65
翌日、私はもう一度あの宿へ向かった。
あの時、宿から少し離れた場所で、マルクは私に言った。
「まだ疫病の可能性があります。殿下は近づかないでください」
「……待て、マルク」
近くに立っていた彼が、すぐに姿勢を正す。
「は」
私はマルクを見て言った。
「お前の言う“疫病”とやらは、どういうものだ」
マルクはわずかに首をかしげた。
「どういう、と申しますと」
「汚れそのものが毒となって、人の体を蝕むのか」
一拍置いた。
「それとも、汚れを餌にして、“増える何か”が体の中で暴れるのか」
マルクは、はっきりと困惑した顔をした。
「……増える、何か?」
「ああ」
私は少し頷いた。
「目には見えぬほど小さく、水や食べ物に紛れて入り込むものだ」
しばしの沈黙。やがてマルクは、ゆっくりと首を振った。
「そのようなものは、聞いたことがありません」
きっぱりと言い切る。
「汚れに触れれば、体が蝕まれる。それだけのことです。悪い気の溜まる場所に近づかぬ――それが鉄則ですから」
私は小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
この世界には、まだない。
「極小のものが、己を増やす」という概念そのものが。
ならば、私の知識は、ここにおいては魔法に先立つ“予言”となる。
その日は、マルクが私を強く止めた。
倒れていた者たちは一命を取り留めたとはいえ、原因はまだはっきりしていない。
万が一、病が広がる類のものなら、王族が近づくべきではない、と。結局、医者と宿の者に任せ、私は別館へ戻るしかなかった。
そして一日が過ぎた。
倒れていた者たちは回復し、同じ症状の者も出ていない。その部屋は、使わないように指示を出しておいた。
今朝になって、ようやくマルクが言った。
「もう現場を見ても、問題ないでしょう」
私は頷いた。昨日の時点でも、宿の環境が良くないことは想像できた。だが、想像だけで口を出すのは好きではない。
前世でもそうだった。現場を見ずに出された指示ほど、ろくな結果にならない。
そこで私は、改めて宿へ来たというわけだ。
私は、彼らの寝泊まりしている部屋を見回した。
……ひどい。
床には乾いた草や香草が薄く撒かれていた。
ラベンダーやミントのような匂いが、踏むたびにかすかに立ちのぼる。
こうして草を広げておくのが、この地方のやり方らしい。汚れや湿気を吸わせ、臭いを和らげるためだ。
もっとも、長く使うものではない。数日もすれば踏み固められ、埃や食べこぼしを吸って汚れる。そうなれば掃き出して、また新しい草を撒く。
理屈としては、そういうものだ。
だが、この宿では、どうやらしばらく替えていないらしい。
人の汗、食べ物の油、酒の酸い匂い。濡れた衣服の湿気に、獣小屋のような臭いまで混ざっている。床の香草は、そのすべてを隠そうとしているのだろう。
……だが、正直言って焼け石に水だった。
草は黒ずみ、ところどころ湿っていた。
部屋の空気は重かった。炭火の匂いと湿った湯気が混ざり、窓はほとんど開けられていない。
狭い部屋に藁袋の寝台が並び、濡れた衣服が梁から吊られている。
隅に積まれた寝台は、黒ずんだ藁袋に毛布をかけただけのものだった。何人もの旅人が使ってきたのだろう。汗と油の匂いが染みついている。
……洗っている様子はない。
藁は時折替えるのだろうが、毛布は干すだけなのかもしれない。
毛布を持ち上げると、藁の間から小さな虫が逃げた。
手を洗う水桶は一つだけだった。水はすでに濁り、誰も替えようとはしていない。
水はおそらく、沢から運ぶものだ。そう何度も替えられるものではないのだろう。
