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私は、ある日、湯殿の管理人が暗い顔をしているのに気づいた。特別報奨について考えていた時のことだった。
「……何か、悩みでもあるのか」
声をかけると、管理人は一瞬ためらい、目を伏せた。
「いえ……悩みというほどでは……ただ」
言葉を切る。
「……少し、歯が痛むのです」
言いにくそうに、そう言った。
私は小さく息を吐いた。この世界に、虫歯を治す術はない。悪化すれば、最後は抜くしかない。
しかし、脳裏に薬草の本の記述が浮かぶ。
けしの実。痛みを鈍らせる、とだけ書かれていた曖昧な説明。
水に浸し、海綿に含ませて口に当てる。あるいは、葡萄酒に浸し、飲ませる。どちらも量も効果も定かではない。それでも、使われてはいる。
私は管理人を見た。
「……治すことは出来ない」
先に言い切る。
「だが、痛みを和らげることは出来るかもしれない」
管理人が顔を上げかけ、しかしすぐに視線を落とした。
「……その、治療費となると……高額、なのでは」
言いにくそうに、言葉を選んでいる。 無理もない、この手の処置は金がかかる。
私は小さく息を吐いた。
「金は取らん」
管理人が、はっきりと顔を上げた。
「試してみるか。治療費は不要だ。代わりに経過を記録させる」
管理人は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「……それで、痛みが軽くなるのであれば」
その声には、わずかな期待が混じっていた。
私は頷いた。
「ならば、準備をさせよう」
医師の記録 歯痛に対する処置(けしの実の浸出)
一日目
殿下の指示により、歯痛を訴える管理人に対し、三種の処置を試みる。
一つ、水に浸したもの。
一つ、強い酒に浸したもの。
一つ、砕いた実をそのまま患部に当てるもの。
いずれも、量はごく少量より開始。反応を見ながら増減するよう命じられた。
まず、水に浸したものを用いる。しばらく浸した後、海綿に含ませ、患部に当てさせた。
患者の反応は、弱い。
「……少し、鈍い気はしますが」
痛みは残っている。変化はあるが、明確とは言い難い。飲ませたのを併用するが、反応はやはり弱い。
次に、砕いた実を直接、歯の周囲に当てる。強い苦味を訴える。
「……これは、きつい」
しばらくして、顔の強張りがわずかに緩む。
だが、効果は安定しない。痛みが引く時と、戻る時がある。持続も短い。
最後に、強い酒に浸したものを与える。少量を飲ませ、同時に海綿にも含ませて患部に当てる。
しばらくして――患者の表情が変わる。
「……あれ」
手が止まる。
「……痛みが、遠い」
記録する。明確な変化あり。
顔の緊張が抜け、呼吸が安定する。問いかけにも遅れが出る。
「……少し、眠い」
意識の鈍化を確認。過量の危険ありと判断。
本日はここで中止。経過観察とする。
三日目
同様の処置を、量を調整して継続。
水出し――効果、弱い。補助程度。
直接塗布――即効性はあるが、不安定。持続短し。
強い酒で浸出――最も強い効果を示す。痛みの消失、あるいは大幅な軽減を確認。
ただし、眠気、反応の遅れあり。量の管理が必須。
五日目
寝る前に強い酒で浸出させたのを、患者に飲んで貰う。飲んだ時、顔をしかめる。患者、夜間の痛みによる覚醒が減少。睡眠が取れている。
「……久しぶりに、眠れました」
その言葉を記す。
七日目
処置の前後で、明確な差を確認可能。
強い酒の浸出液は、使用後、短時間で効果発現。持続も長い。
結論として、けしの実は、単体でも効果はある。しかし強い酒に浸すことで、効きが強く、深くなる。
備考
殿下は、最初から葡萄酒の使用を前提としていたように見える。水では足りぬことも、直接では不安定なことも、見越していたのか。
この薬は、使い方を誤れば危うい。
なお、殿下はこの薬について、別途言及している。
「これは、痛みを消すが――同時に、人を壊す可能性がある」
けしの実より得られる成分は、強い依存を招く恐れがあるという。使い方を誤れば、苦痛を和らげるどころか、快楽に溺れさせ、やがては人を衰えさせる。
「この地はまだ、法も規律も十分ではない。放てば、いずれ濫用される」
そのため殿下は、この薬の使用を厳しく制限するよう命じた。
許可なく扱うことを禁じ、使用は医師の監督下に限る。記録を残し、量を定め、目的を逸した使用は認めない。
「信頼できる者にのみ扱わせる。広めるな」
この言葉は、強く念を押されている。
利であると同時に、禍にもなり得るものとして、殿下はこれを扱っている。
だが、正しく用いれば、痛みを消す。抜歯、あるいは他の処置においても、有用である可能性が高い。
医師の記録 歯の抜去における試行(けしの実・強い酒浸出液の使用)
