き取りたいって思ってる。でも最終的には、あんたが選ぶべきことだ」
緋里は、握った紅流の手をじっと見つめる。
紅流の帰る場所がここであるように、自分の居るべき場所もまた、この家だ。けれど朱音と共に暮らすかどうかは別の話である。
緋里は朱音へと視線を移す。
急かすことなく黙って緋里の答を待ってくれている、その朱い眼。薄赤い茶髪。全く違うのに、彼女はどこか紅流に似ている気がした。紅流と同じ温かくて懐かしい空気を持っているように思えた。
「・・・オレは、アカルと二人で暮らしてきたこの家が、オレの居場所だと思っています。離れる気はありません」
朱音は朱い瞳を揺らしながら、次ぐ言葉をじっと待っている。
「今日アカネさんと会って話すうちに、アカネさんの居場所もここなんじゃないかって、そう思えてきました。アカネさんだったら、今までアカルとしてきたように、一緒に暮らせるかもしれないって」
「じゃあ・・・」
「でも、オレはやっぱりアカネさんのことを何も知らない。・・・だからもっと教えてください、アカネさんのこと。アカルでは駄目だったけど・・・オレは、あなたとちゃんと家族になりたい」
どうして出会ったばかりの妖と〝家族になりたい〟だなんて思うのか分からないけれど、それを含めて朱音のことをもっとよく知りたいと思った。自分のことを知ってほしいと思った。
ふと気が付くと、朱音の柔らかい腕に包まれていた。とても温かいその感覚に、ひどく安心する。
「・・・ありがとう、緋里。ずっと・・・アカルと、家族になりたかったんだろう?」
その言葉で、枯れていたはずの涙がまた溢れ出してきた。
「・・・・・ずっと・・・・お父さんって呼びたかった・・・・・・紅の字だって欲しかった・・・・でもアカルが駄目って言うから・・・・・」
「・・・そうだね。あいつは、頑固だから」
「・・・・・死んじゃうなんて思わなかった・・・・・もっと一緒に居たかった・・・・」
「・・・あたしもだよ。あたしも、あいつとずっと一緒に居たかった」
幼い子供のように泣きじゃくる緋里の背中を、朱音はずっと撫でていてくれた。
「――荷物を取ってくるから、それまでおとなしくしてるんだよ。・・・緋里、放してくれないと行けないんだけど」
朱音は呆れたようにそう言ったが、緋里は抱き締める力をさらに強めた。
「・・・アカネさんも、帰って来なかったりしませんか・・・・・・?」
朱音は全てを察したようで黙りこんだ。
「・・・分かった、一緒に来な。その代わり絶対あたしから離れないこと。まだ銀族の奴らが居るかもしれない」
「分かりました」
突然朱音がそうだ、と思い出したように言った。
「男所帯で育っただろうから多少は仕方ないにしても、少しは女らしくする努力をしな。まずは・・・その〝オレ〟を何とかしなくちゃね」
朱音はそう言って不敵に笑った。
□■□
夢を見た。今から十年近く前、紅流が生きていて赫陽もまだ族長でなかった頃の。
ただの好奇心だった。紅流の元から抜け出してみたかっただけ。
家をこっそり出て、全く気付かれなかった自分に満足しながらまだ少し危なっかしい足取りで歩き出す。
今思えばそこは赫森と隠森の境界上で、緋里は少し細い道のようになったその場所を青龍方へと進んでいった。無邪気な笑顔にも段々と疲れが見え始め、やっと森の青龍極に辿り着くかというところで、その景色が一変する。
「・・・とおれない」
とても大きな巌、見ようによっては石碑のように見えなくもないそれによって道が塞がれていたのだ。その周辺の木々は妙に密集して生えており、回り道をすることも難しそうだった。
「どうしよう、かえろうかな・・・」
ここまで来て引き返すのも何だかもったいないような気がした――いや、そのとき緋里は巌の持つ不思議な引力に強く惹きつけられていたのだ。
この向こうの世界を、見てみたい。緋里は巌にそっと触れた。
『――だれか、いるの?』
声が、聞こえた。
「・・・・・・だれ?」
『やっぱりだれかいるんだ。ぼくは、“ソウ”だよ。・・・きみは?』
そんなはずはないのに、向こう側にいるその人が微笑んでいるのが見える気がした。冷たいはずの岩肌が熱を持ったように感じた。
「・・・あかり」
『あかりちゃんか。・・・ねえ、どうやったらそっちにいける?』
緋里は慌てて周りを見回した。やはりどう見ても抜け道があるようには見えない。
「わかんない。はじめてきたところだから・・・」
仕方がないので、二人はそのままの位置で話をした。
ソウは近くの村――葵村に住んでいる人間だと言った。緋里も自分が人間であることと、紅流たち妖と暮らしていることを話した。人間たちは、紅流たちのような者のことを〝ようかい〟と呼んでいるらしかった。
『〝ようかい〟を見つけたらそっとしておいてあげなさいっておかあさんがいったんだ。ねえ、あかりちゃんはほんとににんげんなの?』
ソウの言っていることが分からなくて、緋里は首を傾げた。向こうに見えるはずもないが、どうしてだろう、やっぱりそんな仕草さえも伝わっているようなのだ。見えていないのに、緋里は今はっきりとソウの顔を思い描けているのだから。
『あかりちゃんは、〝にんげん〟なんだよね』
緋里は頷く。
『でも、〝ようかい〟といっしょにすんでるんだよね』
また頷く。
『じゃあ、あかりちゃんは――』
そして、彼は言ったのだ。緋里の頭の片隅にずっと残っている、その疑問を投げかけたのだ――
目が覚めた。
〝あかりちゃんは、にんげんになりたいの?ようかいになりたいの?〟
「・・・・・・わたしは」
あのときの緋里は答えられなかった。おそらく今同じことを訊かれたとしても、答えることは出来ない。
「分かんないよ・・・・・・そんなの」
自分のことを一番理解できないのは、他でもない緋里自身なのだ。あのとき答えられなかったのはそれまでそれを考えたこともなかったからで。けれどあれから十年間ずっと考え続けても、やはり答えは出なかった。
緋里は布団から起き上がると、この五年で少し伸ばした髪を緋色の紐で結びにかかる。鏡のないこの家では手探りでやるしかないので初めは少し苦労したが、もうすっかり慣れてしまった。
「ソウくん・・・か」
あれから何度もあの場所へ行ったけれど、彼に再び会うことはなかった。
「会ったところで、答えは何も出せてないけど」
けれど、それでも会いたいと最近強く思うようになっていた。どうしてかは分からないけれど、無性に彼と話がしたくて。こんな気持ちになるのはあの頃以来だ、と思った。
「緋里、森へ出るよ。急がないとまた銀族が来る」
朱音が呼ぶのが聞こえて、緋里は慌てて彼女の後を追いかけた。