十月十四日 暗い夜にあたたかい明かりを
夏の間は夜七時でも明るかったのに、この時期になると、外は六時でも真っ暗だ。
自転車をこぎながら夜道を進んでいるのだけど、もしも街灯がなければ、自転車のライトが点いていても、通行人と衝突しかねない。
おまけに、最近の夜風は少し冷たい。昼間なら大丈夫だけど、もうじき、防寒着や暖房を用意する季節になるのかもしれない。本格的な秋の到来というわけか。
(今夜の晩ご飯はどうするべきかなあ……)
帰宅したら、誰かが料理を作りながら待っているわけでもないので、心の中で考える。
自転車の前かごには、近所のスーパーで買ったおかずの入った袋が積んである。それなりに重さがあるから、自転車がこぎにくくなる原因になっている。
察しの通り、俺はアパートで一人暮らしをしている。そこそこ新しいアパートだ。
実家は、アパートのある奏町から遠く離れているわけではないのだけど、なかなか帰る都合が合わなくて、たまに連絡を入れるだけになっている。
仕事場は、奏町から少し離れたところにあるから、基本は運動がてら自転車通勤だ。
仕事場のある街は、大きなデパートや本屋、ホームセンターや薬局なんかもある、つまりは都会なのだけど、奏町は静かなところだ。暮らしやすくていい。
おだやかな町並みもありがたいけど、それに加えて、近所の人たちが親切にしてくれる。暮らしている環境によって人も親切になるという、いい例かもしれない。
(……よし、カレーにみそ汁、野菜炒めでいいか)
一通り思案して、結局、ものすごく手抜きな献立に決めた。
カレーとみそ汁はレトルトで、野菜炒めは文字通り野菜を炒めるだけだ。いや、料理が出来ないわけではないのだけど、今夜はこれでいい。
そろそろアパートの駐輪場に着きそうだ。ちなみに、アパートの名前は季風荘だ。季節ごとの風を感じられるアパートらしい。実際は普通だけど。
自転車の速度をゆるめながら駐輪場に入る。近くに街灯があるから、適度に明るい。自転車に鍵をかけて、かごから買い物袋とバッグを取り出す。あとは部屋に行くだけだ。
ここからが、ほんのちょっとだけ大変だ。季風荘は三階建てのアパートで、俺の部屋は304号室。三階の最も奥だ。
エレベーターがないから、階段を上がるしかない。急ぐと目が回りそうになる。
(もう、みんな帰宅してるみたいだな)
駐車場に止められた車を横目に、アパートの階段に向かって歩く。
その途中、懐中電灯で足下を照らしながら歩いてくる人の姿が見えた。そして、はち合わせた。お互いに顔を確認する。
「わ! びっくりしました! 京介さんだったんですね」
「ああ。やっぱり水月だったか。寒くなかったか?」
その相手は、体格と服装から予想した通り、未鳥水月だった。この時間に、中学校の制服姿でアパートの敷地内にいる人なんて、水月くらいしか知らない。
水月は、俺が住んでいる部屋の隣に住んでいる。303号室だ。といっても、一人暮らしをしているわけではなくて、水月はお母さんと二人で暮らしている。
俺が季風荘に引っ越した時から、水月と水月のお母さんは、303号室に住んでいた。
引っ越しの挨拶をするために部屋を訪ねたのがきっかけで、水月と知り合いになった、というわけだ。
「そうですね、ちょっとだけ寒いです。京介さんこそ、お仕事お疲れ様です」
「ありがとう。よかったら、三階まで一緒に行かないか?」
「はい。ここで京介さんに会えるなんて、思っていませんでした」
なにげなく提案してみたところ、水月は無邪気な笑顔を浮かべて賛成してくれた。
ところで、俺は男だから予想でしかないのだけど、スカートは、寒い服装だと思う。風が入り放題というのはいかがなものか。別に気にしなくてもいいか。
夜風を浴びるつもりはないので、先導するように前を歩いて、アパートのガラス扉を開ける。水月が入るまで扉を押さえておくのは当たり前だ。
ここからは、ぐるぐると階段を上がって三階まで行くだけだ。その前に、さっと郵便受けを確認する。なにも入っていなかった。あらためて、階段を進む。
