玄威
時代は七百年前まで遡る。
赫族がまだ誕生していない、思想に関係なく単純に種族の違いだけで部族が決まっていた時代。銀森・隠森はその頃から存在していたが、銀門・隠都はまだなく、隠族と銀族との交流も盛んだった。
「・・・どうも文字は好かんな」
銀麒はそう呟いて足元の文書を見下ろした。
そもそも文字を書く手を持ち合わせていない銀族にこのような文書を送りつける方がどうかしている。もっとも覚えさえすれば読むことは出来るのだから、返書の不要な文書であれば問題はない訳だが。
「私も、文字を覚えるべきだろうか・・・」
銀麒は溜息をつく。
長年文字という概念がないまま生きてきた銀麒にとって、それを一から覚えるというのはかなり億劫な作業に違いなかった。もっともそれは他の妖達も同じなので、単に銀麒が無精なだけとも言える。
森の外の人間との交流が始まったのは、今から十年ほど前のことだった。彼らは文字のほか、妖達に様々な文化を伝え、それらを次々と吸収して妖達は発展を遂げていった。
中でも目を見張るほどの成長をしたのは隠族だった。もともと持ち合わせていた勤勉さと好奇心の強さによって、人間と変わらぬ生活が出来るまでに急速に発展していく。
銀族も文字を覚えることはしたが、人間のような器用な指は持ち合わせていないため全ての文化を吸収することは出来なかった。その点隠族は物を操ることが出来るので苦労しない。
銀族は返書が必要であれば隠族に依頼し、彼らもそれを快く受け入れた。信用故に成せる業である。
ただ、銀麒の元に来る文書は他のものとは訳が違う。
「誰に頼めば良いものか・・・」
銀麒は銀族の族長、銀叉の息子であった。故に彼の元へ届く文書の中には口外無用の機密文書も含まれており、その返書を依頼するからにはよほど信頼の置ける妖でなくてはならない。
そもそも文字の読めない銀麒には、文書を寄越されてもそれが返書を要するものなのか判断がつかない。既に七十近い銀麒にとって、文書を読み上げてもらうなど恥ずべき行為でしかなかった。
「・・・涼みに行くか」
そうやってまた放り出して、銀麒は森の中を歩き始めた。
夏のじりじりと焼けつくような太陽の下で、銀麒は立ち止まった。
いつも涼みに入る木陰には、先客が居るようだった。
『――あら、お邪魔だったかしら?』
宙に浮いた書物、もといそれを浮かせている妖がそう言った。銀麒は首を振る。
「・・・いや、問題ない。私が移ろう」
『そんなの悪いわ。・・・迷惑でないなら一緒に入らせてもらえるとありがたいのだけれど』
「・・・構わないが」
どうやら族長の息子とは知らないらしい。現在の銀族の長は絶対的な権力の象徴であり、故にその後継者である銀麒を誰もが取り巻き、あるいはそれにひれ伏した。
銀麒は木陰の下に入ると、そこへ伏せた。
『あら?あなたは・・・』
その妖はふと書物を捲る手を止めた。銀麒は慌てて言葉を被せる。
「いや、私は・・・白太!そうシロタだ!」
出来れば自分のことは知らないままで居てほしかった。権力の絡んだ関係にはなりたくない。銀麒は族長という存在が、それに甘んじている父が嫌いだった。
『・・・シロタ、さんね?』
「ああ。・・・そうだ、あなたは何と言うのだ?」
『私?』
妖は書物をぱたんと閉じた。
『私は玄威。ごめんなさいね、お邪魔してしまって』
「いやいや、別に構わない。気にするな・・・あ」
いつもの調子で上から物を言ってしまい、銀麒は顔をしかめた。後継者として振舞えば振舞うほど、それは身体に染み付いてくる。こんなものに慣れたくはなかった、と銀麒は溜息をついた。
『ふふ、面白い妖ね』
玄威は何が可笑しいのかくすくすと笑った。銀麒はなんとなく具合が悪くて目を逸らす。
「・・・何を読んでいるんだ?」
『人間の持ってきた書物よ。とても興味深いわ』
「そうか」
それほど気になっていたわけではなかったが、何の気なしに覗きこんでみるとやたらと複雑な文字が並んでいる。
「・・・よく分からないが、どういう内容なのだ、それは?」
『この国・・・私たちの知っている人間たちのものではないらしいわ。もっと遠くの人間たちが書いたものよ』
「遠くの?」
『ええ。海の向こうのね』
