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私は、医師を呼んだ。
「患者を集める。皮膚の病で、長く患っている者だ。数がいる」
医師は、わずかに眉を寄せた。
「……選ぶのですか」
「そうだ」
迷いはなかった。
数日後、患者の名、症状、経過が書かれた紙の束が机に置かれた。私は一枚、また一枚と目を通した。そして、私は紙を指で叩いた。
「これだ」
数枚を抜き出す。赤く荒れた皮膚、掻き壊した跡、広がり方の早さが似ていた。
「まずは、この者たちだ」
医師はそれを見て、難しい顔をした。
「……殿下。これは、かなり長く放置された者もおります」
「知っている。しかし、これらは治る」
はっきりと言う。医師の目が、わずかに揺れた。
「……根拠は」
「結果で示す」
それだけだった。私は続ける。
「湯は使う。だが、それだけでは足りない。徹底的に洗え」
「……洗う?」
間を置かず、言葉を重ねる。
「湯に入る前に洗う。上がってからも洗う。布、衣はすべて煮るように」
医師の眉が深くなる。
「……そこまで、するのですか」
私は頷いた。
やがて、医師が口を開く。
「……危うい賭けです」
私はわずかに口元を歪めた。
「賭けではない。始まりから終わりまで、全てを記録しろ」
静かな声だった。
「誰が、どう変わったか。日ごとに書く。曖昧な言葉は使うな。後から見て、誰でも分かるように残せ」
長い沈黙。
やがて、医師がゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
私は紙束を閉じた。
「始めるぞ」
その時だった。
「――お待ちください」
マルクが一歩進み、口を開く。
「治療の前に、人々に見せるべきです」
医師が顔を上げる。
「……見せる、とは」
「今の状態を、です」
私は短く問う。
「理由は」
マルクは迷わなかった。
「後だけでは疑われます。軽かっただけだ、すり替えだ、と」
わずかに間を置く。
「人は、見ていないものを信じません。先に刻ませるべきです。“今”を」
……なるほど、理はある。
だが、胸の奥にわずかな引っかかりが残った。前世の感覚が、囁く。
私はゆっくりと息を吐いた。
この世界では、それは異質ではない。罪人は広場で縛られ、鞭を受ける。異端と疑われれば、壇上に立たされる。赦しを乞う者は跪き、施しを受ける者もまた、人の目に触れる。
病もまた、隠して守られるものではない。
見られ、確かめられてこそ、意味を持つ。
……私の躊躇は、この世界では、正しくない。
「……分かった。先に見せる」
マルクが頭を下げる。
「はい」
医師は一瞬、言葉を失った。だが、やがて黙って頷いた。異論は出ない。
この地では、人は人前に立たされるものだ。
だから誰も、それを止めなかった。
その日を迎える前。
私は、村長の娘にすべてを話した。何をするのか、なぜ必要なのか、そして人前に立つことになると。
「……嫌なら、断っていい」
はっきりと告げた。娘はしばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「……意味が、あるのですね」
「ああ」
短く答える。娘は、小さく息を吸い頷いた。
「なら、やります」
迷いはなかった。
「隠したままでは、変わらないのですよね」
その言葉に、私は一瞬だけ目を細めた。
……聡明だ。
「頼む」
それだけを言った。
その日。
患者たちは、人前に立たされた。だが、晒されたのではない。“確認された”のだ。
場所は、教会の前の広場。石畳の上に、簡素な台が据えられる。集まったのは、村人だけではない。通りがかりの巡礼者、商人、そして黒衣の神父たち。ざわめきが広がる。
「……何をする気だ」
「治す前に見せると聞いたが」
「そんなことをして、どうする」
疑いと、不安。その中で、患者の一人が前に出た。年若い娘で、顔を伏せていた。指は、布の端を強く握りしめている。
私は一歩、前に出た。
「見ろ」
それだけを言った。
強制ではないが、逃げ場もない。娘は、ゆっくりと顔を上げ、自ら、布を外した。
息を呑む音が、広がる。
赤く荒れた皮膚、掻き壊された跡、乾ききらぬ膿。
「……ひどいな」
誰かが、思わず漏らした。
「村長の娘か……?」
目を逸らす者もいた。眉をひそめる者もいた。けれど誰も、目を背けきれなかった。
そこにあるのは、誤魔化しようのない“現実”だったからだ。
神父の一人が、前に出る。無言で頷き、記録係に目をやる。彼の羽根ペンが走る。
「症状、確認」
低い声。
それだけで、十分だった。
次の患者、その次、同じように、見せる。隠さず、誇張せず、そのままを。やがて、広場に静けさが落ちた。
「……これが、今の状態か」
誰かが言う。
「そうだ」
別の者が答える。
私は、その様子を見ていた。
後で何が起きようと、前が残っている限り、言い逃れはできない。私は医師に視線を向けた。
「記録しろ。今日の顔も、な」
医師は、深く頷いた。
「……はい」
その目には、すでに迷いはなかった。
処置に入る前、私は医師だけを呼び止めた。
