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ベルリン降伏作戦

掲載日:2026/05/08

 一九四五年四月三十日、ベルリン。かつて「総統」と崇められた男も、今や袋の鼠に過ぎない。四方八方から轟く連合軍の砲声に怯え、湿った地下壕の奥で震えている。ドイツ陸軍アマデウス・シュミット中将は、瓦礫の山と化した故郷の惨状を思い、唇を噛んだ。優秀な軍人の彼は、もはや自国が軍事的に連合軍に勝利することはできないと理解していた。しかし言葉による説得の段階は過ぎている。総統と狂信的な側近たちに正論を説いたところで、待っているのは反逆者としての銃殺刑だ。彼は根っからの軍人だ。外交の術は知らない。ならば、かつて独裁者がこの国を奪うために用いたのと同じ「言語」で語るしかない。すなわち、暴力だ。しかしそれは、蹂躙のための暴力ではない。この地獄に終止符を打つための、かつて崇めた「総統」へ向けた最後の「正義」としての暴力であった。

 

 幸いなことに、彼には長年培ってきた人望と、右腕と呼ぶに相応しい優秀な副官がいた。アルバン・ミュラー中尉。アマデウスと同じシュトゥットガルト出身の、若く聡明な軍人だ。アマデウスは、自らの地位と信頼を賭して、地下深くで慎重に降伏派の同志を募り始めた。だが、時間は残されていない。無秩序な勧誘は、狂信的な親衛隊やゲシュタポの耳に届く自殺行為に等しいからだ。ある夜、彼は意を決して一人の男を自部隊の地下壕へと呼び出した。エーリヒ・シュナイダー大佐。士官学校時代からの同期であり、この絶望的な戦況下で唯一、腹を割って話せる旧友である。「シュナイダー、お前はこの国の現状をどう見ている」低く、重い問いかけに、シュナイダーは深い溜息とともに視線を落とした。「…お前だって分かっているはずだ、アマデウス。もはや抵抗の術はない。ゲリラ戦法で辛うじて戦線を維持してはいるが、ベルリンが落ちるまで、あと十日ももたないだろう」「私も同意見だ。もはや勝利など空想の中にしかない。だが、それを口にした瞬間に反逆者として吊るされるのが、今のこの国の姿だ」アマデウスは一歩、友に歩み寄った。防空壕の裸電球が、二人の影を不気味に壁へ映し出している。「落ち着いて聞いてくれ。…我々が愛するドイツを救うには、もはや方法が一つしかない。総統閣下とナチス幹部には、これから『ドイツのために』死んでもらう。我々の手で降伏を宣言し、この地獄を終わらせるんだ」シュナイダーの目が見開かれた。その瞳には、恐怖と、それ以上に強烈な「覚悟」への戸惑いが揺れていた。


 やがてシュナイダーは深く俯き、自身の影を見つめたまま、絞り出すように口を開いた。「…本当に、その道しかないのか。賢いお前なら、もっと血の流れない術を思いつかなかったのか」「考え抜いたさ、エーリヒ。だが、奴らに言葉は届かない。現実を直視できぬ狂信者たちの眼を抉り、無理やりにでも見せてやるしかないのだ。今、この国がどのような地獄に焼かれているかを!」アマデウスの低く鋭い声が、コンクリートの壁に跳ね返る。シュナイダーは震える瞳で親友を見つめ、やがて、その震えを抑え込むように拳を握りしめた。「…本気なんだな。ならばいい。俺もこの国を愛している。…『この国のために』、お前に命を預けよう」言葉が途切れると同時に、二人は力強い、痛いほどの握手を交わした。卓上のビール瓶を手に取り、静かに、だが確かな音を立ててぶつけ合う。黄金色の液体を一気に煽ると、喉を焼く苦味さえもが、これからの戦いを予感させた。「…プロスト」短く交わされた乾杯の言葉。それは、数百万の運命と、腐り果てた帝国の歴史を塗り替えんとする、宣戦布告の儀式であった。


