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ある一室。石造りの壁に囲まれた、静かな部屋だった。卓の上には、いくつもの記録が並べられている。
黒衣の男が、一枚の紙を指で押さえた。
「……皮膚の病が治癒した件についてだ」
低い声。対面に座る者たちが、無言で頷く。
「事実は認める。だが――理由が曖昧だ」
別の男が口を開く。
「温泉のみであの変化は早すぎる。記録にもばらつきがある」
紙をめくる音。
「初期の観察が甘い。症状の程度も統一されていない」
やがて、一人が言った。
「……ならば、最初から揃えるべきだ」
視線が集まる。
「条件を統一し、経過を追う。誰が見ても否定できぬ形で、我々が監視すべきだ」
ゆっくりと、頷きが広がる。
卓の上に、新たな紙が置かれる。そこに書かれたのは、別の病。痩せ細った身体、長く続く下痢、腹痛、食欲不振。
「急性ではない。ゆっくり削る類だ」
誰かが呟く。
「治癒の“差”が出やすい」
「誤魔化しも効かぬ」
一人が深く頷いた。
「……これを送れ」
私は送られた紙を机に置いた。目を静かに通す。
……急な病ではない。
食が細いのか。違う、食べても身になっていない。腐った食か。だが、それなら周囲にも同じ症状が広がるはずだ。
私は一度、目を閉じた。残るとしたら。
「……水だな」
小さく呟く。おそらく腐ったものか、汚れた水か。あるいは、その両方。腹を壊し、吸収が出来ずに衰弱する。食べても身になっていない。
控えていた医師が眉をひそめる。
「……殿下、こちらは皮膚ではなく、内の病です」
言葉は丁寧だった。だが、その視線は私ではなく、背後へ一瞬だけ流れた。
私は、そちらを見た。扉の脇に黒衣の男が、静かに立っていた。何も言わず、ただ、見ている。
「分かっている。だからこそだ」
短く言った。
「……この症状なら、効果があるはずだ」
医師は言葉を飲み込んだ。しかし、頷く。
「……承知しました」
医師と黒衣の男が去ってから、私は息を吐いた。
「……試されているな」
医師の記録 (慢性の腹下しの患者)
一日目
患者を収容。高齢の男。長く下痢を患い、衰弱著しい。まず、食事を止めた。代わりに、殿下の指示に従い、温泉水に塩と蜂蜜を混ぜたものを与える。
量は少量、だが回数を増やす。さらに、湯は飲ませるだけでなく、温めた状態で腹部を冷やさぬようにする。
患者は怪訝な顔をした。
「……薬では、ないのか」
「飲め」
それだけを告げる。大きな変化はなし。ただし、嘔吐は見られず。
三日目
下痢の回数、減少。完全には止まらぬが、間隔が伸びている。患者の顔色、わずかに改善。同じ水を与え続ける。加えて、殿下の指示により柔らかく煮た穀物を与える。粥に近い。刺激の少ないものだ。
患者は言った。
「……腹が、重くない」
記録する。薬は使っていない。それでも、変化は出ている。
五日目
下痢、さらに減少。一日数回まで落ち着く。
これが最も不可解である。これまで同様の患者は水を与えれば弱り、食を与えれば悪化した。だが今回は逆だ。水を与え続けているのに、弱らない。
七日目
患者、自力で立つ。歩行は不安定だが、支えれば数歩進む。周囲の者がざわめいた。
「……もう、動けるのか」
患者自身も戸惑っている。
「……腹が、痛くない」
その言葉を記す。
十日目
下痢、ほぼ収まる。食事量、増加。食事は、粥、卵、温かい水。辛い物、塩気の強い物は一切与えず。患者の体力、明らかに回復。
顔に色が戻る。
十四日目
患者、自力で歩行可能。短距離ではあるが、支えなしで移動。周囲の評価、変化する。
「寝たきりだったはずだ」
「別人のようだ」
声が上がる。
備考
殿下は、この結果を予見していたように見える。水、塩、甘味、ただそれだけで、衰弱を止めた。さらに、食を制限した。これにも、何か理があるのか。まだ重ねなくてはいけない。
ある一室。
石壁に囲まれた部屋に、数人の男が集まっていた。卓の上には、記録が並ぶ。皮膚の病、腹の病、その両方の経過。
一人が、紙を閉じた。
「……何故、何も見つからない」
低い声だった。別の男が、すぐに言葉を返す。
「処置は単純です。湯、洗浄、そして――水に塩と甘味を加えたもの」
「それだけか」
間を置かず、問いが重なる。
「他に、薬は」
「使っておりません」
短い沈黙。
紙をめくる音だけが、響く。
「……本当に、これが全てなのか」
疑いは、消えていない。視線が一人に集まる。報告をまとめた男が、静かに口を開いた。
「そうです」
それだけだった。誰も、すぐには言葉を続けなかった。理解できないものを、否定はできない。だが、受け入れるにも、材料が足りない。やがて、誰かが低く呟く。
「……ならば」
視線が動く。
「まだ、何かがある」
断定ではない。
だが、それ以外に答えはなかった。
「見落としているだけだ。……祈りもなく、これほどの結果が出るはずがない」
その言葉の後、沈黙は長く続かなかった。
「もう一度、調べるべきだ」
低いが、はっきりとした声。
「条件を揃え、もう一度、最初からだ。観察が足りぬ。見落としがある」
すぐに、別の声が重なる。
「そうだ。こんなことが、あるはずがない」
強い調子だった。
それは疑念ではなく、拒絶に近い。頷きが、いくつか返る。
「何かが混ざっている」
「記されていないだけだ」
「あるいは、意図的に――」
言葉は途中で切られたが、意味は十分に伝わる。一方で、別の男は小さく息を吐いた。
「……そこまで追う必要があるか」
誰に向けたとも知れぬ声。
「結果は出ている。人も集まり始めている。ならば、それで足りる」
数人が、そちらに視線を向ける。
「理をすべて暴かねば、扱えぬものでもあるまい」
静かな声だった。
だが、その響きは冷たかった。
「……面倒な話だ」
誰かが、小さく呟いた。
それは否定ではない。ただ、深入りを避ける響きだった。
沈黙。同じ記録を前にしながら、見ているものは違う。探す者、疑う者、切り捨てる者。やがて、一人が言った。
「……いずれにせよ、放置は出来ぬ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。




