生き血を啜る、贖罪の子は踊れ 8
ひとしきり話が終わってしまうと、Kは何か思案にふけるように黙って酒を飲んでいたが、やがて外が騒がしくなっていることに気づいた。どこかから男の声が聞こえ、窓の外には軒からの明かりがぽつぽつと見受けられた。娘はこれに小さい悲鳴を上げた。何だどうしたんだ、とKが訊いたが、娘はそれに答えられなかった。ただじっと部屋の壁を見て、唇を震わせていた。
「お初、何がどうしたのかおれに言ってくれ」と、Kも必死になって問いただした。
「またきっと出たんですわ」
「何がだ」
「鬼です。餓鬼に違いありませんわ」
「なんだと!」
Kはこう叫ぶと、あわてて立ち上がった。すぐに廊下から誰かの足早に歩く音が聞こえた。それは村長と二人の助手だった。三人はKの酒の場を邪魔したことに謝る余裕も見せずに、「鬼です、先生!」と、大声で叫んだ。Kは一瞬これに面食らい、困惑したが、すぐさま刀を持って三人に連れられるまま外へ飛び出した。
村は概ね混乱の様相を呈していた。どこかで納屋が火を上げ、子供のいる母親達は子供達を抱えて家の隅に引きこもっていた。村長と助手達の走る後を追い、Kは長ドスを鞘から引き抜いた。それは闇夜の中で月のように艶かしく光り、Kは刀身に自分の当惑しきった顔を見た。まだ時機があまりにも早すぎたため、Kに餓鬼を退治できる余裕は毛ほどもなかった。しかしこの事態にK以外の誰が対処できるというのだろう。Kは口惜しくなった。
「あれです!」と、又一が叫んだ。「あれに違いありません」
それは巨大な影だった。納屋につけられた火によって餓鬼の影が地面におおよそ大人10人もの影を作っていた。それから「いだだぎまぁず」と、低くうなるような、獣数十頭の雄叫びにも似た声がすると、断末魔ののちに水っぽい音が響いた。それは子供達が水辺で走り回ってはしゃぐ音にも似ていた。三人は立ち止まり、恐怖におののいて、もう前へ足を進めることができなくなってしまっていた。Kは無我夢中で助手のひとりを突き飛ばし、納屋の裏側で起こっている光景に目を疑った。
餓鬼は人を喰らいながら至福の笑みを浮かべ、血まみれになりながら死体を貪っていた。餓鬼の体に表皮と見られるものはなく、全体が肉の赤に染まり、さらにその上に血しぶきが飛び散っていた。腐肉がついているためにところどころで骨が飛び出し、中でも、背骨は肉を突き破って頭の裏側まで突き抜けていた。
Kはもう何も考えられなくなっていた。これほどまでに尋常でないことが起きるとはつゆにも思わなかった。それは陰惨を、常識を越えた光景だった。今までどんな恐怖に相対しようとも、恐怖で足の動かなかったことなど一度もない。Kは体中に生ぬるい汗を掻き、ひたすら自分が鬼の標的にならないことを無意識のうちに望んだ。自分の持っているこの細身の剣で、こんな化け物を退治できるはずがない。
運のいいことに、餓鬼はKがそばにいることに気づきもしなかった。村民の死骸を骨と血に変えてしまったあとで、餓鬼は大きなげっぷをした。それからふたたび、低くうなるような声で「ごぢぞうざまでぢだぁ」と言って、それまで前かがみになって食していた亡骸を前にのっそりと立ち上がった。鬼が立ち上がると、これまで目にしていた影は倍にも大きくなった。餓鬼の体は、立ち上がると人の四倍から五倍に見えた。
そのとき、立ち上がった拍子に、鬼のただれた目がKを捉えた。しかし餓鬼はもう食に興味を失ってしまったらしく、どこか別の方角へ向かってどすんどすんと歩き出してしまった。それはがに股で、足を片方ずつ地面に落としていくため、遠くからでは踊っているようにも見えた。Kはここで正気を取り戻し、後ろの村長らに叫んだ。
「あれはどこに行くんだ! どこに向かってるんだ!」
しかし三人は何も答えられなかった。それどころか、鬼に気づかれまいとするばかりに、Kが大声を出したのを迷惑そうに見つめているだけであった。Kはそれにいら立って何事か自分でもよくわからない言葉を叫び、手に持っていた長ドスを地面に叩きつけた。燃え続ける納屋の裏側では、地面のしみと化した人の赤黒い姿があった。