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もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


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翌日、私はもう一度あの宿へ向かった。


あの時、宿から少し離れた場所で、マルクは私に言った。

「まだ疫病の可能性があります。殿下は近づかないでください」

「……待て、マルク」

近くに立っていた彼が、すぐに姿勢を正す。

「は」

私はマルクを見て言った。

「お前の言う“疫病”とやらは、どういうものだ」

マルクはわずかに首をかしげた。

「どういう、と申しますと」

「汚れそのものが毒となって、人の体を蝕むのか」

一拍置いた。

「それとも、汚れを餌にして、“増える何か”が体の中で暴れるのか」

マルクは、はっきりと困惑した顔をした。

「……増える、何か?」

「ああ」

私は少し頷いた。

「目には見えぬほど小さく、水や食べ物に紛れて入り込むものだ」

しばしの沈黙。やがてマルクは、ゆっくりと首を振った。

「そのようなものは、聞いたことがありません」

きっぱりと言い切る。

「汚れに触れれば、体が蝕まれる。それだけのことです。悪い気の溜まる場所に近づかぬ――それが鉄則ですから」

私は小さく息を吐いた。

「……なるほどな」

この世界には、まだない。

「極小のものが、己を増やす」という概念そのものが。


ならば、私の知識は、ここにおいては魔法に先立つ“予言”となる。



その日は、マルクが私を強く止めた。

倒れていた者たちは一命を取り留めたとはいえ、原因はまだはっきりしていない。

万が一、病が広がる類のものなら、王族が近づくべきではない、と。結局、医者と宿の者に任せ、私は別館へ戻るしかなかった。


そして一日が過ぎた。

倒れていた者たちは回復し、同じ症状の者も出ていない。その部屋は、使わないように指示を出しておいた。

今朝になって、ようやくマルクが言った。

「もう現場を見ても、問題ないでしょう」

私は頷いた。昨日の時点でも、宿の環境が良くないことは想像できた。だが、想像だけで口を出すのは好きではない。

前世でもそうだった。現場を見ずに出された指示ほど、ろくな結果にならない。

そこで私は、改めて宿へ来たというわけだ。



私は、彼らの寝泊まりしている部屋を見回した。

……ひどい。


床には乾いた草や香草が薄く撒かれていた。

ラベンダーやミントのような匂いが、踏むたびにかすかに立ちのぼる。

こうして草を広げておくのが、この地方のやり方らしい。汚れや湿気を吸わせ、臭いを和らげるためだ。

もっとも、長く使うものではない。数日もすれば踏み固められ、埃や食べこぼしを吸って汚れる。そうなれば掃き出して、また新しい草を撒く。

理屈としては、そういうものだ。

だが、この宿では、どうやらしばらく替えていないらしい。

人の汗、食べ物の油、酒の酸い匂い。濡れた衣服の湿気に、獣小屋のような臭いまで混ざっている。床の香草は、そのすべてを隠そうとしているのだろう。

……だが、正直言って焼け石に水だった。

草は黒ずみ、ところどころ湿っていた。


部屋の空気は重かった。炭火の匂いと湿った湯気が混ざり、窓はほとんど開けられていない。

狭い部屋に藁袋の寝台が並び、濡れた衣服が梁から吊られている。


隅に積まれた寝台は、黒ずんだ藁袋に毛布をかけただけのものだった。何人もの旅人が使ってきたのだろう。汗と油の匂いが染みついている。

……洗っている様子はない。

藁は時折替えるのだろうが、毛布は干すだけなのかもしれない。

毛布を持ち上げると、藁の間から小さな虫が逃げた。


手を洗う水桶は一つだけだった。水はすでに濁り、誰も替えようとはしていない。

水はおそらく、沢から運ぶものだ。そう何度も替えられるものではないのだろう。