 静寂を切り裂くミュラーの警告が響いたのは、乾杯の余韻も冷めぬその時だった。「奴らです!武装親衛隊だ!」その一言に、二人の反逆者の心臓は一瞬跳ね上がったが、彼らは静かに、かつ速やかにビール瓶を卓へ置くと、軍人としての仮面を被り直した。荒々しいノックが鋼鉄の扉を震わせ、ミュラーが重い扉を開けると、冷気と共に威圧的な足音が地下壕へと流れ込んできた。「巡回視察だ。壕の中を改めさせてもらう」踏み込んできたのは四人の武装親衛隊員。その軍靴の響きは、死神の足音にも似て不吉だ。「貴様がここの指揮官か。軍隊手帳を」長身の隊員が、侮蔑を隠そうともせずアマデウスを凝視する。アマデウスは微動だにせず、氷のような冷静さで手帳を差し出した。隊員は紙面と彼の顔を執拗に見比べた後、獲物を探す獣のような視線をシュナイダーへと向けた。「手帳に不審な点はない。…だがそっちの貴様、なぜここにいる。所属と名を名乗り、証明を提示しろ」一触即発の空気が流れる中、シュナイダーは泰然自若とした態度で応じた。「私はエーリヒ・シュナイダー大佐。アマデウス中将とは旧知の仲でな、迫りくる連合軍への逆襲作戦について、軍事上の合議を行っていたのだ」しかし、隊員の疑念は晴れない。「現時刻をもってベルリンは最高警戒態勢にある。戦術会議であれ、許可なく所属部隊を離れることは禁じられているはずだが?」鋭い追求に、一瞬の沈黙が壕内を支配した。だがシュナイダーは眉一つ動かさず、滑らかな口調で言葉を継いだ。「それは失礼した。何分、私の部隊の通信機は昨日の砲撃で瓦礫と化してな。そのような伝達すら届かぬのが現状だ。…まあ、堅苦しいことは抜きにしよう。こんな地獄だ、喉も乾くだろう。これでも飲んで一息つきたまえ」彼が差し出したのは、先ほどまで彼らの「正義」を祝していた、黄金色に輝く貴重なビールだった。隊員は一瞬、規則を盾に拒もうとしたが、硝煙の臭いにまみれた地下壕で放たれる芳醇な香りに、その喉が思わず鳴った。欲望に屈した隊員は、無造作に無線機を手に取ると、上層部へ短く報告した。「アマデウス隊、異常なし。総統閣下のために戦況を維持している」隊員はビールを奪うように受け取ると、「協力に感謝する」と吐き捨て、嵐のように去っていった。その背中を見送ったアマデウスは深く安堵し、土壇場で発揮された旧友の凄まじい機転に、改めて感服の眼差しを向けた。


 九死に一生を得たアマデウスたちは、冷めやらぬ興奮を押し殺し、祖国を救うための具体的な反逆の計画を描き始めた。アマデウスは地図を退け、長年胸中で温めてきた恐るべき計画を提示した。「計画を聞いてくれ。まず、私が中将の特権を行使し、総統およびナチス幹部が列席する最高戦術会議に潜り込む。その際、報告書を詰めた鞄に即席の爆薬を仕込むのだ。細工はこうだ。あえて鞄の重心を極端に高く設計し、僅かな衝撃で転倒するようにしておく。会議室の床に鞄を置いた後、地下壕内に潜伏させた協力者に、私の部隊からの『緊急事態』を装った呼び出しをかけさせ、私をその場から引き抜く。あの狭隘な会議室だ、密集する幹部たちの誰かが私の鞄に足を引っかけないなどという奇跡は起こり得ない。蹴り倒された衝撃で信管を作動させ、独裁者もろともあの地獄の産室を爆破・瓦礫と化すのだ。どうだエーリヒ、忖度のない意見を聞かせてくれ」冷静だが興奮気味に語ったアマデウスに対し、シュナイダーは感嘆の溜息を漏らしながらも、鋭い眼光を崩さなかった。「凄まじい計画だ。やはりお前の軍事的才覚には恐れ入る。だがアマデウス、現実はそう甘くはない。入り口での厳重な荷物検査をどう掻い潜るつもりだ?それに、最高機密の拠点である総統地下壕内に、我々の意図通りに動く協力者など本当に用意できるのか」旧友の痛いところを突く指摘に、アマデウスは苦渋の滲む笑みを浮かべて肩をすくめた。「…その二点こそが、私の思考を阻む最後の壁なのだ。一人で悩み抜いたが、解決の糸口すら見つからない。だからこそ、信頼に値し、かつ私よりも現場の裏表を知り尽くしたお前の知恵が必要なのだ」


