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私はその場を後にし、別館へ戻ることにした。
……王族の風呂くらいは、滞在している間だけでも、まともにしてもらう。
我慢は、もう、やめた。前世でもそうだったが、我慢して得をしたことなど一度もない。
別館に着くなり、私は控えていた従者を呼んだ。
「人を集めろ。王族用の湯殿も手を入れる」
こうして、王族用の湯殿は一度すべて湯を抜き、徹底して洗われることになった。
床石も、湯船も、桶も。長年の垢を削り落とすように磨かせた。
そして、整えられた湯に身を沈めた時――私は小さく息を吐いた。
……快適だ。
これだ。求めていたものは。
そして私の滞在中だけではあるが、いくつかの決まりも作った。
風呂に入る前には必ず桶で身体を流すこと。
湯殿では炭火を焚く時、窓を少し開けておくこと。湯殿では、食事をしないこと。
難しいことではない。
私がいる間だけでも、この温泉がまともに使える場所になればいい。
こうして、「第三王子殿下の規則」と呼ばれるものができた。
2ヶ月の休暇の終盤、温泉地の様子は少し変わっていた。
最初の頃、私の命令を聞いた宿の者たちは、正直なところ半信半疑だった。だが、王族の命令だ。嫌でもやるしかない。
そして休暇の終わりが来た。
王都へ戻る日、宿の主人が見送りに来た。
「殿下」
男は深く頭を下げた。
「……あの決まりですが」
私は馬上で振り返る。
「問題が起きたのか?」
主人は少し考えてから言った。
「そうでは、ございません」
「では、何だ?」
「全部は難しいかもしれません。ですが……水の汲み場と、風呂に入る前のと、水の桶は、このまま続けようと思います」
私は肩をすくめた。
「好きにしろ」
主人は苦笑した。
「旅人が言うのです。『宿も、湯もきれいだ』と」
私は何も答えなかった。
後になって、このやり方は、少しずつ他の宿にも広がることになる。
理由は単純だった。
「殿下の規則のある宿は、病人が出にくい」
誰かがそう言い出したのだ。
真偽はともかく、旅人はそういう話を好む。
こうしてこの温泉地には、私が去った後も、この習慣が残ることになった。
その出立の朝。
マルクは馬の手綱を整えながら、静かに腕を動かした。
かつて受けた矢傷が、わずかに軋む。
――だが、不思議なことに、この二ヶ月ほどで随分と痛みは軽くなっていた。
温泉は怪我の療養に良い。そう言っていた騎士がいたが、どうやら本当らしい。
殿下は滞在中、毎日のように風呂に入るよう命じた。
最初は奇妙な習慣だと思ったものだ。だが今では、湯に浸からぬ日の方が落ち着かない。
マルクは湯気の立つ温泉宿を振り返った。
静かな山あいの土地。人を癒す湯。
――殿下らしい土地だ。
マルクは小さく息を吐いた。
そして、ふと思う。
いつしか、この土地は殿下のものになるのかもしれない。
根拠などない。ただ、そんな気がしただけだ。
もうすぐ王都へ戻る。この静かな温泉地も、湯気の立つ朝も、今日で終わりだ。
そう思うと、少しばかり残念な気もした。
――我ながら、贅沢に慣れてしまったものだ。
その頃、王都にて。
王宮の奥にある小さな政務室で、国王、第一王子、そして宰相が向き合っていた。
しばらく沈黙が続いた後、宰相が静かに口を開いた。
「陛下」
国王は杯を置いた。
「申してみよ」
宰相は一礼して言った。
「レオンハルト殿下について、少々申し上げるべきことがございます」
第一王子が視線を向ける。宰相は淡々と続けた。
「第三王子殿下は、大国より宮廷伯の爵位を授かっております」
「うむ」
国王は短く頷いた。
「さらに温泉地で人命を救ったという噂も、すでに教会や商人の間に広がっております」
第一王子が腕を組んだ。
「それが何か問題か」
宰相は静かに言った。
「問題になる可能性がございます」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
「人望があると、レオンハルト殿下を担ごうとする者が、現れるやもしれません」
国王は黙って宰相を見た。宰相は言葉を選びながら続ける。
「ゆえに二つの道がございます」
「ほう」
「一つは、殿下を中央に置くこと。宰相、あるいは宰相補佐として政務に参画させる道」
第一王子が眉を上げる。
「殿下には、宰相としての器があると私は考えております。しかし、もう一つは」
宰相は静かに言った。
「地方の領主として赴任していただき、中央から距離を置くこと」
国王は椅子に深く座り直した。
「……なるほど」
宰相は続ける。
「どちらが良いという話ではございません。ただ、放置するのが最も危ういかと」
第一王子はしばらく考えてから言った。
「つまり」
「はい」
「レオンハルトを“どこに置くか”を決めよ、ということだな」
宰相は静かに頭を下げた。
「左様でございます」
しばらく沈黙が続いたあと、国王は第一王子を見た。そして、静かに口を開いた。
「この先、王国の政はお前が担う」
第一王子は、国王を見た。
「お前の時代だ。思うように決めよ」
第一王子は深く頭を下げた。
「畏まりました」
国王は頷き、杯を手に取った。