「ここにいる者にだけ伝える」
低く言う。
「これから行う施術と記録に、祈りを込めるな」
医師の目が、わずかに見開かれる。
「……それは」
「誤解するな。教会への叛逆ではない。ただ、“祈りがなかった”という事実を残す」
短く、言い切る。
「後になって、必ず意味を持つ」
医師は沈黙したまま、こちらを見ている。
「癒やしの湯だ、神の御業だ、そう言われることは否定しない。好きにさせろ。しかし、記録は必ず残せ。曖昧にするな」
医師は、無言で頷いた。
医師の記録 第一例(村長の娘)
一日目
処置を行う。殿下の命により、まず全身を洗わせた。湯の前に水で洗い、垢と汚れを落とした。その後、温泉に浸す。衣服、寝具はすべて回収し、大鍋で煮沸させた。
ここまで徹底する意味は、正直なところ理解し難い。症状に大きな変化は見られず。
ただ、患者は言った。
「……かゆみが、少し楽です」
それで何が変わるのか。この時点では、判断不能。
三日目
赤み、わずかに引く。掻き壊しの傷が乾き始めている。患者の訴え。
「夜、眠れました」
これまで、かゆみにより睡眠が妨げられていたとのこと。改善は事実。
だが、理由が分からない。
五日目
明確な変化を確認。新たな発疹の出現が減少。既存の患部も、広がりが止まる。皮膚の表面が乾き、ただれが減少。
患者が自ら患部を掻く回数が減っていた。進行が止まっている、とここで初めて確信に近い感覚を得る。
だが、それが何かは見えない。
七日目
赤み、大きく減少。皮膚の色が、周囲と近づき始める。かさぶたが自然に剥がれ、新しい皮膚が見える。患者の表情も変わる。
「……人前に出られる気がします」
その言葉を、記す。治癒過程において、精神の変化も無視できぬ。
十日目
ほぼ新規の症状なし。患部は縮小し、境界がはっきりしてきた。治癒が進行している。疑いようがない。
十四日目
遠目には、ほぼ判別不能。近くで見れば痕跡は残る。だが、病とは言い難い。ここに至り、結論を仮置きする。
この病は「広がるもの」であり、「移るもの」でもある可能性が高い。
ゆえに洗浄、衣服の煮沸、寝具の処理、これらによって「断たれた」。
そう考える他ない。
備考
殿下は、最初から結果を知っていたかのように指示を出した。理由は語られなかった。
しかし、これは偶然ではないのか。
同様の処置を他の患者にも施したが、ほぼ同じ結果である。早い、遅いはあるが。
記録を継続する。
最初に連れてこられた患者たちは、再び人前に立った。
陽の下に、隠していたものを、今度は隠さないために。集まったのは、村の者だけではない。商人、通りがかりの巡礼者、噂を聞きつけた者たち。人は、増えていた。
ざわめきが、波のように広がっている。
「……あれか」
「本当に、やるのか」
「見せると言っていたが……」
半信半疑。だが、目は離さない。やがて、患者の一人が前に出た。年若い娘だった。
彼女は、わずかに息を吸い、自ら、布に手をかけた。
誰も、声を出さなかった。
肌は、滑らかだった。完全ではなく、まだ跡は残る。だが、あの荒れはない。膿も、腫れも、消えている。
「……違う」
誰かが、呟いた。
「同じ、者か……?」
ざわめきが、膨らむ。
「おい……あれ、村長の娘だろう」
「本当か? 酷い皮膚だったのに」
「そうなのか?」
疑いの声。しかし娘は顔を上げた。
隠さない、逃げない。その姿が、何よりの答えだった。
「……本当だ」
別の声が漏れる。
「本当に、治っている」
ざわめきは、もはや抑えきれない。
さらに、別の患者が前に出る。
腕、首、背、同じように、かつては荒れていた皮膚。それが、明らかに、変わっていた。
「……なんだ、これは」
「湯、か?」
「いや、それだけでは……」
人々は口々に言う。だが、誰も答えを持たない。ただ一つだけ、分かることがあった。
治っている。
その日の夕方。町の中で、噂は一気に広がった。
「見たか?」
「見た。あれは……本物だ」
「信じられるか。あの娘だぞ」
「湯で、あそこまで……」
そして、誰かが言った。
「奇跡だ」
その言葉は、軽くはなかった。しかし、否定する声も、弱かった。
数日後。教会の者たちが、静かに動き始めた。黒い衣姿で無言のまま、患者たちを見て回る。
肌に触れ、記録を取り、問いを重ねる。
「いつからだ。何をした。誰が診た」
患者は答えた。
「身体を洗い、服を煮ました。あと、寝具も洗いました」
それだけだ。
やがて、司教座へ報告が上がった。
――治癒は事実である。それから程なくして。説教の中で、言葉が変わる。
「この地には、癒しの湯がある」
慎重な言い回し。だが、確かに認めている。
「主の御業は、時に我らの理解を超える」
人々は顔を上げる。
「その恵みが、この地に現れたとしても、不思議ではない」
ざわめき。それは、宣言ではない。だが、十分だった。
巡礼者の、行き先が変わった。
「癒しの湯があるらしい」
「皮膚の病が治ると」
「教会も否定していない」
噂は、尾を引き、広がり続ける。
そして。いつの間にか、人々はこう呼び始めた。
「聖なる癒しの温泉地」
誰が最初に言ったのかは、分からない。




