右眼の紅色
日が沈んでも、朱音がやってくる気配は一向になかった。
「何やってんだ、あいつ・・・・・・?」
いつもだったらすぐに家の戸を鳴らすのに、しばらく待ってもさっぱりその音が聞こえない。
「・・・まさか、何かあったのか・・・・・・?」
何故かは分からないが、ただとても――嫌な予感がした。
この数十年で、右眼のない生活にもすっかり慣れてきていた。素早く木に登り、上から朱音の姿を探す。
「どこ行ったんだ、あいつ・・・!」
そのまま森を探し回っていると、不意に下から声が掛かった。
「どうしたんだい、アカル?」
「陽!お前、アカネを見なかったか?」
切羽詰ったように訊く紅流に赫陽は面食らいつつも答えた。
「アカネ姉さんなら確か、親父の用で銀森に行ったと思ったけど。でももうとっくに戻ってもいい頃じゃないかな?」
「銀森か・・・。悪い、陽!助かった!」
銀森へ行ったのなら、朱音は朱雀極の川沿いを歩いているに違いない。暗い中木を渡っていくのは危険だ。
母から受け継いだ紅い眼のおかげで夜目は利く方だったが、一刻も早く朱音を見つけたくて変化を解き、地を駆けて朱雀極へと向かった。
「くそッ、胸騒ぎがしやがる・・・!」
不気味なほど森は静かで、だからこそ紅流は近くで物音がしたのにすぐ気付くことができた。
「・・・あっちか!」
一目散に駆け寄って、そこで紅流の左眼に映ったのは――樹に押し付けられた朱音の白い身体と、それに覆いかぶさるようにして彼女を弄ぶ人間の男の姿だった。
それを理解した瞬間に、紅流の理性は消し飛んだ。
ただ吼えて、怒りに任せて男の左腕を喰い千切り、這いつくばりながら必死で逃げる男を赫森の外へ追いやる。どこかで男の悲鳴が聞こえた気がしたが、知ったことではなかった。
崩れ落ちる朱音の裸体が視界の隅に映ったとき、紅流はやっと我に返った。
「――アカネ!」
「・・・アカ・・・ル・・・・・・?」
人間体になって朱音を抱きかかえると、彼女は一瞬薄目を開けたがまた気を失った。
「・・・こんな・・・・こんな・・・・・・ッ!」
どこで、間違えたのだろう。何故こんなことになってしまったのだろう。
「俺は・・・何も出来なかった・・・・・・!」
人間体のまま、紅流は空に吼えた。獣としての本能のままに吼えた。
その頬を涙が伝っていたことは、誰も知らない。
とりあえず家に運んで、朱音に毛布をかけて寝かせた。
「ん・・・」
しばらくすると、朱音が呻き声を上げた。
起き上がろうとするのを支える。朱音はぼんやりした風に紅流を見やった。
「アカル・・・・あたし・・・・・・・・・」
「何も言わなくていい。・・・まだ、辛いだろう」
身じろぎした瞬間自朱音は自分の身に起こったことを思い出したのか、身体を強張らせた。
自分が何かしていれば、この状況を変えられたのだろうか。無理やりにでもいいから自分のものにしてしまえばよかったのだろうか。
しかしそれではあの男と何も変わらないと紅流は首を振った。
愛しい女をこんな形で奪われて、悲しさと悔しさだけが胸にわだかまっていた。
震える身体を懸命に抑えつける朱音を見ていられなくて、紅流はその腕をほどいて抱き寄せる。
「堪えるな。全部吐き出しちまえ」
何も出来ないならばせめて、痛みが少しでも和らぐまで側にいてやりたかった。
「――・・・アカル・・・・・・・・・ッ!」
泣き始める朱音を胸に抱きながら、紅流は考える。
それは建前だ。きっと結局はこうして朱音を抱き締めたかっただけで、彼女の隙間に入り込みたいだけで、それであわよくば自分のものにしてしまえたらという見下げた真意があるだけなのだろうと思った。
そんなものだ。朱音が普段見ているような兄としての顔なんて、こんなにも簡単に剥がれてしまう。どこまでも自分は卑怯で、臆病で、最低な男だった。
「・・・落ち着いたか?」
「・・・ああ。悪かったね」
そう言うと朱音は、ゆっくりと紅流から離れた。
「なあ・・・流」
「どうした」
朱音の言葉は、か細くてよく聞こえなかった。
「なんだ?」
「・・・・・・・・・好き・・・・・・っ」
「――ッ!?」
アカルははやる鼓動を無理やり押さえつけた。駄目だ、期待してはいけない。他意なんてないのだから。
「・・・そうか」
「・・・あんた、ちゃんと意味分かってる・・・・・・?」
朱音は俯いたまま尋ねる。
「・・・兄貴として、だろ。そんなの今更――」
言いかけた口を塞がれる。紅流は突然のことに左眼を見開いた。
「・・・やっぱり分かってないよ、あんた」
唇をほとんど離さないまま朱音は呟いた。潤んだ朱い瞳が紅流を見つめる。
「・・・自棄になってないか、お前」
それでも期待してはいけない、と想いを押し殺して言う。
「・・・ッ!」
だがすぐに後悔した。
「・・・自棄、だって・・・?そんな気持ちでこんなことするような女だって・・・思ってたのかい、あんたは・・・!」