 シュナイダーは、思案に暮れていた視線をアマデウスの足元へと投げ、確信に満ちた口調で口を開いた。「鞄そのものを偽装するのではない。検問を潜り抜ける唯一の鍵は、『盲点』を作ることだ」アマデウスが期待のこもった目つきで身を乗り出すと、シュナイダーはさらに続けた。「爆薬を鞄の底に仕込むのではなく、鞄の骨組みそのものに加工を施すんだ。検査官は中身の書類や地図には目を光らせるが、鞄の自重が数キロ重いことには気づかない。そして、信管の起動トリガーを、お前の持っている高級万年筆のキャップと連動させる。鞄を置く際にペンを抜くことで信管を起動し、衝撃が加われば炸裂するようにするんだ。お前の些細な動作が奴らの死の合図だ」アマデウスは、あまりに大胆かつ精密な提案に困惑した顔で言った。「だがエーリヒ、爆発物の探知犬や、熟練の衛兵の目はどう誤魔化す?万が一、鞄を逆さにされて中身をぶちまけられたら終わりだぞ」シュナイダーは不敵に、だがどこか悲しげに返した。「今の総統地下壕は、敗戦の恐怖と疲労で支配されている。奴らが恐れているのは連合軍の砲火であって、内側からの反逆ではない。規律は形骸化し、上官への忖度が蔓延している。中将であるお前の鞄を、あえて床に叩きつけるような無礼を働く度胸のある下士官など、今のベルリンにはもう存在しないのだよ」アマデウスは、友の鋭い観察眼と、絶望的な軍の現状を逆手に取った優れた作戦に深く感心すると同時に、シュナイダーへの信頼を一層強めた。しかし、シュナイダーは一転して悔しさと悲しさを滲ませた顔で言った。「…だが、これだけは断言できる。荷物検査は技術で突破できても、総統地下壕という鉄壁の閉鎖空間において、内側からお前を呼び出してくれる『裏切り者』を今から調達するのは、不可能に近い」二人は再び、冷たい沈黙が支配する地下壕の中で、答えのない迷路へと足を踏み入れ、熟考し始めた。


 暗く冷たい沈黙を破り、入り口で身を潜めていたミュラーが、抑えた、だが頼りがいのある声を上げた。「……閣下、一つご提案がございます。私の教育隊時代の上官に、現在、総統地下壕で奉職している者がおります。彼は当時から、我々は独裁者のために戦うのではない、ドイツという国のために戦うのだと、口酸っぱく説いておりました。思想を同じくする者として、彼ならば話してみる価値があるかもしれません」出口の見えない迷路にいたアマデウスとシュナイダーは、弾かれたように顔を上げ、驚嘆の入り混じった表情でミュラーを凝視した。アマデウスが震える声を押し殺して問う。「よくぞ言ってくれた、ミュラー!その男の名は?」「フェリックス・フィッシャー少佐です。現在は総統地下壕の通信室、その警備課を任されております」「でかしたぞ、ミュラー。まさに我々が求めていた最後の欠片だ。早速、私が直接コンタクトを取ろう」昂揚したシュナイダーが、椅子を蹴るようにして立ち上がった。だが、アマデウスは即座にその腕を掴んで制止した。「落ち着け、エーリヒ。見知らぬ大佐から突如として接触があれば、いくら同志の可能性があるとはいえ不審を招く。ここはミュラーに任せるべきだ。……ミュラー、彼との橋渡しを頼めるか」ミュラーは誇り高き軍人の貌で深く頷くと、迷いのない足取りで無線室へと向かっていった。