銀麒はどこを見るともなしに遠くへ目線をやった。
「海・・・か。話には聞くが、直に見たことはないな」
『私もよ。いつか、ちゃんと見てみたいわ・・・』
銀麒はしばしその光に見惚れた。やけに抑揚の少ない光り方をする妖だったが、このときだけはきらきらと輝いていた。
「・・・綺麗だ」
思わずそう口に出してしまいはっとする。
『海のこと?見る前からそんなことを言っていては勿体無いわよ』
玄威はそう言ってまたくすくすと笑った。
それからというもの、いつもの木陰に行くと毎日彼女と出くわすようになった。彼女もここが気に入ったらしいが、それを知っていて通いつめている銀麒には多少の下心がないではなかった。
玄威はとても穏やかな女性だった。いつも木陰で書物を読んでいて、隠族の中でもかなりの博識であることが窺い知れる。信頼の置ける妖だと心からそう思えた。銀麒はしばしば自分の元に届いた文書を玄威の所へ持っていくようになり、玄威はそれを読み上げつつ噛み砕いて説明をし、その上返書も書いてくれた。いつしか文書は彼女に会いに行く格好の理由になっていき、銀麒はますます文字を覚える気を失くしていった。
『いいかげん文字を覚えたら?私が教えてあげるわ』
それはそれで魅力的な申し出ではある。
「・・・いや、やはり面倒だ」
だが、彼女に会うための理由が無くなってしまうのは嫌だった。結局のところ銀麒は、玄威に恋をしてしまっていたのだ。
しかし、何度もそれを繰り返す内に銀麒は簡単な挨拶文くらいなら読めるようになっていった。
「・・・理由も無いのに、会いに行ってよいものだろうか・・・・・・?」
そう呟きつつも手ぶらで向かうのはいつもの場所で。そこではやはり、彼女が書物を読んでいた。
『あら、シロタさん。・・・シロタさん?』
「あ、いやなんでもない。何だ?」
〝白太〟は咄嗟に名乗った偽名なので、自分のことだと気付かないことがよくあった。玄威から名前で呼ばれることなどほとんど無いので余計かもしれない。
『今日は何を持ってきたの?』
「いや・・・今日は何も」
『あら、じゃあ何故ここに?』
銀麒は彼女の隣に伏せながら言った。
「今日はその・・・涼みに来ただけだ」
『・・・ふふ、変な妖。木陰なら他にもたくさんあるじゃない』
痛いところを突かれてぐっと詰まる。くすくすと笑う彼女には何もかも見透かされている気がしたが、銀麒は平静を装って答えた。
「・・・話し相手が居ないと、つまらん」
玄威はまたくすくすと笑った。
相変わらず抑揚のない彼女は、なかなか感情が読めなくて困る。銀麒の反応を見て楽しんでいるんじゃないかというふしさえあったが、どうしてかそれを心地よく思う自分が居た。
全く違う種族の妖を好きになるなんて思わなかった。そもそも誰かを好きになったことなどない銀麒は、こういうときどう接したらいいものやら分からない。けれど、玄威に想いを告げたいという気持ちは日に日に強くなっていった。異種族間の婚姻は認められるのだろうか、と本気で考えたりもして。
そんなある日のことだった。
「――あの妖共、何かに使えませんかねえ?」
「隠族とかいう奴らはなかなか使えるだろう。もっと交流を活発にすべきだ」
「ですが今のままでは・・・」
「あの出入りもままならん陰気な森が気に入らんな。隠森、だったか?」
「ええ。――分かりました。あたくしにお任せ下さい」
「何か策でもあるのか、利吉?」
「もちろんですとも。必ずやこの利吉が、満足のいく結果を出してみせましょう」
利吉、と呼ばれたその男は不敵に笑った。
「人は集まったか」
「ええ。・・・で、どうするんです利吉さん?」
利吉は眉一つ動かさぬままこう言い放った。
「――焼き払え」
「・・・今、何と?」
「焼き払えと言っている。あんな入り組んだ森、我らには邪魔でしかない」
「ですが、それでは妖達が・・・」
隠族の生態を知っている男はそう言いすがる。
「それでいいのだ」
「・・・どういう?」
「あの男が旨い汁を吸うというのならば、いっそ化物共ごと灰にしてくれる!さあさっさとやれ!」
利吉の濁った暗い眼に、男は何も言えなくなる。
「・・・承知致しました。――者ども、火を放て!」
隠森は、炎に包まれた。