朱音は本気で泣きそうな顔をした。紅流は慌てて溢れかける涙を拭ってやる。
「・・・いや、だってお前は・・・・・・」
一族で一番の女。そんな朱音が、幼馴染だからといって紅流を選ぶとは到底思えなかった。
「あたしが、何だってんだよ・・・・・・!あたしは、ただ・・・」
朱音は紅流の胸にしがみ付く。
「・・・あんたの側に、居たいだけなんだ・・・・・・!」
〝あんたの右眼に、なりたいだけなんだ〟
完全に重なった。
「あんたじゃなくちゃ、嫌なんだよ・・・!」
ようやく紅流は、あの言葉の本当の意味を知る。
「なんだよ・・・・」
こんなにも、前から。
「ずっと、気付いてなかっただけじゃねえか・・・・・・!」
ずっと想われていたのに、それから目を背けていただけだった。今までどれだけ彼女を傷付けてきたのだろう。
「・・・・・・流」
視線を落とすと、朱音が見上げてきた。その朱い眼はそっと揺れていて、紅流は彼女の求めていることを悟る。
「けど、お前・・・・・・」
あんなことをされたあとで、などと言えるわけがなかった。
「・・・・・・音」
もう逃げるわけにはいかない。
紅流はやっと、自分から朱音に唇を重ねた。
朱音の腹には子が宿ったが、紅流の子かあの人間の子かは分からなかった。
しかし紅流は迷わず身重な朱音を支える方を選んだ。放っておくわけにはいかなかったのもあったが、ただ愛しい女と暮らせることに何ものにも代えがたい幸福を見出していたのだ。
そしてその日は訪れた。
朱音から生まれ落ちた赤子を見た瞬間、紅流は戦慄した。
「人間・・・・・・」
それは人間の姿をしていた。赫族は人間に変化することは出来るが、それはあくまでも成長と共に身に付けるものであって、生まれたときから人間の姿であるわけではない。
あの忌々しい男の子供だと分かっても、無下には出来なかった。これは朱音の子でもあるのだから。
そう思った瞬間、子が小さな目を開いた。紅流は目を疑った。
「どういうことだ・・・これ」
彼女の眼にはあるはずのないものがあった。
一体何故こんなことが起こったのかは分からない。しかしこのことは朱音には伝えるべきではないと思った。
「死んだ・・・・・・・・・?」
朱音の声が強張る。申し訳ない気持ちになりながらも、紅流は嘘を重ねるしかなかった。
「・・・・ごめん、ちょっと・・・・・・・・独りにしてくれないか」
もう彼女と元に戻ることは出来ないと悟りつつ、紅流は部屋を出た。
紅流は一人で子供を育て始めた。
人間の子を産んだとあれば朱音は奇異の目を向けられるに違いなく、それは堪えられなかったのだ。しかし紅流が子を育てているという噂はあっという間に広まってしまい、紅流は慌てて拾った子供だと弁明した。一緒に暮らしていた時期があるため紅流に子が居るならばその母親は朱音とされるに決まっており、そうなればまた同じことだ。
「いいか、緋里。俺はお前の親父じゃねえ。絶対に〝父ちゃん〟とか呼ぶなよ?」
念を押すと幼い緋里は首を傾げる。
「じゃあ、おとーさん」
「それも駄・目・だ。とにかくそんな風に呼ぶんじゃねえぞ、いいな?」
小さなうちはまだよかったが、大きくなるにつれ緋里はそれでは納得しなくなってきた。
「・・・なあアカル、オレも〝紅〟の字欲しいよ」
同じ文字を受け継ぐことは、家族の証。認めてやることは出来なかった。断るたびに緋里はひどく傷ついたような顔をして、いたたまれなかった。父親に否定されることがどれだけ痛いか、父親の居なかった紅流には分からない。だが朱音を守るからといって、いつまでもこんな嘘を重ねていていいのかという疑問も生まれ始めた。
葛藤している間に、ついに均衡は崩れた。
「――俺にもしものことがあったら、緋里を引き取ってくれないか」
朱音に全てを打ち明け、紅流は頭を下げた。
「そんな、縁起でもないこと・・・!」
「だが覚悟は必要だ。お前しかいないんだ、頼む」
朱音は朱い眼を揺らす。
「・・・アカル。やっぱり戦に行くのはやめにしないかい?あんたは右眼のこともあるし、無理強いはされないだろ」
「俺が左眼だけでやって来れてるのは皆分かってる。特別扱いなんかしねえよ」
そう諭すと朱音が腕に縋りつき、涙を零した。
「・・・行かないでくれよ、あんたが居なくなったら、あたしは・・・・・・!」
紅流は朱音の両肩を掴んだ。
「・・・大丈夫だ、必ず帰ってくる。出来るだけ早く片付けてくる。だから・・・・・・待っててくれないか」
なおも朱い眼を揺らしている朱音に、紅流は静かに口付けた。
その頬が濡れていることに気付いたが、朱音はもう何も言わなかった。
そして紅流は戦に赴き、命を落とした。
朱音との約束も、緋里との約束も破ってしまったが、紅流は満足していた。
この右眼に邪魔されることが自分の運命だというのなら、それも構わない。何故なら――