「陽が沈むのも早くなったよな。今日は、弓道部の練習で遅くなったのか?」
「はい。冬になると、練習が大変になるので……居残りしちゃいました」
「そうか。頑張ってるんだな。風邪ひかないようにな」
ほぼ並んで歩きながら、どうして帰宅が遅くなったのか尋ねてみる。やはり、暗くなるまで部活動をしていたらしい。
活動している時の姿を見たことはないけど、水月は、弓道部に所属している。
水月のお母さんの話によると、今は二年生だから部員でしかないけど、三年生になったら部長か副部長を任されるくらい上手、ということらしい。
俺は弓道については素人だけど、身長よりも大きな弓を引くというのは知っている。
ということは、水月は、平均的な身長と体型だけど、けっこう力があるに違いない。でも、本人に伝えたら失礼かもしれないので言わない。
「ありがとうございます。今日は、お客さんの人数はどうでしたか?」
「ん。いつもと同じくらいかな。平日だからな」
今度は水月から質問を受け取ったので、正直に答える。
こう返すと、まるで俺が店を経営しているみたいに聞こえるけど、なんのひねりもなくて、普通にデパートの中で働いている。
しかも、華やかな要素なんて特に見当たらない、百円均一の店の店員だ。でも、どことなく地味なところが、案外気に入っていたりする。とてもおだやかな職場だ。
「あれ? そろそろ中間テストがあるんだよな。勉強の調子はどうだ?」
「う、あんまり思い出したくなかったです……勉強はしている、つもりです」
「まあ、水月なら大丈夫だ。なにごともほどほどにな」
ふと、中間テストがあると以前に聞いていたことを思い出したので、水月に問う。すると、成績が悪い方でもないのに、水月は自信なさそうにうつむきながら答えていた。
今では、テストという単語すら懐かしく思える。当時は面倒だと思っていたのに。期末テスト、中間テスト、実力テスト。学生の頃は色々とあった。
俺は、勉強と遊びを半々の割合で行っていたと思う。これも今だから思うけど、どちらかにかたよってしまうと、後から苦労してしまう。勉強だけでもだめだ。
見たところ、水月は両方とも楽しんでいるみたいだから、安心だ。
「ま、まだ期間はありますからね! 赤点さえ取らなければ大丈夫ですよね!」
「その通りだ。いい成績にこだわる必要はない」
そろそろ三階の部屋に着きそうだという時、水月がいいことを言った。
たしかに、なんにでも最高の水準というものはある。だけど、上を目指したらきりがない。ほどほどで納得するということをしなければ、生きるのが大変になる。
水月は、まだ中学生だというのに、それを分かっているみたいだった。立派な子だ。
やがて、通路を通り、303号室の前に到着した。水月の部屋だ。お互いに向き合う。
「着いたな。それじゃ、またな。あったかくして寝るんだぞ」
「はい。ありがとうございました。京介さんも、ゆっくり休んでくださいね」
それから、順番に挨拶をかわした。水月の無邪気な笑顔に、心が洗われた気がした。なぜだろう。一人暮らしだと、自然に人恋しくなってしまうせいだろうか。
水月が303号室に入るのを見送って、俺も自分の部屋に行く。すぐ隣だ。いったん買い物袋を置き、バッグから部屋の鍵を取り出して錠を開け、また買い物袋を持つ。
扉を引いて開ける。室内には人の気配がない。本当に真っ暗で、かすかな物音さえもない。淋しい雰囲気。一人暮らし経験者ならば、あるある、と納得してくれるだろう。
けれど、孤独を感じるかと問われれば、それは違う。水月を始め、近所の人たちは、なにかと俺のことを気にかけてくれる。
つまり、一人暮らしだとしても、誰かと心理的に繋がれている感覚というものが確かにある。
一言で表現するとしたら、一人じゃない、というわけだ。だから生きていられる。それよりも、腹が減ったから、さっそく夕食を作り始めるとしよう。