お忘れ物海馬
物忘れが激しい僕のドタバタ劇場。未来、過去などの時間軸を考えずにただただ今を生きる。
お忘れ物海馬
小鳥が口ずさむほどの陽気な昼時、僕は街を歩いていた。心地のよい風が吹いて、僕は気分があがり、つい足取りがリズミカルになる。そこで足取りのリズムを小鳥のさえずりに合わせようと思った。ちゅん、たっ、ちゅん、たっ、ちゅん、たったっ。そのころには気分の上昇は限界地点を迎え、やがて中央地点へ落ち着く。無。
はっ、と僕は言った。脳内だけでよいはずだが、声に出してみた。何かに気づいた合図だ。シグナルを自分で送る。僕はどこを目指して歩いているのだろう。ここがどこかわからないが、新鮮さという感情が微塵に湧き上がらない。僕は視覚よりも感情を選んだ。というものの街はよく知っている街で、僕の記憶力のほうがどうかしているのだということだ。
「あのお」
背後から声をかけられた。対象は僕である。声量といい、声の発せられたところからの距離といい、僕に向けられたものだった。うん、僕。万が一違うかった場合恥を浴びることになるので、怖かった。しかし、僕のはずだ、僕のはずだと思い、振り返った。白いかぶりものとエプロンを着用した、いかにも料理人といった中年男性だった。鼻のど真ん中にほくろがあった。ダーツが出来そう、と僕は思った。
「はい」僕は、ほくろに向かって返事をした。
「これ忘れ物です」ほくろばかり見ていたが、差し出されたものを見た。それは僕の財布だった。
訳が分からなかった。どうしてこの人は僕の財布を持っているのだろう?僕はほくろを見て、考えた。いやほくろを見てはだめだと僕は考えた。ダーツをすることは一旦置いといて、普通に考えた。届け主は、さっきお昼ご飯を食べた定食屋の店主だった。
「ありがとうございます」と僕は反射で言った。そして、ほくろを見た。それから、わざわざ届けてくれたことに思いを馳せた。店を空けてまで、届けてくれたのだった。僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、ほくろを見た。
「わざわざすみません、この恩は一生忘れません」
「はあ」
店主の顔は、困惑を抱えられないといった様子だった。
やってしまったー、また変な人だと思われるー、僕は思った。
立ち去る店主のほくろは、顔の回転に合わせて放物線を描き、刹那を謳う流れ星のようだった。あーれー。ダーツしたいよーう。
気を取り直して、再び僕は歩き出した。歩きながら、僕は自分の記憶力について考えた。街のこと、財布を忘れたこと、定食屋のことと、全て忘れてしまっていた。背中を曲げ、両腕をだらりと前に垂らした。落ち込んだのだった。過去やこれから訪れる未来まで僕は忘れてしまうのだろうか?忘れたのは財布だけじゃなくて、頭脳まで忘れてしまったのではないか。
そんなナイーブもしばらくしたら忘れていた。
公園があった。僕は公園と言う場所が好きで、ただ何となく歩いていて、公園に行き着いたので思わず心の中でガッツポーズをした。そのつもりだったのに、自分の右手を見ると、拳は握られてたかだかと上げられていたので、驚いた。心の中だけでしたつもりだったのにーと思った。そこで気がついたことがあって、この状態を誰かに見られていたら恥ずかしいと思った。きょろきょろと周りを確認したら、僕の方を見ている人は居なくて、助かったという気持ちになった。そして、しめしめ隠蔽隠蔽と心の中で呟いた。誰も見ていなかったので、隠蔽することは簡単だ。
すると、ぽんぽんと僕の腰あたりを叩く手を感じた。
「いんぺいってなあに?」
振り向いたら、僕の下半身ぐらいの手丈の女の子が不思議そうに尋ねてきた。髪型はおかっぱ。しかし今は髪型なんでどうでもよい。それよりも隠蔽と心の中で言った言葉がまた口から漏れていたのだ。僕のバカー言葉おもらし野郎と心の中で言いたかったが、また実際に口にしてしまうのを恐れて、思うことすらをやめておいた。
そんなおんぼろ脳内を過ごしている間も世界は進んでいる。どういうことかというと、僕と女の子の向かい合っている時間も経過しているということ。その状態の1秒は長く、しかも女の子は僕に質問をしている。で、僕は答えられていないというありさま。変。変極まりない。
「何にやにやしてるの?」
返事を返せないということに丁度焦って来たところで女の子が再度質問を投げかける。
しかし僕は何も返せない。なんて言えばいいのかまったくわからない。
「いんぺいに関係していることなの?てか、いんぺいって何?英語?」
「日本語」
ようやく僕は質問に答えることが出来た。よっしゃー、僕は喜んだ。この調子、この調子。カモンベイベー。
「喜んでいるの?」
女の子は、透き通るような目で僕を見つめて、そう言った。