……これで手を洗ったことになるのか。
私には、むしろ汚しているようにしか見えなかった。
ふと、館の裏手に目をやった。
板を渡しただけの小屋が谷に張り出している。
……便所か。
その下を細い水の流れが通っていた。
私は眉をひそめた。汚物は雨で流れ、谷の水に混ざる。その水を人が汲み、料理に使い、手を洗う。
……感染経路が一直線だ。
これでは病が出ない方がおかしい。
この環境では――いずれ病が流行る。
私は、そう直感した。
予防できる問題は、先に潰す。
これは前世でも変わらない。
そうしてから、安心して温泉に入ればいい。
私はすぐに命令を出した。
「この館の主人を呼べ。それと、働き手を何人か集めろ」
ほどなくして、宿の主人と数人の男たちがやって来た。皆、困惑した顔をしている。
「床の草は捨てろ」
私は足元を軽く踏んだ。
「湿ったままでは腐る。腐れば、虫と悪い気を呼ぶ」
視線を上げる。
「板を渡せ。地面から離せば、湿りは上がってこない」
私は壁を見た。
「香草は床に撒くな」
男たちが息を呑む。
「袋に詰めて、吊るせ」
梁を指さす。
「風に当てろ。風は臭いも悪い気も連れていく」
一拍置いて、
「床で踏ませるより、よほど長く効く」
私は水桶の前に立った。
「水はな、“巡らせる”ものだ」
手洗い桶を軽く揺らす。濁った水が波打った。
「同じ水を何人も使えば、水は腐る」
男の一人が、水を見た。
「桶は二つ置け。一つは手にかける、清めの水。もう一つは穢れた水を受ける桶だ」
私はゆっくりと視線を巡らせた。
「穢れた水は森へ返せ。溜めるな」
男たちは顔を見合わせた。そんなことを言われたのは初めてなのだろう。
「寝台もだ」
私は黒ずんだ毛布を指でつまんだ。
「布は風に当てろ。風は、目に見えぬ穢れを運び去る」
そして藁袋に視線を注ぐ。
「藁は替えろ。こんなものを何人も使えば、虫が湧く」
宿の主人が困った顔をした。
「藁を替えろ、とおっしゃいましたが……」
主人は言いにくそうに言った。
「とんでもない費用になります。毎年、決まった時期に替えております」
そして、主人は顔をあげた。
「一年ごとに替える宿など、このあたりでは当店くらいのものでして……」
男たちが頷く。 それが「ちゃんとしている証」なのだろう。
私は小さく息を吐いた。
「……そうか」
否定はしない。
それが、彼らのやり方だ。
その時、横にいたマルクが口を挟んだ。
「高価な、藁でなくてもいい。干し草でも、森のシダでも詰められるだろう」
マルクは男達を見た。
「要は、古いものを使い続けるな、ということだ」
男達は、口を閉ざしていた。
私は次に、裏手を指した。
「あの小屋……便所だな」
主人が頷く。
「水は上から来る。穢れは下へ落ちる」
私は指で流れをなぞるように示した。
「だが今は――逆だ」
男たちの顔が強張る。
「穢れを負った水を、また口にしている」
沈黙。
「水を汲む場所を変えろ。上流だ」
やがて、別の男が口を挟んだ。
「い、いや殿下……あれは強い川でして。少しくらいの汚れなら、流れて清められます」
男は続けた。
「ここで暮らす者は、皆あの水を使っておりますが……。健やかに暮らしております」
私は静かに問い返した。
「では、旅人は?」
男は言葉に詰まる。主人が口を開いた。
「……それは。旅の疲れ、というものかと……」
私はそれ以上、追及しなかった。
――彼らは無能ではない。
むしろ逆だ。限られた手間と金の中で、どうすれば回るか。どうすれば客を泊め続けられるか。
その積み重ねが、今のやり方なのだ。
私はゆっくりと口を開いた。
「……よくやっている」
男たちが顔を上げた。
