十月十七日 開かない扉の前で立ち尽くす 3
晩ご飯は俺と水月で食べ終えた。最初は遠慮していた水月だけど、やや強引に進めたところ、とても美味しそうに晩ご飯を完食してくれた。
ちなみに、あの後は水月に包丁を持たせなかったので、誰かが血を流すことはなかった。
その後は、明日の朝に向けての準備を進める必要があった。歯みがきについては、まだ誰も使っていない新品の歯ブラシを水月に渡した。あげたとも言える。
寝るときの服装についてだけど、水月は、着ている制服の他に服を持っていなかったので、俺のパジャマを貸してあげた。
互いの合意の元で、だ。もしも制服で寝れば、シワだらけになって大変なことになる。
それから、風呂については、久しぶりに浴槽にお湯を張った。いつもはシャワーだけで済ませているけれど、今日は、水月も入るからだ。
なんとなく一番風呂がいいだろうと思って、水月には、先に入浴してもらうことにした。
(あとは、なにか確認もれがあるだろうかなあ……)
一人になった居間で、なぜか正座をしながら、俺は水月が快適に過ごせるための方法を模索していた。
男友達だったら、最低限度の雑な環境でも平気だろうけど、今回はそれではいけない。
こういう経験がないものだから、どこか、俺の知り得ないところで水月が困っていないか心配だった。だけど、最善は尽くしているつもりだ。
緊張を表に出してはいけない。緊張というのは相手にもうつる。もしもの時のために、テーブルの上には、俺が風呂に入るための着替え一式が置かれている。
なぜって、これがあれば、どうしても会話が見付からない場合、風呂場に逃げられるからだ。ずるいとは言わせない。
その時、居間の入り口の扉が開いた。水月が風呂から上がったのだと分かった。
廊下から姿を見せた水月は、入浴直後のためか、ほっこりとした雰囲気になっていた。かすかに体から湯気が出ている。髪の毛は半乾きのような感じだ。
頑張って俺の青いパジャマを着ているため、サイズはぶかぶかだ。手足の袖が長いので、何重にもまくっている。それに加えて、水月は左手でズボンを押さえていた。
「大丈夫か? やっぱり、サイズ大きいみたいだな」
「へ、平気です……いい、お湯でした。ありがとうございました」
かなり歩きにくそうだけど、水月は、たたんだ制服を右手に持ちながら、器用に足を進めていた。
まあ、ひとまず大丈夫そうなので心配ない。湯が冷めないうちに、俺も早めに風呂を済ませてしまおう。
「そうか? じゃあ、俺も入ってくるよ。あ、それ飲んでてくれ」
「はい。ありがとうございます。しっかりあたたまってくださいね」
俺は、手早く着替え一式を持って立ち上がり、テーブルの上にある、コップに入った麦茶を指差して言い、移動を始めた。水月は、やわらかくほほえんで答えてくれた。
廊下に出てから、開いていた居間の扉を閉める。閉まる直前、水月の姿が見えた。普段の無邪気な雰囲気とは少し違う、拾ってきた小犬みたいなかわいさだった。
(はああ……なに中学生の子にどきどきしてんだ俺は……)
どうにか水月の前から姿を隠せた途端、封じ込めていた緊張が一気に押し寄せた。俺は二十四歳で成人しているのに、精神的には子供だと悟った。
変な意味でどきどきしているのではない。気のせいかもしれないけど、外で見るよりも、水月が数倍かわいく思えてしまう。緊張する。それしか言えない。
でも、あとは寝るだけだ。いや、すんなり寝れるだろうか。頑張ってみよう。
部屋の電気を消す。明かりは、豆電球の白い光だけになった。
水月は、すでに布団の中に入っている。敷き布団は、俺が普段から使っているもので、掛け布団は押し入れから出してみた。
そうしたら、俺の分の敷き布団がなくなったので、あまった掛け布団と掛け布団の間に寝ることにした。いけそうな気がした。
まだ冬ではないから、かぶる布団の枚数が少なくても、寒さは感じない。テーブルを部屋の隅にどけておいたから、スペースを広く使える。
俺も、布団に入って横になる。水月が寝ている布団は、俺の左側にある。もちろん、適度に距離は開いているので、どちらかの寝相が悪くても心配はない。
長いと感じた夜も過ぎ、ようやく眠るだけとなった。大きな問題が起きなかったのは幸いだ。あとは明日の朝、水月のお母さんへの説明を頑張ろう。
「京介さん。今日は、なにからなにまでありがとうございました」
「ああ。いいって。それよりも、今日はしっかり寝るんだぞ」
「はい。明日は、私からもお母さんに説明しますね」
ぼんやりと天井を見上げていると、左側から水月の声が聞こえた。水月も説明の手伝いをしてくれるとのことで、非常に心強かった。
明日の起床時間が七時ちょっと前と考えると、そろそろ寝るべき時間かもしれない。しっかり目覚まし時計はセットしておいた。おやすみ。そう伝えようとした。
「京介さん。ちょっとだけ、お時間いいですか? 話があるんです」
ふいに、水月は真剣な口調で言葉を発した。ほんの少し、緊張感が走った。
「話? 俺でよかったら、いつでも聞くよ」
「ありがとうございます。あ、でも、そんなに真面目な話じゃないんです」
「そうか? じゃあ、緊張しないで聞くことにするよ」
すぐに心の準備を整えて答えを返す。だけど、そこまで体に力を込めて聞かなくても大丈夫らしい。静かに息を吸ってはき、心臓の鼓動を整えた。
