十月十七日 開かない扉の前で立ち尽くす 2
現在の状態を簡潔に説明すると、俺と水月は、机を挟んで向かい合える位置で座っている。ただし、会話らしいものはなにもない。
視線も合っていない。ニュースを伝えるテレビの音声だけが、意味もなく室内に流れているだけだ。
だんまり比べをしているわけではない。話題が見付からないのだ。かれこれ数分間もこのままなので、なにか手を打たなければならない。
思い付いた。俺は夕食の準備でもするよ、と伝えようとした、その矢先だった。
「あ、えっと……なにか手伝えることはありませんか? なんでもしますよ!」
まるで、素晴らしい閃きが舞い降りたかのように、水月は元気に言葉を発した。
水月も、必死に話題を考えていてくれたのだろう。家に招き入れたのは俺なのに、水月に多大な負担をかけさせてしまっていた。
家事を手伝わせるなんて申し訳ない、と返そうとしたのだけれど、ふと考える。
水月からすると、こうして座っているよりも、なにかを手伝っていた方が心理的に楽かもしれない。この場合は、むしろ、仕事を頼んだ方がいいという気がした。
「そうだな……よし、晩飯を作るけど、手伝ってくれるか?」
「分かりました。料理ですね。あんまり経験ないですけど……頑張ります!」
ひとまず、さっき思い付いたことに関係する頼みを申し出てみたところ、水月は張り切りながら引き受けてくれた。でも、表情には、微妙に自信のなさが見え隠れしていた。
料理が出来ないからといって、変だと言うつもりはない。俺は中学生の頃、包丁を持つのさえ怖かった。凶器だと思っていた。
だけど、下手だったら、練習すればいい。どんな人でも、自分なりに積み重ねているからこそ上手なのだから。
いや、待てよ。ひょっとすると、あのお母さんの娘ということは、水月は料理が得意分野かもしれない。さっきの表情は、俺の気のせいという可能性もある。
あまり『教えよう』という気持ちは持たないでおこう。俺の方が教わる立場になるかもしれないから。
敵は梨、装備は包丁、先攻は水月。というわけで、水月には梨を四つ切りにしてもらうことにした。四つ切りというのは文字通り、丸い梨を四等分に切ることだ。
ちなみに、俺はガスコンロの方で煮物の火加減を見つつ、水月の方を確認している。
手順としては、まな板に梨を置いて半分にする。半分になった梨を、さらに二等分する。芯の部分を切り取る。皮をむく。食す。こんな感じの流れだ。
「水月? あんまり無理するなよ? 危険だから」
「だ、大丈夫です……や、やっぱり、包丁は怖いです……」
だが、あまりにも手元が危なっかしいので、思わず声をかけてしまった。
水月は、結局のところ大丈夫なのかどうか分からない様子で喋りながらも、手は止めていない。俺も怖い。先ほどの表情は気のせいなんかじゃなかった。
芯の部分を取るところまでは、問題なく進んだ。だけど、皮むきというのは、指を包丁の上に乗せるようにして行わなければならない。
つまり、指に刃が大接近するから、あまり包丁を持ったことがないと恐怖を感じる、というわけだ。
数ミリずつ、梨の皮がむかれていく。非常にゆっくりと。どきどきする。しゃりしゃりという軽快な音はない。しみ、しみ、だ。
これが普通だ。いやむしろ、まったく手元を動かせない人もいるので、水月は器用な方だと言える。
「ゆっくりでいいからな。初めのうちは、誰だって出来ないんだからさ」
ひそかに、水月が俺より料理が上手くなかったことに安心しつつ、あせらせないための言葉をかける。
まるで、料理を始めたばかりの俺を見ているみたいだ。でも、途中でやめようとしないところは、俺と違っていたりもする。
「は、はい……やると言った以上は、最後まで……あ!」
梨が飛んだ。水月の驚きの声と共に。
「あうっ!」
そして、勢いを落とすことなく、俺の眉間(眉と眉の間)に直撃した。梨だから痛くはなかったが、変な声が出た。
どこにどう力を込めたら、梨が飛ぶのだろう。とりあえず、眉間に飛来したのが包丁じゃなくてよかった、と感じた。
「あああ、ごめんなさいごめんなさい! 飛んじゃいました!」
「いや、いいんだ……洗えば食べられるよ。大丈夫だ」
水月は、まな板に包丁を置いて、慌てながら俺の心配をしてくれていた。飛んできた梨も、床に落ちる前に受け止めたし、怪我もしていない。水月を叱る理由はなかった。
だけど、俺は正直、水月には料理の素質はないけど、別の才能があるような気がしてならなかった。
俺の眉間までは、それなりに距離があったのに、追尾弾みたいに正確な軌道で命中した。弓道部部長候補のなせる技なのだろうか。
そんなこんなで、無事に料理は終了した。だけど、水月がいる前で夕食を食べるのは申し訳ないから、今しがた水月がむいた梨を、二人で食べることにした。
