十月二十二日 京介のひとりごと
ありふれた名字というものに憧れる。でも、友達の『佐藤』という奴に言ってみたところ『お前な、覚えてもらえる名字の方がいいに決まってんだろ?』と返された。
恥ずかしい名字だから嫌というわけではない。人から名前を呼ばれる時、ひんぱんに間違われてしまうところが面倒だったりする。
漢字で書くと『神松』となるのだけど、大半の人は『かみまつ』と読む。だけど、俺からすると不思議でならない。正しくは『こうまつ』なのだから。
小学生の、いや、幼稚園の頃からかもしれないが、よく名字を間違われてきた。かみまつ君? いえ、こうまつです。このやりとりは、何百回と繰り返してきた。
一時期、名字のことをからかわれたことがある。初めは我慢していたのだけど、さすがに堪忍袋の緒が切れた日があった。
殴り合いのケンカになった。まだ子供だったから重傷にはならなかったけど、からかわれることがなくなったのは救いだった。
そういうわけで、いわく付きの名前とも言える。目立つけど困ることがある。俺以外にも、そういう地味な困り事を抱えている人がいるのだろう。
名前である『京介』を『けいすけ』と呼ぶ人はいなかった。ただ『神松』を『かみまつ』と呼ぶ人の割合は高い。というか、十割かもしれない。
たまに、自分でも『かみまつ』と言いかけることがある。先日、銀行に行った時のことだ。窓口で名前を呼ばれるのを、席に座って待っていた。名前が呼ばれた。
「かみまつさん。かみまつけいすけさーん」
正直、わざと間違えているのではないかと思ったくらいだ。けいすけと呼ばれたのは人生で初めてだった。きちんと反応して窓口に行ったら、俺で合っていた。
一瞬、訂正を求めようかと思ったのだけど、銀行員の人を責めるような形になるからやめておいた。とがめるべきは銀行員ではない。
まあ、そういうのは慣れているから問題ないのだけど、仕事先の人たちまで、俺のことを間違った名字で呼んでいる。
しかも、正しい読みが『こうまつ』だと分かっているのに、あえて、だ。
最初に名札を見て呼ばれた時に『かみまつ君?』『いえ、こうまつです』のやりとりをしたところ、かみまつの方で定着してしまったのが原因だ。
今では、名札に小さく振り仮名が記してあるのにもかかわらず、店長でさえも『かみまつ君』と呼んでくる。今さら『こうまつと呼んでください』とは言わない。
たまに、知らない会社からダイレクトメールが送られてくる。いわゆる、怪しげな商品を買いませんかという封書のことだ。
その氏名欄にも、当たり前のように『かみまつ きょうすけ』と読み仮名が振られている。きちんと呼んでくれるのは、家族くらいなんじゃないかと思えたほどだ。
俺の家族も、昔から『かみまつ』という呼ばれ方に困らせられてきたらしい。親父いわく『これは神松一族の呪い』だとか。子供だましだった。
会社員にでもなれば、名字を話のネタにするという手段があるのだろうけど、今のところ機会には恵まれていない。残念ながら。
たぶん、初めの段階で考える時間があれば、俺のことを『こうまつ』と呼んでくれる人もいるはずだ。ある暇な日の夜、そう考えた。
チャンスは、ラーメン屋に行った際に訪れた。満席だったので、紙に名前を書いて待たなければならなかった。喜んだのは俺くらいだろう。
もちろん、本名を書いた。わくわくしながら。ひらがなだと負けた気がするので、あえて漢字で、ふりがなは付けなかった。
十分。二十分。わくわくは増える。そして三十分ほど過ぎた時、次は俺が呼ばれる順番になった。店員さんが来て、紙に書かれた名前を確認した。
迷っている。さあ、頑張るんだ。君には無限の可能性がある。こうまつと呼んでくれ。大きな期待を寄せる。やがて店員さんは、声高らかに読み上げた。
「一名でお越しの、かみまつきょうすけ様ー」
「……はい」
希望が粉砕された瞬間だった。すかさず反応する。店員さんは『そんなに落ち込んで……よっぽど空腹だったんですね』と思ったことだろう。
だけど、めげない。これからも、初対面で『こうまつ』と呼んでくれる人が現れることを、ひそかな楽しみにしながら生活しようと思う。
でも最近は、ほんのちょっとだけ『あ、俺かみまつになろうかな』と考えることがある。
自宅から届く宅急便の名前欄に、明らかに親父の字で『かみまつ』とふりがなが書いてあるからだ。あの親父、変なところに愛情注ぎやがって、と思った。