僕は思った。この子は人の心が読めるのだろうか?いや、また思っていることが外に出たのだろうか?その方が可能性は高い。人の心が読めるなんてあまりにメルヘンがすぎる。じゃあ今こうやって考えていることももしかしたら聞かれているのか。そう考えるととても恥ずかしい。なんで思っていることと言うことを別に出来ないんだあああ。ああもう。恥ずかしい、恥ずかしいよお。
「いんぺいって何?」
僕は走った。とにかく走りまくった。というよりもいつのまにか走っていたという状態だった。ともかく恥ずかしいという気持ちを置いて、逃げたかったのだ。恥の不法投棄、女の子にどう思われようが知ったこっちゃない。もう会わないだろうし、関係ないぜベイベ。あばよう。走るということは、歩くときよりも早く回す。木々の側のまだらの木漏れ日やゆるやかな時間を孕んだ風を、歩くときより早く浴びることになる。そんでもって僕の屈辱は颯爽となくなり、幾分か好戦的な性格へと移り変わった。
おっけい、おっけい、通常僕運転、ヒヤオ、いや待て待て、通常僕運転すべからず、新快速僕運転か?だってだってだって走ってるんだから、ヒヤオ、ヒヤオ。
水を指すこととなった。走るという行為自体は、正解だった。他人に(あんなに小さな女の子に)恥ずかしいところを指摘されて、そのうえ説明を求められて、そしてそのうえしどろもどろに陥る。その事態で心に預かった小絶望を取っ払うことが出来たのだ。うん、ここまでは上出来。自分の選択が成功したことは喜ばしいことだ。
しかし、物理的な問題。どこを走るかということをすっかりおろそかにしてしもうた。とにかく走れればいいと思っていた。とにかく走りまくってようやく気づいたのだが、僕は公園の中をぐるぐる回っていたのだった。もちろん一周すれば女の子に会う。その度に「いんぺいって何?」と聞かれ、僕は公園の中を回っていることに気がついていないので、「なんでいるの?」と聞いてしまう。女の子の質問は背後霊となり、僕はその呪縛から逃れられないのだろうかと考えてしまう。あああああ、となって走る。で、また会う。そんで、あああああ。走る。居る。あああああ。「いんぺいって何」が「ファイト!」だったらマラソン選手とマネージャーみたい、一人で考えて、くすくす笑う。
自分の走ったコースを思い返して、からくりに気がついて、公園から出た。恥ずかしさが上塗りされる結果となった。
用事を思い出した。じいちゃんところに行こうと思っていたのだった。すっかり忘れていた。何を僕は用事を忘れて、意味のわからない道草を食っていたのだと思った。旨くない道草、なんなんだよ、もう。ぺ。
たまたま公園は、じいちゃんの家までの通り道だ。目的はすっかり忘れていたが本能で目的に近づいていた。行き当たりばったりラッキーだ。こういうところは僕は昔からついているんだよな。
「だれじゃ」
くすみや汚れの目立つ木造建築、日々の手入れが伺える盆栽の数々を背後に、玄関先に立っていたじいちゃんは僕にそう言った。
「ひどいなじいちゃん、僕だよ僕。孫だよ孫」
僕は少しふて腐れながらそう言った。
「しらん」
「えー孫だよ」
「しらん」
「……」
参ったなあ、僕のこと忘れちゃったかあ、じゃあどうしようか、なんて話しかけようか、だって知らない人だからなあ、こういうときどうやって話しかけるんだっけなあ、困るな。と僕が一人で思っていると
「Yo」
とじいちゃんは言った。これに思わず僕はしめた!と思った。じいちゃんは僕のことを忘れてないじゃないかとも思った。僕の目に星が溜まるのを感じた。
「hey」
「チェケラ」
うん、これこれ、よし、僕は調子が上がって来た。
Yo hey チェケラ Yo hey チェケラ ガール?no
Old man Yo hey チェケラ。
じいちゃんも気分が上がって来たのか、懐からサングラスを取り出す。
Your head is ライトニング。
Yo hey チェケラ your クレイジー。
センキュー!
太陽が空に柔らかく滲む頃には、僕は帰宅した。外に出て過ごしていたので、足が疲れていた。頭もいっぱい利用した。
ソファーに寝転んで、ポテトチップを見ながらスマートフォンを齧った。なんだかしっくりこないなあと思っていると
「いや逆」母親が掃除機をかけながら、ツッコむを放つ。
「あ」
「じいちゃんどうだった?」
「ふつう」
「ふつうじゃわからない」
「うーん」
「来週のこと言ってくれた?」
「何のこと?」
「来週じいちゃんも誘ってご飯食べに行こうってゆってたじゃん」
「あ」
掃除機の音の部屋で、僕と母親は負けじと叫び合いながら、会話を繋げたのであった。すごいことだ、天晴れ。これが親子、僕は誇らしかった。