とはいえ、ただ食べて時間を過ごすというわけでもない。水月は、もうすぐ中間テストがあるから、それにむけて勉強を開始することになった。
俺の役目は、水月がどうしても答えが分からない時の助っ人だ。俺も分からないかもしれないが。
居間のテーブルには、教科書とノートが広げながら置かれている。皿に乗せられた梨も、手を伸ばせばいつでも食べられる位置にある。
中間テストというのは、国・数・理・社・英の五教科がある。懐かしい響きだ。
水月の勉強法は、それぞれの教科の要点を一冊のノートにまとめ、さらに重要な部分を赤ペンで書く、というものだった。
そうすると、上から赤い下敷きをかぶせれば、赤ペンで書いたところだけ見えなくなるので暗記しやすい。学生の頃の俺と同じ勉強方法だ。
これが一般的なのかもしれない。まあ、俺は中学生の頃、あまり真面目に勉強をしていた記憶がないのだけれど。
「枕草子、作者は清少納言である。これは平安時代の中期に……」
水月は、つぶやきながらシャープペンを動かし続ける。時折、赤ペンに持ち替えたりもしている。
これも忘れかけていた光景だ。勉強に集中している水月を見ていると、自分自身の学生時代の思い出が蘇るようだった。
水月の希望から、テレビはつけっぱなしにしている。適度な生活音がある方が勉強がはかどると、某テレビ番組で放送していたのだとか。
(邪魔しない方がいいかな)
これは俺にとっても助かることで、水月の勉強が順調な時、俺はテレビを見ながら進行具合を見守っていられる。
俺の出番は少ない、というか無いに等しいけれど、水月の勉強がはかどっていることが分かれば、それで充分だった。
その時、どこからかメールの着信音らしきものが聞こえた。俺の携帯ではない。水月は手を止めて、スカートのポケットから携帯電話を取りだした。
「メールでした。ほんの少しだけ、ごめんなさい」
「いいよ。大事な連絡だったら困るからな」
水月は俺に断りを入れると、携帯電話を開いて操作を始めた。
本当に丁寧な子だ。しっかりした教育と、水月自身の人間性によるものだろう。今さら再認識する必要もないのかもしれないけど。
「……え」
そんなことを考えていると、ひらがなが水月の口からこぼれた。どうやら、メールの内容を見たのが理由らしい。どうしたというのだろうか。
「水月、どうかしたのか?」
「……これ」
ひらがな二文字。声も小さい。水月は俺に携帯電話の画面を見せてくれた。凝視する。差出人のところには『お母さん』と表示されていた。
冷蔵庫の晩ご飯には気付いた?
ごめんね! 十時くらいに帰るって言ってたけど、帰るのは明日になりそう!
水月が起きる頃には着くから、心配しないで!
当然ながら、水月のお母さんは、水月が自宅にいるものと認識している。
しかし、実際は現状の通りだ。お母さんが戻る夜十時まで、あくまで夜十時まで、俺は水月を保護するつもりだった。延長なんて予想していなかった。
「…………」
「…………」
お互いに無言で視線を合わせる。水月は、気まずそうな感じの表情だった。俺がどんな反応をするのか、様子をうかがっているのかもしれない。
ほんの数秒で、いろいろな方法を考察してみる。明日は火曜日だから、水月は学校だ。俺も仕事がある。
俺の他に頼れそうな人がいなかったからこそ、水月は扉の外で待っていたはずだ。俺も、急に水月を任せられるような知り合いはいない。
いっそ、近所の宿泊施設でもないものかと思いかけたけれど、そこまですると『迷惑がられている』という誤解を水月に与えかねない。
嫌なわけじゃない。朝を迎えるまで二人で過ごすというのは、なんとなく、道徳的に危ないんじゃないかと感じただけだ。
「……いつも起きてる時間って、何時なんだ?」
「その、七時くらい……です」
最終的な答えは確定しているけど、落ち着く時間をかせぐために質問する。七時といえば、俺が仕事で起きる時間よりも少し遅い。
つまり、俺から水月のお母さんに、今日の出来事について説明を施すのは無理なく可能だ。勘違いされないように頑張ろう。
さて、そろそろ答えを伝えなければならない。せっかく現状に慣れてきたところなのに、再び緊張が増すかもしれない。だが、それは水月も同じだろう。
「……今日は、俺の家に泊まるか? せまいけど」
「えっと……ぜひお願いします。本当に……助かります」
俺の提案に、水月は半分遠慮しながら、もう半分は恥ずかしがりながら答えていた。うつむき加減や表情で分かった。さすがの水月も、今回は断る余地がなかったらしい。
今が冬の季節でなくてよかった。なぜかというと、冬は寒くて、布団の数が足りなくなっていたかもしれないからだ。
二人分の夕食、食材は足りるだろうか。数日前に買っておいたから大丈夫か。