……これで手を洗ったことになるのか。

私には、むしろ汚しているようにしか見えなかった。


ふと、館の裏手に目をやった。

板を渡しただけの小屋が谷に張り出している。

……便所か。

その下を細い水の流れが通っていた。

私は眉をひそめた。汚物は雨で流れ、谷の水に混ざる。その水を人が汲み、料理に使い、手を洗う。

……感染経路が一直線だ。

これでは病が出ない方がおかしい。


この環境では――いずれ病が流行る。

私は、そう直感した。


予防できる問題は、先に潰す。

これは前世でも変わらない。

そうしてから、安心して温泉に入ればいい。



私はすぐに命令を出した。

「この館の主人を呼べ。それと、働き手を何人か集めろ」

ほどなくして、宿の主人と数人の男たちがやって来た。皆、困惑した顔をしている。


「床の草は捨てろ」

私は足元を軽く踏んだ。

「湿ったままでは腐る。腐れば、虫と悪い気を呼ぶ」

視線を上げる。

「板を渡せ。地面から離せば、湿りは上がってこない」

私は壁を見た。

「香草は床に撒くな」

男たちが息を呑む。

「袋に詰めて、吊るせ」

梁を指さす。

「風に当てろ。風は臭いも悪い気も連れていく」

一拍置いて、

「床で踏ませるより、よほど長く効く」


私は水桶の前に立った。

「水はな、“巡らせる”ものだ」

手洗い桶を軽く揺らす。濁った水が波打った。

「同じ水を何人も使えば、水は腐る」

男の一人が、水を見た。

「桶は二つ置け。一つは手にかける、清めの水。もう一つは穢れた水を受ける桶だ」

私はゆっくりと視線を巡らせた。

「穢れた水は森へ返せ。溜めるな」

男たちは顔を見合わせた。そんなことを言われたのは初めてなのだろう。


「寝台もだ」

私は黒ずんだ毛布を指でつまんだ。

「布は風に当てろ。風は、目に見えぬ穢れを運び去る」

そして藁袋に視線を注ぐ。

「藁は替えろ。こんなものを何人も使えば、虫が湧く」

宿の主人が困った顔をした。

「藁を替えろ、とおっしゃいましたが……」

主人は言いにくそうに言った。

「とんでもない費用になります。毎年、決まった時期に替えております」

そして、主人は顔をあげた。

「一年ごとに替える宿など、このあたりでは当店くらいのものでして……」

男たちが頷く。 それが「ちゃんとしている証」なのだろう。

私は小さく息を吐いた。

「……そうか」

否定はしない。

それが、彼らのやり方だ。


その時、横にいたマルクが口を挟んだ。

「高価な、藁でなくてもいい。干し草でも、森のシダでも詰められるだろう」

マルクは男達を見た。

「要は、古いものを使い続けるな、ということだ」

男達は、口を閉ざしていた。



私は次に、裏手を指した。

「あの小屋……便所だな」

主人が頷く。

「水は上から来る。穢れは下へ落ちる」

私は指で流れをなぞるように示した。

「だが今は――逆だ」

男たちの顔が強張る。

「穢れを負った水を、また口にしている」

沈黙。

「水を汲む場所を変えろ。上流だ」

やがて、別の男が口を挟んだ。

「い、いや殿下……あれは強い川でして。少しくらいの汚れなら、流れて清められます」

男は続けた。

「ここで暮らす者は、皆あの水を使っておりますが……。健やかに暮らしております」

私は静かに問い返した。

「では、旅人は?」

男は言葉に詰まる。主人が口を開いた。

「……それは。旅の疲れ、というものかと……」


私はそれ以上、追及しなかった。

――彼らは無能ではない。

むしろ逆だ。限られた手間と金の中で、どうすれば回るか。どうすれば客を泊め続けられるか。

その積み重ねが、今のやり方なのだ。



私はゆっくりと口を開いた。

「……よくやっている」

男たちが顔を上げた。

「手を抜いているわけではないな」

主人が、わずかに安堵したように息をつく。

私は続けた。

「だがな。それでは足りん」

空気が張り詰めた。

「ここにいる者は慣れている。だが、よそ者は違う」

沈黙。

