始まりは
長老が亡くなったのは、その翌日のことだった。
「アカヒさん・・・!」
「ああ、緋里ちゃんも来てくれたんだね。アカルなら向こうで呑んでるよ」
赫陽はそう言って広場の白虎方を指さしたが、それよりも今は彼の方が心配だった。
「大丈夫・・・ですか」
「・・・ありがとう、でも本当に大丈夫。これからは親父の仕事を完全に受け継ぐことになるんだ。しっかりしないとね」
そう言う赫陽の眼は昨日と同じようで、やはりどこか違っている。確かな意志を宿した強い色が現れていた。
「・・・頑張ってください、これから。長老の分も」
「・・・ああ」
けれど今は独りにさせてやるべきだと思った。紅流が今ここに居ないのは、きっと同じように思ったからだ。
長老の通夜。
赫森の中央にある開けた場所でそれは行われていた。妖達は火を囲んで大いに食べて呑み、思い出話に花を咲かせる。
葬式は宴。長老の魂が未練を残さないよう暗い顔は見せず、ただ笑って送り出す。それが赫族のやり方だった。
「アカル、オレ先に帰ってるから。酔ってるんだからちゃんと歩いて帰ってこいよ」
「おう!お前ももう暗いから気ィ付けろよ」
元々赫族は祭り好きではあるけれど、葬式にかこつけて呑んでしまおうという心構えで臨んでいる者はほとんどいなかった。長老はそれほどに大きな存在だったのだ。紅流も言うほど呑んでいない。
なんだかゆっくり歩きたい気分だった。
夜空を仰ぐけれど星は見えない。雲がかかっているようだった。
「長老が行くときには、晴れるといいなあ・・・」
死んだら星になる、と人は言うらしい。赫族の妖達もそれを信じている。
けれど、いざ身近な妖が亡くなってみるとそれも信じていいのか分からなくなってしまった。星はあんなにたくさんあるのに、長老が本当に星になったとしてそれをどうして気付けるだろう。こうして曇っていては新たな星が生まれるその瞬間を見られない。
長老が確かに死んだということが、分からない。
死んだ後誰もその姿を見つけてくれないのは、とても寂しいことのような気がした。
「・・・ッ」
堪えていた嗚咽が漏れる。
一人が泣き始めたら、それがほかの妖達にも広がってしまう。笑って長老を送り出すことが出来なくなる。だから宴が終わるまでは泣きたくなかった。けれど。
死んだ後どうなるかなんて知らない。でも長老は確かに死んだのだ。
それを認めて、受け入れなくてはいけなかった。受け入れられるまで泣くしかなかった。
けれどまだ駄目だ。ここでは他の妖に気付かれてしまう。
緋里は地を蹴った。木の根に何度も足をとられそうになりながらも走って、家に着くか着かないかくらいの場所まで辿り着いたところで膝をつく。
「――――!」
無茶苦茶に走った所為か、嗚咽を漏らそうとした喉はひゅうと渇いた音をたてるだけだった。。だが朱い眼からは大粒の涙が零れ落ちる。後から後から溢れて、夜の湿った土をさらに濡らしていく。
誰も知らない場所で、誰にも聞こえない声で、緋里は一人泣き続けた。
□■□
丸い世界の中で、橙色が月明かりを反射しながらきらきらと揺らめいている。
「――それ落ちるか?やっぱり自分で・・・」
「いいよ、元はと言えばオレの所為でこうなったんだし。アカルはもう寝て、疲れてるだろ」
緋里が木桶から目を離さずにそう言うと、紅流はそうか、と緋里の頭をぐりぐりと撫で回してから部屋へと戻って行った。
「・・・やめろって言ってるのに・・・・・・」
手の水を軽く切ってから、くしゃくしゃになった髪を直す。後ろからやられたのではどうしようもないが、そうでなくとも紅流の撫で回し攻撃を避けられたことなどない。
緋里は溜息をつくと再び手を水に浸け、橙に染まった紅流の額布を洗い始めた。本当はもっと前に洗えていたらよかったのだけれど、一昨日は帰ってきたのが遅かったし昨日は長老の葬式でそれどころではなかったのだ。
今日は、赫陽が本格的に族長の仕事を継ぐための引継ぎがあった。概ね長老との間で済んでしまっていたのだけれど、やはりそれだけでは足らないこともある。赫陽はこれまで以上に必死に仕事を学び始めた。
紅流は少し心配そうな顔をしていた。頑張るように声を掛けながらも、やはりまだ頼りないと思うらしい。
〝アカヒが族長を継ぐのには反対しねえしそれが一番良いとも思う。けどな、やっぱりまだ若すぎるんだ、あいつは〟
長老の年齢を考えればもう代替わりして当然だった。しかし息子の赫陽は遅い子供で、まだ成長しきっているとは言えない。何せ六十五である紅流より二十も若かった。
〝他の奴が継いだ方がいいんじゃねえかって話も出たくらいでな。だが俺と長老が反対した。あいつが成長するのを気長に待つべきだと思ったんだ、誰だって最初は未熟なもんだしな。けど・・・長老が死んだ今はそうも言ってられねえ〟
何かあっても支えられる妖が居ない状況は、成長するのに良いとは言えない。それは族長という仕事の大きさ故のことだ。
また、赫と銀の不穏な気配も紅流には気がかりらしかった。今まで以上に険悪な雰囲気になってきている両族の諍いの後始末を、未熟な赫陽が出来るのかどうかということだ。
〝下手すりゃ取り返しの付かないことになるかもしれねえ。・・・・・・考えたくはねえけどな〟
緋里は布をゆすいでいる手を止めた。
