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王都では、第一王子のもとに様々な報告が届いていた。
第一王子が一通の報告書を手に取る。
「……またレオンハルトの話か」
宰相が静かに頷いた。
一人の貴族が口を開く。
「宮廷伯は、喜ぶべきことです。大国が我が国の王子を厚遇したという証。第三王子をこちらへ引き寄せるべきです」
だが、別の貴族がすぐに首を振った。
「いや、軽々しく喜ぶべきではないでしょう。あちらの宮廷に取り込まれた可能性もあります」
「間者になったとでも?」
「可能性は否定できません」
第一王子は黙って二人の言葉を聞いていた。
そこへ別の報告が読み上げられる。
「商人組合からの奏上です」
書記官が言った。
「関税撤廃の件で利益が出ているそうです。第三王子殿下の外交を評価し、今後の交渉にも殿下を前面に立てるべきだと」
一人の貴族が鼻で笑った。
「商人はいつも金の話だ」
「しかし国庫も潤う」
別の男が言う。
「商人の言い分も、無視はできないでしょう」
第一王子は指で机を軽く叩いた。
「……他には」
書記官が次の書状を開いた。
「温泉地での出来事です。倒れていた医者と旅人を救ったとか」
宰相が補足する。
「どうやら宿の換気を命じたようです。それで命を取り留めたと」
一人の老貴族が低く言った。
「ほう……」
だが、そこで教会関係の使者が口を開いた。
「聖職者の間では別の噂が広がっております」
第一王子が眉を上げる。
「どんな噂だ」
使者は少し声を落とした。
「第三王子殿下は“魔を見抜く力”を持つのではないか、と」
部屋の何人かが顔をしかめた。
「ばかばかしい」
「民はすぐ奇跡を作る」
だが、使者が静かに言う。
「……しかし、その噂は巡礼者の間で広がりつつあります」
すると別の貴族が鋭く言った。
「そのような話は危険だ」
第一王子が視線を向ける。
使者は続けた。
「奇跡を語る者もいれば、逆にこう言う者もおります」
「何と?」
「魔を見抜いたのではない。邪法に触れているのではないか、と」
空気が一瞬静まり返った。
宰相が低く言う。
「……異端の疑い、ですか」
「はい。教会の一部では、そのような声も出始めています」
第一王子はしばらく黙っていた。
やがて書記官が最後の報告を開く。
「医師組合の意見です」
「ほう」
「殿下の衛生の指示について、意見が分かれております」
「分かれている?」
「はい。『理にかなっている』と言う者と……」
書記官は少し言いにくそうに続けた。
「『素人が医学に口を出している』と反発する者です」
部屋に小さなざわめきが起こった。
第一王子は静かに椅子にもたれた。机の上には、弟に関する報告が積み上がっている。
大国の宮廷伯。商人の支持。民衆の噂。教会の賛否。学者の反発。
それらすべてが、一人の王子を巡って動き始めていた。
第一王子は小さく呟いた。
「……レオンハルト」
宰相は、第一王子を静かに見ていた。
王都に戻ったその日の夜だった。
私は王宮の一室へ呼ばれた。呼び出したのは第一王子だ。理由は簡単だった。
「帰還の祝いだ。遅くなったが、酒でも飲もう」
そんな理由だった。
扉を開けると、部屋にはすでに明かりが灯っていた。重厚な机の上には、いくつかの皿と酒瓶が並んでいる。
第一王子は椅子にもたれ、手にした杯を軽く振った。
中に入っているのは濃い赤の葡萄酒だ。王宮の地下蔵で寝かせていたものだろう。皿の上には簡素なつまみが並んでいた。
塩を振った焼き肉。干した鹿肉の薄切り。
山羊の硬いチーズ。それに黒パンと、蜂蜜漬けの木の実。
王族の宴にしては、ずいぶん質素だ。だが、兄弟で飲む酒ならこれで十分だった。
第一王子が杯を掲げる。
「遅くなったが――お帰り」
私は軽く杯を取った。
「ただいま」
杯を合わせる音が、小さく響く。
一口、口に含む。
濃い。舌に乗せた瞬間、重みのある渋みが広がる。だが、それだけではない。遅れて、熟れた果実の甘みがわずかに残る。長く寝かせた酒特有の、丸みのある深さだった。
……強い酒だ。
だが、不思議と嫌な重さはない。静かに、内側に落ちていく。
私は、もう一度だけ、杯を傾けた。
第一王子は私を見ながら言った。
「お前の噂が絶えない」
少しだけ間を置いて、杯を傾ける。
「……大国では、よく頑張ったな」
私は肩をすくめた。
「それほど大したことはしていません」
「そうか?」
第一王子は少しだけ、笑った。
「大国で宮廷伯を貰い、商人に持ち上げられ、温泉では人を救った」
そして杯を揺らす。
「教会では“魔を見抜く王子”だそうだ」
私は苦笑した。
「単なる、噂です」
「だろうな」
第一王子も、一口、酒を飲んだ。しばらく沈黙が続く。そして、ふとしたように言った。
「ところで」
私は顔を上げる。第一王子は静かに続けた。
「宮廷の仕事をやらないか」
「……仕事?」
「宰相補佐とか……」
そう言って、第一王子は指で机を軽く叩いた。
「まあ、私の評議に入れば良い」
私は黙った。第一王子は続ける。
「外交も商人も、お前は妙にうまく扱う」
杯を置く。
「私の側にいた方が国の役に立つ」
部屋は静まり返った。
私はしばらく何も言わなかった。
ただ、杯の中の葡萄酒を見つめていた。
揺れる赤が、灯りを受けてわずかに暗く沈む。
表面は静かだが、わずかに揺れている。 まるで、この場そのもののように。
……甘い話ではない。
兄の言葉は、軽い誘いではない。 置かれた場所も、背負うものも、変わる。
杯を、わずかに傾ける。
赤は、ゆっくりと形を変えた。