 ミュラーが無線室の闇へ消えた直後、静寂を切り裂くようにして地下壕の鉄扉が再び激しく打ち鳴らされた。室内に心臓を掴まれるような緊張が走る。シュナイダーが警戒を露わにしながら、重い扉を僅かに開けると、そこには先ほど立ち去ったはずの武装親衛隊員が、顔を青白く引き攣らせて立っていた。「き、緊急連絡だ…!総統、総統閣下が…たった今、ご自害なさった…!」その報は、二人の反逆者の脳を真っ白に染め上げた。アマデウスとシュナイダーは、もはや偽装も忘れ、裏返った声で問い返した。「何だと…!?それは、確かなのか!」隊員は深い喪失感に打ちひしがれた様子で小さく頷き、消え入るような声で言葉を継いだ。「それに伴い、総統地下壕にて緊急会議が招集された。明日の午後十三時、遅れることは許されん」それだけを告げると、男は亡霊のように足早に闇の中へと消えていった。入れ替わるように、異変を察知したミュラーが無線室から駆け戻ってくる。「お二人とも、ご無事ですか!一体何が…」アマデウスは、喉の奥にへばりつくような重圧を振り払い、絞り出すように告げた。「…総統が死んだそうだ」ミュラーの瞳が、信じがたいものを見たかのように大きく見開かれる。アマデウスは、震える己の心を抑え込み、冷徹な指揮官の瞳を取り戻して続けた。「これは、我々にとって千載一遇の好機だ。独裁者が消えた今、残されたナチス高官が集結する明日の会議こそが、この地獄を終わらせる最後の戦場となる。……ミュラー、フィッシャー少佐の返答はどうだった」ミュラーは、激動する事態に取り乱しながらも、軍人としての規律を保ち報告した。「…は、はい。フィッシャー少佐は、協力を惜しまない、ドイツのために戦う同志を、心から歓迎する…と」


 フィッシャーからの力強い回答を受け、アマデウスとシュナイダーは一刻の猶予も無駄にせず、計画の具体化に没頭した。張り詰めた沈黙の中でペンが走る音だけが響き、一時間後、アマデウスはすべての工程をまとめ終えた。「いいか、作戦の全貌だ。今日中に鞄の加工を完遂させ、明日十二時三十分、ミュラーの運転する車で私とシュナイダーが総統地下壕へ乗り込む。十三時からの会議には私が一人で出席し、その間、お前たち二人は地下壕周辺の瓦礫に紛れて車内で待機してくれ。十三時三十分、予定通りフィッシャーに私を会議室から引き抜かせ、彼を回収したのち四人で迅速に地下壕を離脱する。そのまま白旗を掲げ、ドイツ全権大使として連合軍占領地へ突入、即時降伏を申し出る。…これで相違ないか?」アマデウスの決死の問いに、ミュラーとシュナイダーは覚悟を込めて深く頷いた。「よし、ならば直ちに鞄の加工に取り掛かるぞ」アマデウスが号令を下すと、ミュラーはフィッシャーへ最終的な合流手順を伝達すべく、再び無線室へと向かっていった。


 場面は変わり、重苦しい空気が淀む無線室。フィッシャーへの報告を行うミュラーの瞳には、先ほどまでアマデウスたちの前で見せていた勇気や正義の光は微塵もなかった。そこにあるのは、凍てつくような冷酷さと、獲物を罠にかける猟師のような鋭い眼光である。彼は一切の感情を排した口調で、反乱計画の全容を淡々とフィッシャーへ伝達した。「…ご苦労だった、ミュラー。これでようやく、ドイツの反攻を阻む害虫どもを一掃できる。貴公の忠義に感謝する」受話器の向こうから響くフィッシャーの声は、聞く者に根源的な畏怖を抱かせるほど重く、荘厳な響きを湛えていた。ミュラーは短く感謝の言葉を述べると、通信の最後に、もはや地下壕の二人には決して聞かせられぬ言葉を、呪文のように低く呟いた。「ハイル・ヒトラー。ドイツに真の勝利を」確かにミュラーもまた、ドイツの勝利を誰よりも切望していた。その一点においてのみ、彼はアマデウスやシュナイダーと同じ志を抱いていたのかもしれない。しかし、ミュラーが血の先に夢見る「勝利」の形は、降伏を望む彼らのそれとは、決定的に、そして致命的に異なっていたのである。