取り返しの付かないこと、とはどんなことだろう。普段から些細な喧嘩はたくさんしているけれど、そのうちもっと酷い怪我をするということだろうか。あるいは・・・死んでしまうということだろうか。
「・・・・・・そんなの」
そんなの、嫌だ。長老だけではなく赫陽、万一紅流まで失ってしまったら。
「アカル・・・・・・ッ!」
「――・・・何だよいきなり・・・・・・って何泣いてんだお前!どうした?」
欠伸をしながら部屋を出てきた紅流は、泣きじゃくる緋里を見て慌てたように駆け寄ってきた。
「・・・アカル、アカルは・・・死んだりしないよな?」
屈んだ紅流の着物にしがみ付いてそう聞く。聞かずにはいられなかった。安心したかった。
「・・・・分からねえ」
けれど紅流は非情にもそれを裏切った。
「妖がいつ死ぬかなんざ、誰にも分からねえもんだ。長老は二百で死んだし、俺は明日死ぬかもしれねえ。どうしようもねえんだよ、そういうのはな」
紅流は微笑んで緋里の頭を撫でる。
「――けどな、約束してやる。俺はそう簡単には死なねえ。お前がでっかくなるまでは、絶対に死なねえよ」
髪に触れている紅流の大きくて固い手が、とても心地よかった。
「・・・・・・うん」
その優しい手に抱かれながら、緋里は静かに目を閉じた。
□■□
「――はい、アカル」
一応綺麗にはなったが、若干端の方に橙色の残ってしまった額布を紅流に手渡す。
「おう、ありがとよ――」
「えい」
緋里は頭上でぱしっと、伸びてきた紅流の手を止めてみせた。
「・・・また撫で回す気だろ。髪がくしゃくしゃになるからやめろ」
「これを止められるようになるとはな・・・成長したじゃねえか」
褒められても全く嬉しくない成長ではあったが、緋里はどうやら白刃取りとやらを習得できたようだった。何が悲しくてこんなものを覚えなくてはならないのか。
紅流はそのままおとなしく額布を受け取り、赤みがかった短い茶髪のうえから結んでみせた。
「やっぱこれがねえと締まらねえな。――じゃ、行くぞ緋里!」
そう言うな否や、紅流は家を飛び出してあっという間に樹の上まで飛び上がってしまった。
「今行く!」
緋里も負けじと樹に素早く登り紅流の後をついて行く。男の多い赫族で育ったが故に培われた身体能力でもあった。
月に一度の妖集会は、赫森中央にある広場で行われていた。途中で紅丸も合流し、朱雀方へと進んでいく。
「――流さん、先に行って見て来たんですが、どうも様子がおかしいですよ」
小さな瞳を不安そうに曇らせて言う紅丸に、紅流は怪訝そうな視線を送った。
「ざっと見ただけですが銀族の数が少なすぎる気がします。いや、もしかしたら全く居ないかもしれません」
「・・・どういうことだ」
「そこまでは。ただ、何かが起こったのは間違いないかと・・・」
「・・・・・・・・・」
思案気に眉を寄せる紅流を横目で見ながら、緋里は昨夜感じた不安が静かに胸の中を浸していくのを感じていた。
「――じゃあ、ここで待ってろよ。勝手にどっか行くんじゃねえぞ」
「子供じゃないんだから、そんなに心配するなよ。大丈夫」
「十なんてまだまだ子供だろうが。いいか、ちゃんとここにいるんだぞ」
何度も念を押す紅流をなだめて集会に行かせる。緋里はいつも参加させてもらえず、近くの樹の上で終わるのを待っているのが常だった。人間である身を考えれば妖の、特に銀族の前ではあまり姿を見せるべきではないというのは当然のことだ。しかし赫族のほとんどの妖に受け入れられている今、緋里のそうした警戒心は弱まるばかりであった。
「見た目はおんなじだしな・・・」
人の身体に赤い紋。緋里は赫族の外見そのものの姿であり、違うとすれば〝匂い〟くらいしかなかった。けれど常に妖体であり鼻の利く銀族にとって、その違いは大きい。
人を蔑む銀族。彼らに見つかれば緋里の命はない。紅流には何度もそう言われてきたけれど。
「大丈夫なんじゃないかなあ・・・」
優しい赫族と、基本的には生真面目なだけに見える銀族。違いはそれほどないように思えた。それでなくとも妖体は両族ともよく似ているのだ。赤い一房があるかないか、爪や牙が鋭いかそうでないか、それくらいの違いしかない。
緋里は銀族の姿を探した。しかしどこを見てもその姿は見えない。
「・・・丸さんの言ったとおりだ・・・・・・」
よく見れば赫族たちもざわついているようだった。そのおかげで中央に立って話す赫陽の声は聞こえない。
「何を話してるんだろう・・・」
そう呟いた直後、集会が終わったようだった。紅流がこちらに向かって駆けてくる。
「あ、アカル――」
「緋里!悪いが一人で帰っててくれ、ちょっと用が出来た!」
「え?良いけど、少しくらいなら待ってても・・・・・・」
「いいから帰ってろ!遅くなるかもしれねえ」
紅流はそれだけ言い残すとさっさと行ってしまった。その姿をしばらく見送って、緋里はひとり首を傾げた。
「・・・何だ、用事って?」
朱音は樹の幹に額を預けた。
「――やっぱり若すぎたんだよ、あの子は・・・。アカヒじゃまだ長老の役目は果たせなかった・・・」
しかし今更嘆いてももう遅い。もう、戦争は始まってしまったのだ――
「――アカネ」
懐かしい声にばっと振り返ると、そこに立っていたのは紛れもなくあの男で。
「・・・少し、話がある」
紅い左眼を真っ直ぐこちらに向けて、紅流は静かにそう言った。