一日目
対象は、例の管理人。
右奥歯の虫食いが進み、歯の根まで達していると見られる。保存は不可能。抜去以外に道はない。
通常であれば、押さえつけ、短時間で引き抜く。患者は激痛に耐え、術後もしばらくは苦しむ。だが今回は、殿下の指示により、例の薬を用いる。
強い酒に浸したけしの実の浸出液。量は慎重に。前回の記録を元に、過不足のない範囲を選ぶ。
患者に飲ませる。さらに、海綿に含ませ、患部に当てる。しばらくして、変化が現れる。
「……ぼんやり、します」
受け答えはある。だが遅い。
視線が定まらず、身体の力も抜けている。
痛みの有無を問う。
「……まだ、あるが……遠い」
記録する。完全ではないが、明確に鈍化している。殿下が短く言った。
「今だ」
理髪外科の者が、器具を取る。鉄の鉗子。見慣れた道具だ。患者の頭を軽く支える。押さえつけは、ほとんど不要だった。
歯を掴む。通常であれば、ここで患者は暴れ、叫ぶ。それなのに。
声は出ない。力を込め、揺らし、引く。鈍い音とともに、歯が抜けた。血が滲む。だが、患者はただ息を吐いた。
理髪外科の者が、手を止めた。信じられぬ、という顔だった。患者はしばらく口を開けたまま、やがてゆっくりと閉じた。
「……終わったのですか?」
その言葉を、記す。
周囲にいた者たちが、互いに顔を見合わせる。誰も、すぐには声を出せなかった。
処置は成功。術後、出血は通常範囲内。
患者は軽い眠気を訴え、そのまま横になった。大きな混乱も、暴れもなし。
備考
これは、明らかにこれまでと異なる。痛みがないわけではない。だが、耐えられる。
処置そのものが、変わる。理髪外科の者が言った。
「……これがあれば、もっと出来る」
その言葉の意味は、重い。
殿下は何も言わなかった。ただ、記録を続けさせた。
管理人視点
その後、湯殿の管理人はしばらくの間、周囲から問い詰められていた。
「本当に抜いたのか?」
「痛くなかったって、どういうことだ」
口々に投げられる言葉に、管理人は困ったように眉を寄せた。
「……何度も言っているだろう。抜いた。だが、痛くなかった」
疑いの視線が、さらに強まる。
「そんな馬鹿な。あれは、死ぬほど痛いと聞くぞ」
「騙されているんじゃないのか?」
管理人は首を振った。
「そんなことはない。確かに、何か飲まされた。……けしの実だと言っていた」
その言葉に、場の空気が変わる。
「けしの実だと?」
「……あれは、高いぞ」
誰かが低く言った。
痛みを鈍らせるものとして、名だけは知られている。だが、その値は高く、貧しい者の治療に使われることは、まずない。
歯の痛みは、耐えるか、悪化すれば抜くしかない、それが当たり前だった。
管理人は少し黙り込んだあと、ぽつりと続けた。
「……どうやって、この恩を返せばいいのか分からん」
処置の後、同じ言葉を口にしたときのことを思い出す。殿下は、あっさりと答えた。
「返す必要はない」
そう言い切る。
だが、それで終わらせはしなかった。
「これは、別だ」
管理人が顔を上げる。殿下は控えていた者に視線を向けた。
「記録に残せ。湯殿の管理を任せる者としての働き、十分と認める、と」
ざわりと、周囲の空気が動く。
「今後、湯殿に関する裁量を一部委ねる。人の配置、維持のための費用についても、一定の決定権を持たせる」
管理人の目が見開かれた。
「……殿下、それは……」
「加えて、家族がいるな。冬の間の穀物は、こちらで出す。働きに見合うだけの余裕は、持っていろ」
完全に言葉を失った。殿下はそれ以上は続けない。
「これは報酬だ。気にするな」
管理人は、しばらく何も言えなかった。
やがて、震えるように息を吸い、深く頭を下げる。
「……必ず、務めを果たします」
その声は、以前とは違っていた。
その後の周囲は騒がしかった。
「本当に痛くなかったのか」
「どれほど飲んだ」
「他に何をされた」
問いは尽きない。管理人は、困ったように頭をかいた。
「……そんなに聞かれてもな。正直、あまり思い出せん。ぼんやりしていてな」
少しだけ苦笑する。
「……あまり広めんでくれ。これ以上、質問が増えるのは困る」
その言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。
だが同時に、誰もが同じことを考えていた。
(本当に、痛くないのか)
その疑問は、静かに、確実に広がっていった。
そしてもう一つ。第三王子殿下は、どこまで見えているのか。痛みを消す薬を知り、使い、そして惜しみなく与える。
それだけではない。人の働きを見て、正しく報い、先を見据えて動いている。
誰も、はっきりとは口にしないが、心のどこかで理解していた。
この地が変わっていく理由は、あの方にあるのだと。




