父の手
扉の開いた音がして、緋里は重い瞼を開けた。明け方までは起きていたのだが、やはり限界だったらしい。
「んなとこで寝てっと風邪引くぞ。ほら、起きろ」
紅流に抱き起こされて布団へと移動させられる。
「・・・どこ・・・・・行ってたんだ・・・・・・?」
「・・・ちょっとな。――それより緋里、もしかするとしばらく帰れなくなるかもしれねえ」
一気に眠気が覚めた。
「・・・どういうことだ、それ」
「ちょっとでかい仕事が出来ちまってな。当分は戻れねえと思う」
緋里は布団から身を起こした。
「どういうことだよそれ!当分って・・・じゃあオレもついてくよ!邪魔なんかしないし――」
「――駄目だッ!」
紅流はそう叫んで立ち上がる。
「お前は絶対に来るな!とにかく俺が戻ってくるまでは家に居ろ!」
「アカル・・・・・?」
いつになく険しい顔をしている紅流。今までこんな風に頭ごなしに怒鳴りつけられたことはなかった。はっきり怯えている緋里の様子を察したのか、紅流はゆっくりと目線を合わせると、手を伸ばし――ごく普通に、頭に手を置いた。
「大丈夫だ、必ず帰ってくる。出来るだけ早く片付けてくる。だから・・・・・・待っててくれないか」
きゅっと寄せられた眉はひどく哀しげで、だから緋里は頷くしかなかった。
「・・・・・・分かった、待ってる」
自分が待っていないと紅流は不安なのだ。それくらいに大きくて、大変な仕事なのだろう。
だったらいつまででも待つ。紅流がちゃんと帰ってくるまでこの家を守る。
「・・・・・・頑張って」
「・・・・・・おう」
紅流はにっと笑うと、そのまま家を出た。光の中に溶けていく温かくて大きな背中を、緋里はじっと見つめていた。
その扉が今――閉まる。
「――さっさとしろアカル。向こうがいつ攻め込んで来るか分からないんだぞ」
「悪い。どうしても最期に行っておきたいところがあったんだ」
「そう縁起の悪いことを言うなよ。・・・だが、その覚悟は必要かもな」
そう言うと眼を閉じた。
「今となっちゃ、血筋を守れなかったことだけが心残りだ」
「仕方ねえだろそんなの。女が少なすぎるんだ、赫族は」
もともと数の少ない赫族には、不幸なことに女の妖がほとんど居なかった。数えてみても十本の指で充分に事足りる。
「お前にはアカネが居たじゃねえか。何でものにしちまわなかったんだよ、勿体ねえ」
「・・・今言ってもどうにもならねえだろ、それは」
「・・・・・・そうだな」
今にも雨の降りそうな薄暗い空を仰いで、彼は小さく笑った。
「子供は嫌いじゃねえからよ。お前を見てたら、人間拾って育てんのも悪くないかもな、って思ってたんだ」
「・・・やめとけ。本当に落ちてたならともかく、迷子だったりしたらただの人攫いだ」
「緋里・・・だっけか?アイツは特別、だもんな」
そう言う彼は、暗に緋里が〝異形〟であると主張しているらしかった。紅流は何も言わない。こういう扱いには慣れた。それに彼は、異形だからどうと言っている訳ではない。単に緋里を識別する記号としてそう捉えているだけなのだ。
「・・・戦のこと、何も言わずに出てきたんだ」
紅流は溜息をついた。
「すぐに知れるぞそんなもん。何でそんな・・・」
「・・・ついて来るって言いかねなかったからな。現にちょっと出かけるって言っただけでついて来ようとしやがった」
緋里の不安そうな朱い瞳を思い出す。今にも泣き出しそうな、誰かによく似た瞳の揺れ方をして。
「・・・なんとなく分かったんじゃねえか?お前が、帰って来ないかもしれねえって」
「・・・・・・そうかもな」
けれど念は押してきた。絶対に外に出るなと。少しの間一人で暮らせるだけの食糧は置いてきたし、あの家は隠森のすぐ側で銀族が近付くとは思えない。おそらくは一番安全な場所だろう。それに、いざというときのことは考えてある。
「まあちゃんと帰れるようにお互い――おいアカル、伏せろ!」
銀族の影。
それをやり過ごしてから彼は慌てて変化を解いた。髪色と同じ毛の色に、頬の赤い一房。遠目からは銀族と見分けが付きにくい。
「おい、お前も早く・・・アカル、危ねえ!」
敵を見止めるのが遅れて間に合わなかった紅流に一体の妖が襲い掛かる。
「アカル――――ッ!!」
そしてその声を聞きつけた妖は彼の方にも飛び掛かり――