「このままなら、旅人は倒れる」

そして、はっきりと言う。

「だから、変えろ」

男たちの顔がこわばった。

「費用は出す」

しかし、その一言で、空気が変わった。



「最後に、風呂だ」

私は湯殿に歩いた。お湯は濁りきっている。

「湯に入る前に、まず身体を流せ」

主人が首をかしげた。

「身体を……流す?」

私は頷いた。

「桶で湯を汲み、頭からかけろ。汗も垢もそこで落とす」

男たちは首を傾げた。私は湯船を指した。

「そのまま入れば、汚れがすべて湯に落ちる」

主人は少し困った顔をする。

「ですが殿下……この湯は山から引いているのです。溜めておけば、何人も入れるのに……」

私は静かに言った。

「だからこそだ」

湯船の縁を指でなぞる。ぬめりが残った。

「昨日の客、今日の客。汗も垢もすべてこの湯に落ちる」

私は主人を見た。

「そんな湯に、次の客が入りたいと思うか」

部屋が静まり返る。

「まず体を流す。それだけで湯はずっと清くなる」

「……わかりました」


主人が頭を下げたのを見て、私はそれ以上何も言わなかった。

指示は出し終えた。

あとはやらせるだけだ。



私は湯殿の空気を、もう一度だけ確かめた。

炭の匂いが、わずかに重い。

私は視線を細めた。

――病ではないな。

倒れた者は出た。だが、広がってはいない。

回復も早い。

もし本当に“病”であれば、もう数人は倒れているはずだ。ならば原因は、外から来るものではない。この場に、ある。しかし、想定していた臭いは、無い。

私はゆっくりと口を開いた。

「主人」

「は、はい」

「湯を温める炉は、どこだ」

主人が奥を指さす。

「こちらに……」

私は顎で示した。

「煙突を見ろ」

主人が一瞬、きょとんとした顔をする。

「え……煙突、でございますか?」

「ああ」

私は短く答えた。

「詰まっているはずだ」

場の空気が、わずかに揺れた。

男たちが顔を見合わせる。

「……殿下、それは……」

マルクが口を開きかけるが、私は続けた。

「炭を焚き、窓を閉め切る。それで人が倒れた」

私は湯殿を見渡した。

「ならば、行き場を失ったものがある」

主人の喉が、ごくりと鳴る。

「……すぐに、確認してまいります!」

男が一人、慌てて奥へ駆けていった。

しばしの沈黙。

マルクが小さく言う。

「……殿下、なぜ煙突だと」

私は肩をすくめた。

「勘だ」

それ以上は言わない。やがて、足音が戻ってきた。男の手には、黒く煤けた塊が握られていた。

「で、殿下……」

差し出されたそれは、崩れかけた鳥の巣だった。

「煙突に……詰まっておりました。煤が溜まり、その上に巣が……」

男は黒くなった手を、少し震わせた。

「煙が外へ抜けず、戻っていたようで……」

私はそれを一瞥し、小さく息を吐いた。

「やはりな」

記憶の底に、似た話がある。

煙突に鳥や蜂が巣を作り、煙が逆流した例だ。珍しいことではない。



私は頷いた。

「炭をつかうなら夜でも窓を開けろ。森の精気を部屋に運ぶと商売が繁盛するぞ」

男たちの顔色が変わった。


私は肩をすくめた。

「まあ、事件の始まりなど、だいたいこんなものだ」

大げさな陰謀でも、恐ろしい毒でもない。

ただの、詰まった煙突だ。

だが、そういう些細なことが、人を死なせる。




本物の、病というものは恐ろしい。一度広がれば、村が丸ごと消えることもある。

前世の知識が、それをよく知っていた。


今回助かったのは、ただ、運が良かっただけだ。


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考えうる限りの改善策を、その場に住まう人間にとって最も伝わる表現へ翻訳しながら伝える手腕、お美事でございます。 淡々と・粛々とコトが動き続けるこの空気感が、この作品の良いところですね。 差し出がまし…
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