静かな予兆
緋里は、一言で言えば〝異形〟という存在だった。
人の群れの中に居る妖が異形であるように、妖の群れの中にいる人もまた、異形である。
しかし緋里が異形と呼ばれる所以は、それだけではなかった。
緋里は、ただの人の子ではなかった。両頬に生まれつき赤い筋が走っているのだ。
赫族の妖は本来狼を一回り大きくしたような姿をしており、その両頬には赤い毛が一房生えている。これは元の部族から独立した証として染めたものが子孫にも受け継がれているらしいが、この紋は人間に変化した時でも筋として浮かび上がる。つまり、緋里の頬にあるそれは赫族である証なのだ。人間でありながら、妖でもある。そんな〝異形〟というほかない存在。
しかしそれ以外は、少しばかり運動神経が良いだけのいたって普通の人間であった。
「――緋里、とっととその実寄越せ!急がねえとじいさんが・・・」
「アカル、投げるから!いくぞ!」
「いいぞ、来い!」
緋里は木の下で手を振っている紅流めがけ、オレルの実を投げつけた。
「あ」
「・・・・・・おい、緋里。これは何の冗談だ・・・?」
見事顔に命中したその実は、紅流の額布を見る見る橙に染めていった。
「ごめん、つい日頃の恨みが」
「んなこと言ってる場合か!折角の実が台無しじゃねえか!」
橙色の顔で怒鳴りつける紅流に舌を出す。
「大丈夫だよ、もう一個あるから」
「いい分かった。お前が投げんの下手くそなのはよーく分かったから。おとなしく懐に入れて降りて来い」
「・・・へーい」
緋里は肩をすくめると、紅流の言う通りに樹を降りていった。
「――遅くなって悪い。これで良かったよな?」
紅流が取ってきた実を見せると、赫陽は頷いてそれを受け取った。
「ありがとう、助かったよ。アカル、緋里ちゃん、帰ってきて早々悪いけど、ちょっと水を汲んできてくれないかな。親父が欲しがってるんだ」
赫族の若き族長赫陽は長老、先代の族長の息子だ。既に二百歳近い長老の身体を心配してその役目を受け継いだのは五年ほど前のことで、少しずつ族長としての仕事にも慣れてきている。
「オレが行って来るよ。アカルはアカヒさんを手伝ってやって」
「おう、頼んだぞ」
赫陽の家の側には大きな川があった。汲んできた水を零さないように注意しながら運びつつ、緋里はぼんやりと考える。
長老が突然倒れたのは、十日ほど前のことだった。
代替わりしたとはいえ赫陽はまだまだ未熟で、仕事の約半分はまだ長老が行っていた。そのうちの一つが、他部族との諍いの後始末だった。こればかりは長年平和を保ち続けてきた長老の人柄を頼らざるを得ない。
認める赫。蔑む銀。畏れる隠。部族の違いは、人間に対する姿勢の違いでもあった。
特に赫族と銀族は昔から争いが絶えず、喧嘩が起きるたびに長老が先方の族長に謝罪しに行っていた。しかしこのところそれが頻繁に起こっており、それに対する対応に追われているうちに過労で倒れてしまったらしい。
「長老、死んじゃうのかな・・・?」
緋里は足を止めた。自分で言った台詞に自分で恐ろしくなった。考えたくもない、そんなの。
〝緋里はいい子だね。さすがはアカルの子だ〟
長老はよくそう言って、皺だらけの細い目をさらに細めて笑った。
俺はお前の親父じゃねえ、といつも一蹴される自分を紅流の娘として扱ってくれる、そんな長老が好きだった。血は繋がらないけれど、長老は緋里の祖父のような存在なのだ。
「死んじゃ嫌だよ、長老・・・」
今自分が出来ること。
「・・・早く、水届けなくちゃな。長老が待ってる」
緋里は朱い眼に再び力を灯して赫陽の家へと歩き出した。
「――アカル、長老は!」
「戻ったか。・・・大丈夫、今は寝てるよ」
緋里はその場にへたり込んだ。
「よかった・・・」
「・・・よく頑張ったな。重かったろ」
紅流が安心させるように緋里を抱き寄せ、頭を叩いてくれる。その瞳はひどく優しい。
紅流の右眼には縦に傷が刻まれており、無論視えてもいない。今紅流にあるのは左の視界のみであり、しかし彼はそれを不自由にはしていないようだった。昔からそうなので慣れているらしい。
いつからだろう、緋里は紅流が見ている世界を知りたくて、時折右眼を閉じるようになった。紅流の右眼でありたいと思った。実際に本人にそう言ったこともあったけれど紅流は、それはお前の背負うことじゃないと微笑むだけだった。
「・・・お父さん」
「・・・〝お父さん〟じゃねえよ、悪いけどな」
やっぱり認めてはくれない。
「・・・なあアカル、オレも〝紅〟の字欲しいよ」
「・・・・・・駄目だ」
「丸さんは持ってるのに」
「あれはあいつが勝手に名乗ってるだけだ」
「じゃあオレも勝手に名乗っていい?」
そう言うと紅流は黙り込んだ。勝手に名乗るのでは駄目なことは、自分が一番よく分かっている。
同じ文字を名乗ることは、家族の証だった。親から子へ受け継がれていくものなのだ。けれど紅丸のように、血が繋がっていなくても同じ文字を名乗ることはある。つまりは家族も同然の気持ちでいるということだ。
しかし緋里は、未だに〝紅〟の字を受け継ぐことを許されずにいた。
・・・勝手に名乗るのでは、本当には家族になれない。紅流の娘にも、右眼にもなれない。
「・・・オレは、アカルの家族になりたいよ」
紅流は、やはり何も言わなかった。
いつの間にか眠ってしまっていたようだった。緋里を抱きかかえたまま壁にもたれて眼を閉じている紅流も、やはり眠っているらしい。その寝顔を見て、いつもしている額布が橙に染まったままなのに気付いた。さっきオレルの実で染まったものだ。
紅流の紅い額布は、母の形見らしい。
橙色の染みをそっとなぞると、小さくうめき声を上げて紅流が眼を開けた。
「ごめん、起こした?」
「・・・いや、どのみちこのままここに居ても何も出来ねえ。そろそろ帰るぞ」
紅流が立ち上がると、赫陽が長老を起こさないよう静かに部屋を出てきた。
「すまないね、アカル。本当に助かったよ」
そう言って頭を下げると、
「いいって、気にすんな。それより、族長が軽々しく頭下げんな。それだからいつまでも威厳がねえって言われんだぞ、陽?」
紅流はにっと笑って赫陽の頭をぐりぐりと撫で回す。族長にしては若いとはいえいい年をした妖に対してなんという遠慮の無さだろうと思ったが、それでこそ紅流であり、紅丸に〝兄貴〟と慕われる所以でもあるのだろう。
髪の毛をぐしゃぐしゃにされながらも赫陽は陽気に笑った。
「そうだね・・・ありがとう、アカル。アカマルではないけれど、〝兄貴〟と呼びたくなる気持ちも分かるよ」
「だから、仮にも族長がんなこと言うんじゃねえ」
紅丸のことを出されると紅流は苦い顔をした。誰が見てもそういう兄貴分的な素質があるのに、当人は「柄じゃない」の一点張りである。案外自分では分からないものなのかもしれない、と緋里は内心肩をすくめた。
「アカル、行こう」
「おう、じゃあな、アカヒ。じいさんを頼んだぞ!」
紅流が大きく手を振ると、赫陽は小さく微笑んで頷いた。