 その頃、地下壕の片隅ではアマデウスとシュナイダーが鞄の加工を終え、張り詰めた糸を緩めるように一息ついていた。そこへ、無線室からミュラーが何食わぬ顔で戻ってくる。「フィッシャー少佐との最終的な合意が取れました。明日の会議、十三時三十分ちょうどに、少佐自ら会議室へ中将を引き抜きに現れます」ミュラーの報告に淀みはなく、完璧な副官そのものであった。報告を終えたミュラーは、どこか遠くを見据えるような眼差しで、静かに語り出した。「明日、わがドイツは過去最大の困難を乗り越え、真の勝利を迎えることでしょう。歴史の転換点に立ち、その一員として最期まで職務を全うできることを、私は心から誇りに思います。閣下、大佐、私をここまで導いてくださり、本当にありがとうございました」その言葉に宿る異様な熱量に気づく由もなく、アマデウスは慈父のような微笑みを浮かべて返した。「我々こそお前に救われた。…さて、明日の決行に備え、私とシュナイダーはしばし仮眠を取ることにする。ミュラー、お前も今のうちに身体を休めておきたまえ」アマデウスが真心のこもった労いをかけると、ミュラーは深く一礼し、感謝の言葉を述べた。やがて二人の将校が休憩のために奥へと姿を消し、地下壕に重苦しい静寂が戻ると、ミュラーは爆薬の詰まった鞄の前に立ち尽くした。その瞬間、先ほどまでの献身的な表情は霧散し、両眼には再び冷酷な虚無が宿る。彼は一切の躊躇なく鞄を開くと、祖国を救うはずだった「正義の爆薬」を、その震えぬ指先で一つずつ静かに取り外し始めた。


 夜が明け、地獄のような砲火に晒されながらもベルリンに朝が訪れた。アマデウスとシュナイダーが、昨夜まで命懸けの謀議を重ねた作戦室に姿を現すと、部屋の隅で椅子を並べて横になっていたミュラーが微睡みから覚めた。アマデウスがその肩を優しく叩いて起こすと、ミュラーは即座に直立不動の姿勢を取り、乱れた制服を整えて制帽を深く被り直した。「おはようございます、アマデウス中将、シュナイダー大佐」溌剌としたミュラーの敬礼に、二人の高官は満足げな笑みを浮かべて挨拶を返した。「おはよう。今日は歴史が動く日だ。失敗は許されないぞ。…ドイツのために!」シュナイダーの力強い音頭に合わせ、三人は湯気の立つコーヒーで最後となるかもしれない乾杯を交わした。やがてミュラーが車両の最終点検のために車庫へ向かうと、アマデウスは残されたシュナイダーに、遠くを見つめるような眼差しで語りかけた。「戦後、ドイツは混迷を乗り越え、真の民主主義を勝ち取るだろう。少年たちや罪のない民間人が国家の狂気に焼き尽くされるような大戦は、これが最後になるといいな」…車庫の重い扉の向こう側、エンジンの整備に手を汚していたミュラーの耳に、その理想に満ちた声が届く。彼は工具を握る手に力を込め、誰にも聞こえないほどの低い掠れ声で、呪詛を吐き捨てた。「…売国奴が」


 いよいよ運命の刻が訪れた。勲章を整然と飾った軍服に身を包み、後部座席で静かに覚悟を固めるアマデウスとシュナイダーを乗せて、キューベルワーゲンはミュラーの操縦で総統地下壕へと走り出した。瓦礫の山と化したベルリンの街を抜け、目的地が近づくと、中身を抜かれたとは知らずに「爆薬入り」の鞄を握り締めたアマデウスが降車し、車は獲物を待つ獣のように瓦礫の陰へと身を潜めた。アマデウスは出迎えた武装親衛隊員の誘導に従い、帝国の最期を象徴する総統地下壕へと足を踏み入れる。自分たちの無骨な壕とは対照的な、鮮やかなカーペットや華美な装飾が施された内装に目を奪われる暇もなく、厳重な荷物検査が始まった。一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じたが、シュナイダーが予言した通り、疲弊した衛兵の目は形式的な確認に留まり、鞄は無事に検問を通過した。会議室へと続く廊下を歩むアマデウスに、背後から一人の男が声をかけた。「アマデウス中将、お初にお目にかかります。ミュラーがお世話になっております…フェリックス・フィッシャーです」アマデウスは足を止め、「予々噂は伺っております。彼によれば、この上なく素晴らしい上官であったとか」と、同志への信頼を込めて微笑んだ。フィッシャーはどこか照れくさそうに頭を下げ、足早に闇の向こうへと去っていった。アマデウスは再び歩を刻み、ついに目的地である会議室に到着した。彼は迷いのない動作で、ナチス高官たちが集う円卓の下、狙い澄ました位置にその鞄を静かに置いた。