しばしの沈黙。それを消したのは、おだやかな水月の声だった。
「私にお父さんがいないこと、京介さんは覚えていますか?」
「ああ。ちょっと前に話してくれたもんな。事情も覚えてるよ」
わざわざ記憶の中を探さなくても、その問いに対する回答は、すぐに見付かった。
水月が母子家庭というのは、割と最初の頃に水月から教えてもらったのだけど、母子家庭になった訳を水月のお母さんから聞いた時は、強い衝撃を受けてしまった。
水月のお父さんは、水月が生まれてから三ヶ月の時に、亡くなっている。だから、水月はお父さんの顔を知らない。
写真はあるのかもしれないけど、水月も、水月のお母さんも、写真を見たがったり、見せようとはしていないらしい。傷付かないよう、気を配り合っているみたいだった。
「……私は、今もお父さんの顔を知りません。お母さんには、怖くて聞けないんです。でも、見たいというわけでもないんですけどね」
「そうか……見なくていいのか? つらくないか?」
「はい。知るべき日が来るまで、待つつもりです。それに、心の隙間を埋めてくれる大切な人が、すぐ側にいますので」
水月は、せめて喋り方だけでも暗くならないように、頑張ってくれているみたいだった。俺は、どんな言葉をかければ水月が救われるのか、分かってあげられなかった。
こうして話を聞くだけで、水月は安心するのかもしれない。だけど、こうして水月が胸の内を明かしてくれたのは初めてだから、出来る限り力になってあげたかった。
真面目な話じゃないと前置きをしたのは、俺を気づかうためだと分かった。だけど『心の隙間を埋めてくれる大切な人』が誰なのかは分からなかった。
「へえ、いい人がいてよかったな。俺も知ってる人か?」
「え? えっと……えへへ、京介さん、意外と鈍感なんですね」
「鈍感? 自分では、深く考える方だと思ってるけどな……誰だ?」
気になったので、それとなく尋ねてみる。そうしたら、笑われてしまった。さらに疑問は深くなる。どうやら、俺がすぐに思い付くような人らしい。
しかし、思案してもお手上げだった。水月の友達とかだろうか。たぶんそうだ。無事に結論が導き出せそうになったと同時、水月は答えを教えてくれた。
「それは、京介さんです。私にとって京介さんは、お兄さんみたいな人ですけど、お父さんのような存在でもあるんです」
「なるほど、俺か……え、俺? そうだったのか?」
相手が誰であろうと、納得する準備だけは整えておいた。だけど、まさかそれが自分だとは思っていなかったので、しどろもどろな受け答えとなってしまった。
俺の認識としては、水月は『お隣に住んでいる素直な子』という感じだ。
その子から『お兄さんのようで、お父さんのようでもある』と打ち明けてもらえて、嬉しいような気もしたけど、戸惑いもあった。俺は普通の人だからだ。
「ありがとな。だけど、俺は特別な人間じゃない。家族っていうのは特別だろ? お父さんの姿を、俺なんかに重ね合わせていいのか?」
「はい。本当のお父さんの記憶がないからこそ、京介さんから、お父さんのあたたかさを感じられていると思うんです」
だから、ほんの少しだけ、難しいことを水月に尋ねてしまった。
家族というのは、切り離せない絆がある。だけど、どれだけきれいに表現しても、俺と水月が『他人同士』という事実は変えられない。
叶うなら、水月の望む形で水月に接してあげたい。
だけど、それを実行したとして、俺と水月では生活している環境が違うから、どうしても、水月の理想には応えてあげられない場面が出てしまう。
俺には、特別な取り柄なんてない。水月が期待するような存在にはなれない。そう感じたから、不安に思ったから、水月に問いを投げかけてしまったのだった。
「ありのままの京介さんが、私は好きなんです」
だけど、水月のおだやかな声は、そんな悪感情を静かになだめてくれた。
ありのままの自分でいい。子供の頃、そういう教育を大人から教え込まれて育ったけど、この歳になるまで、きちんとした意味を理解していなかったと感じた。
水月は、立派な姿を俺に期待しているんじゃなかった。俺が季風荘に引っ越してから今日までの、普段通りの俺の様子を見て、好きになってくれていたのだった。
何人もの大人が紡いだ『ありのまま』の本当の意味を教えてくれたのは、中学生の子だった。飾り気のない言葉だからこそ、俺は素直に嬉しかった。
「……ありがとう。こんな俺でよかったら、これからもよろしくな」
「はい。私の方こそ、こんな子供でよければ、今後もよろしくお願いします」
お互いに、やたらと謙虚な口調で会話をする。なんだかおかしい気分になった。
年齢は関係ないのかもしれない。大人が子供から、なにかを教わってもいいはずだ。
つい数日前までは、お隣さんという認識しかなかったのに、こういう話をしたら、ぐっと水月との距離感が縮まった感じがした。
それから、寝るための挨拶をして、俺と水月は明日にそなえて眠った。鍵を忘れてよかったです。布団にもぐる直前、水月のひとりごとが、かすかに聞こえた。
ちなみに翌朝、帰宅した水月のお母さんには、俺と水月で事情を説明したのだけど、すんなり信じてもらえたのでよかった。まったく誤解されなかった。
普段、ずるい生き方をしていなくてよかったと、この時ばかりは強く思った。