ずん、と地面が大きく揺れた。
「な、何?」
緋里は咄嗟に身を伏せると、机の下へ潜り込む。間を置かずに棚の上の古びたびんが落ちてきて、床の上で砕け散った。
「地震・・・?でも、それにしちゃあ揺れが短かったな・・・」
そう呟いてすぐに、また大きな震動。不定期に続くそれに、段々と机の脚を持つ力が強くなっていった。
血が通わずに冷えていく指先を見つめ、緋里は出かける間際の紅流の温かい手を思い出す。
「アカル・・・アカルに、何かあったんじゃ・・・・・・」
〝お前は絶対に来るな!とにかく俺が戻ってくるまでは家に居ろ!〟
「そんなこと言ったって・・・」
この揺れだ。紅流も同じような目に遭っているかもしれない。
紅流は右眼が視えない。他人より狭い視界でこの状況に晒されるのは危険だ。
「――ごめん、アカル!」
緋里は家を飛び出した。
「アカル!・・・丸さん!」
呼んでみるけれど返事はない。この騒音の最中で聞こえるはずもなかった。
木々を蹴って進みながら、緋里は混乱した頭のまま状況を把握しつつあった。
「戦が、始まったんだ・・・・・・!」
折り合いの悪かった赫と銀が巻き起こした、最悪の事態。嫌な予感は的中した。男の紅流はそれに駆り出されているのだろう。
「じゃあ、当分帰れないって・・・」
戦争が一段落するまでか、それとも・・・。
〝俺はそう簡単には死なねえ。緋里がでっかくなるまでは、絶対に死なねえよ〟
「アカルの馬鹿!こんなとこにいたら・・・死んじゃうかもしれないじゃんか!」
当分どころか、一生帰ってこないなんて考えたくもない事態にさえなり兼ねない。
負傷して倒れている妖が見えて助けに行ってやりたいと思ったが、今は紅流のことが気掛かりだった。妖体の紅流は今まで見たことがなかったけれど、おそらく髪と同じ毛色をしているはずだから赤茶色を探していればそのうち見つかるはずだ。
――見つけた。
見えたのは赤茶色と、非情なまでに鮮やかな赤色。
隣で叫んだ妖が襲われて倒れるのが分かったが、見てはいなかった。緋里の視界を捉えて離さないものが、そこにあったからだ。
赤茶色なだけなら見過ごすことも出来たかもしれないのに、その色は見たこともない妖の毛色ではなく、見慣れた人間体の青年の髪の色であった。頭の紅い額布と、傷のはしったその右眼は紛れもなく、
「アカル――――ッ!!」
〝それ〟が地面へと叩きつけられて初めて、緋里はそれが紅流であることをはっきりと認識した。
もつれる足で必死に駆け寄って、抱き起こす。紅流は両目を薄く開き、今にも消えてしまいそうな浅い息を吐いた。
「アカル!・・・アカル!!」
紅流は他の妖達とは違い、人間体のままだった。もしかしたらその所為で見つかりやすかったのかもしれないと思ったが、今はそんなことはどうでもよかった。
「あかり・・・か・・・・・・?なんで・・・ここに・・・・・・」
「そんなことどうでもいい!何で・・・何でこんな・・・・・・」
「・・・はは・・・・ドジ踏んじまった・・・・・・どこまでも・・・この眼は・・俺を邪魔しやがるらしい・・・・・・」
右手でその眼を覆い、紅流はゆっくりと瞬きをした。
「なあ、緋里・・・悪いが、約束は守れそうにねえ・・・・・・だから・・朱雀方へ行って・・・・〝アカネ〟を探すんだ・・・」
「何言ってんだよアカル、まだ助かるかもしれないじゃんか!勝手に諦めんなよ!」
「我侭言うんじゃねえよ・・・・・・」
「なあ、なあアカル帰ろう、一緒に家に帰ろう!きっとまだ大丈夫だよ、こんな怪我すぐ治る!」
きっと治らない。こんな見たこともないような酷い怪我、治せるわけがなかった。
「・・・わかった・・・・・・俺も、ちゃんと帰るから・・・・・・だから待ってろ・・・約束だ」
「アカル・・・お父さん!」
紅流はもうそれを咎めたりはせず、震える手で緋里の髪に手を伸ばす。
「大丈夫だ・・・緋里・・・・・・お前は・・・俺の――」
「・・・・・・」
緋里は黙ってその大きな手を掴んだ。そして、自分の髪をわしゃわしゃと撫でた。
――もう二度と動かないその手で、彼の癖を思い出しながら。
「・・・・・・ッ!」
こんなことになるなら、白刃取りなんて覚えなければよかった。最後まで紅流の温もりを受け入れていればよかった。
森の片隅で、少女はただ失った父を想って泣き叫んだ。