「手を抜いているわけではないな」
主人が、わずかに安堵したように息をつく。
私は続けた。
「だがな。それでは足りん」
空気が張り詰めた。
「ここにいる者は慣れている。だが、よそ者は違う」
沈黙。
「このままなら、旅人は倒れる」
そして、はっきりと言う。
「だから、変えろ」
男たちの顔がこわばった。
「費用は出す」
しかし、その一言で、空気が変わった。
「最後に、風呂だ」
私は湯殿に歩いた。お湯は濁りきっている。
「湯に入る前に、まず身体を流せ」
主人が首をかしげた。
「身体を……流す?」
私は頷いた。
「桶で湯を汲み、頭からかけろ。汗も垢もそこで落とす」
男たちは首を傾げた。私は湯船を指した。
「そのまま入れば、汚れがすべて湯に落ちる」
主人は少し困った顔をする。
「ですが殿下……この湯は山から引いているのです。溜めておけば、何人も入れるのに……」
私は静かに言った。
「だからこそだ」
湯船の縁を指でなぞる。ぬめりが残った。
「昨日の客、今日の客。汗も垢もすべてこの湯に落ちる」
私は主人を見た。
「そんな湯に、次の客が入りたいと思うか」
部屋が静まり返る。
「まず体を流す。それだけで湯はずっと清くなる」
「……わかりました」
主人が頭を下げたのを見て、私はそれ以上何も言わなかった。
指示は出し終えた。
あとはやらせるだけだ。
私は湯殿の空気を、もう一度だけ確かめた。
炭の匂いが、わずかに重い。
私は視線を細めた。
――病ではないな。
倒れた者は出た。だが、広がってはいない。
回復も早い。
もし本当に“病”であれば、もう数人は倒れているはずだ。ならば原因は、外から来るものではない。この場に、ある。しかし、想定していた臭いは、無い。
私はゆっくりと口を開いた。
「主人」
「は、はい」
「湯を温める炉は、どこだ」
主人が奥を指さす。
「こちらに……」
私は顎で示した。
「煙突を見ろ」
主人が一瞬、きょとんとした顔をする。
「え……煙突、でございますか?」
「ああ」
私は短く答えた。
「詰まっているはずだ」
場の空気が、わずかに揺れた。
男たちが顔を見合わせる。
「……殿下、それは……」
マルクが口を開きかけるが、私は続けた。
「炭を焚き、窓を閉め切る。それで人が倒れた」
私は湯殿を見渡した。
「ならば、行き場を失ったものがある」
主人の喉が、ごくりと鳴る。
「……すぐに、確認してまいります!」
男が一人、慌てて奥へ駆けていった。
しばしの沈黙。
マルクが小さく言う。
「……殿下、なぜ煙突だと」
私は肩をすくめた。
「勘だ」
それ以上は言わない。やがて、足音が戻ってきた。男の手には、黒く煤けた塊が握られていた。
「で、殿下……」
差し出されたそれは、崩れかけた鳥の巣だった。
「煙突に……詰まっておりました。煤が溜まり、その上に巣が……」
男は黒くなった手を、少し震わせた。
「煙が外へ抜けず、戻っていたようで……」
私はそれを一瞥し、小さく息を吐いた。
「やはりな」
記憶の底に、似た話がある。
煙突に鳥や蜂が巣を作り、煙が逆流した例だ。珍しいことではない。
私は頷いた。
「炭をつかうなら夜でも窓を開けろ。森の精気を部屋に運ぶと商売が繁盛するぞ」
男たちの顔色が変わった。
私は肩をすくめた。
「まあ、事件の始まりなど、だいたいこんなものだ」
大げさな陰謀でも、恐ろしい毒でもない。
ただの、詰まった煙突だ。
だが、そういう些細なことが、人を死なせる。
本物の、病というものは恐ろしい。一度広がれば、村が丸ごと消えることもある。
前世の知識が、それをよく知っていた。
今回助かったのは、ただ、運が良かっただけだ。