 十三時ちょうど、予定通り死の会議が幕を開けた。しかし、室内で飛び交う議論は、およそ現実とはかけ離れた妄執の塊に過ぎなかった。「残存する全兵力を地下壕周辺へ集結させ、最後の一兵まで徹底抗戦せよ」あるいは「現存する全戦車を一隊に集約し、乾坤一擲の奇襲を敢行すべし」……。アマデウスはそれらを冷ややかに聞き流しながら、心の内で「馬鹿馬鹿しい、今更何を足掻こうというのか」と、祖国の終わりを直視できぬ者たちへの軽蔑を深めていた。ついに、時計の長針が運命の「六」を指し示す。その瞬間、示し合わせた通りにフィッシャーが会議室の扉を厳かに開いた。「アマデウス中将、閣下の部隊より緊急入電です。至急、通信室までご足労を」アマデウスは促されるまま席を立ち、居並ぶ狂信者たちの視線を背に会議室を後にした。フィッシャーの背を追って入り組んだ迷路のような廊下を抜け、裏口から外界へ脱出すると、そこには待機していたミュラーのキューベルワーゲンが滑り込んできた。アマデウスとフィッシャーが勢いよく車内に乗り込むと同時に、アマデウスは指先に全神経を集中させ、隠し持っていた万年筆のキャップを静かに引き抜いた。


 アマデウスとシュナイダーは、五感を研ぎ澄ませて運命の咆哮を待った。しかし、いくら時が流れても、鼓膜を震わせるはずの爆発音はおろか、混乱して飛び出してくる兵士の姿すらない。それもそのはずだった。昨夜の静寂の中、ミュラーの冷徹な指先が、鞄に仕込まれた爆薬を一つ残らず摘出していたのだから。二人が底知れぬ困惑に突き落とされる中、ミュラーとフィッシャーが唐突に車を降りた。「おい、危ないぞ!早く車内へ戻れ!」アマデウスが必死に叫ぶも、二人は聞き届ける素振りすら見せない。刹那、ミュラーはアマデウスの、フィッシャーはシュナイダーのこめかみに、冷たいワルサーの銃口を深々と突きつけた。「お、おい!一体どうなっている!」シュナイダーが戦慄に顔を歪め、立ち上がろうとした瞬間、乾いた発砲音が響き、彼の体は力なく崩れ落ちた。友の鮮血を全身に浴びたアマデウスが「ミュラー!貴様、血迷ったか!」と絶叫するが、ミュラーは氷のような無機質な眼差しで、ただ冷静に告げた。「中将、このような結末を迎えねばならぬこと、心より残念に思います」直後、二発目の重厚な銃声がベルリンの空に吸い込まれた。数秒前まで高潔な理想を抱いていた二人の将校は、今や見る影もない肉塊へと成り果てていた。フィッシャーとミュラーは、感情を排した動作で拳銃をホルスターに収めると、一言の会話も交わさぬまま、死臭漂う総統地下壕の闇へと消えていった。アマデウスとシュナイダーが信じた「正義の暴力」は、それを遥かに凌駕する、狂信的で強大な「真の暴力」によって無残にも掻き消されたのである。しかし、その後彼らが守ろうとした国を待っていたのは、さらなる地獄であった。狂信者たちが縋り付いたベルリン防衛・解放作戦が成功するはずもなく、帝国はただ無残に、灰と瓦礫の山へと姿を変えた。二人の軍人がその身を挺して守り抜こうとした故郷は、かつて打ち倒すと誓ったアメリカ、そしてソビエトという二つの巨人に無慈悲に引き裂かれ、冷たい占領下に置かれることとなる。彼らが最期まで夢見ていた「ドイツの民主化と統一」が成し遂げられるのは、あの混沌とした戦乱の記憶が、もはや遠い歴史の遺物となってからであった。

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