64
先に様子を見に行かせていた騎士が、足早に戻ってきた。
「殿下」
声が低い。顔色も良くない。
「どうした」
「湯宿の主人が、外から見えぬよう扉を閉めております。中を一瞬だけ確認したところ、部屋で数人の客が倒れておりました」
私は眉を寄せた。
「倒れている?」
「はい。主人が言うには、頭痛と吐き気を訴え、起き上がれぬ様子です。まともに歩けぬ者もおります」
その時だった。
坂道の向こうから、ひとりの男が転がるように走ってきた。宿の主人だった。
息を切らし、顔は青ざめている。
「た、大変だ……!」
騎士がすぐに前へ出る。
「落ち着け。何があった」
主人は息を整えながら必死に言葉を絞り出した。
「医者を呼んだんだ……客が気分が悪いと言って……。それで医者が部屋に入ったんだが……」
喉が震える。
「少ししてから……医者まで倒れたんだ……!」
私とマルクは思わず顔を見合わせた。
騎士が主人を問い詰める。
「どんな様子だ」
「最初は、皆……頭が痛いとか、気持ちが悪いとか……。それで、立てなくなって……」
主人は震える声で続けた。
「医者が様子を見ていたんだが……。先ほど、急にふらついて……椅子に手をついたと思ったら、そのまま崩れて……」
マルクの表情が険しくなる。
「主人、お前はどうして無事なのだ」
「わ、私は……客を呼びに外へ出ていたんだ。戻ってきたら、医者が……」
……なるほど。
私は宿の建物を見上げた。煙突から煙が出ていない。しかし、炭火の煙道が詰まれば――。
……一酸化炭素中毒か。あるいは硫黄のか。
頭の中で状況が繋がる。
私は騎士に命じた。
「すぐに扉と窓を開けろ。換気だ」
騎士たちは即座に動いた。
「中の者を外へ運び出せ。長く居るな」
扉が開かれる。淀んだ空気が外へ流れ出た。
幸いにして、運び出された者たちは、しばらくすると次第に意識を取り戻していった。
医者もまた、地面に横たえられたまましばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがてゆっくりと目を開いた。
どうやら、全員が命を取り留めたらしい。
もしもう少し発見が遅れていたなら――
意識が戻らぬ者が出ていても不思議ではなかった。
私は人目につかぬよう、そっと息を吐いた。
胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。
その様子を見ていたマルクが、私の横で低く言った。
「殿下」
「どうした」
「先ほどのご判断……見事でした」
私は首をわずかに傾けた。
「ただ換気を命じただけだ」
だがマルクは首を振る。
「それができる方は多くありません。多くの者は、倒れた人間ばかりに目を向けます」
彼は宿屋の建物を見やった。
「原因に気づかず、そのまま中へ踏み込めば……救いに入った者まで倒れていたでしょう」
私はしばらく黙っていた。
マルクは静かに続ける。
「殿下が即座に換気を命じなければ、医者も客も助からなかったかもしれません」
私は小さく息を吐いた。
「……大げさだ」
「いいえ」
マルクは淡々と言う。
「本当のことです」
私はそれ以上は答えなかった。
ただ、宿屋の前で風に揺れる湯気をしばらく見つめていた。
しばらくして、地面に横たえられていた医者が身を起こした。まだ身体はゆっくりとだが、意識ははっきりしているようだった。
医者は周囲を見回し、やがて私の姿に気づいた。
一瞬、驚いたように目を見開く。
「……殿下?」
私は軽く手を上げた。
「無事のようだな」
医者はゆっくりと立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、近くの者に支えられた。
それでも姿勢を正し、深く頭を下げる。
「助けていただいたと聞きました」
私は首を振った。
「風を入れただけだ」
だが医者はさらに頭を下げた。
「それでもです。あのまま中にいれば、私も客も……」
言葉は途中で止まり、代わりに深い礼だけが残った。その時だった。
宿屋の主人が、こちらへ慌てて駆け寄ってきた。
顔は青ざめ、まだ震えている。
男は私の前まで来ると、突然その場に跪いた。
「殿下……!」
額が石畳につくほど、深く頭を下げる。
「この度は……この宿の者をお救いくださり、なんとお礼を申し上げればよいか……!」
声は震えていた。
「もし殿下が通りかからなければ、客も、医者も……皆、死んでいたかもしれません」
男は顔を上げようとしなかった。
私は少し困ったように息をついた。
「顔を上げろ」
主人は恐る恐る顔を上げた。
「偶然だ。気にすることではない」
だが男は首を振った。
「いいえ……この恩は、一生忘れません」
男はまだ震える声で続けた。
「しかし……まさか、温泉の毒気が出るとは……」
私は眉をわずかに動かした。
「毒気?」
主人は慌てて言葉を継ぐ。
「ええ……昔、旅の者から聞いたことがあるのです。山の湯には、ときおり人を倒す毒の気が湧くことがある、と」
私はしばらく黙って宿の建物を見た。
扉は大きく開け放たれ、中から空気が流れ出ている。
「……そういうこともあるのかもしれんな」
私はそれだけ言った。
「宿の者をよく休ませろ。それで十分だ」
私はそれ以上何も言わず、ただ小さく手を振った。
夜になり、王家の別館の裏庭では小さな焚き火が焚かれていた。警備を終えた騎士や従士たちが、外套を肩にかけて火のそばに集まっている。
誰かが薪を投げ入れると、火がぱちりと弾けた。
「聞いたか」
若い従士が声を落とした。
「何をだ」
「今日の宿屋の騒ぎだよ」
向かいに座っていた騎士が鼻で笑う。
「ああ、あれか。客が何人も倒れたって話だろう」
「医者まで倒れたらしい」
別の男が言った。
「湯の毒気だとか」
「温泉のか?」
「そう聞いた」
火の向こうで誰かが肩をすくめる。
「そんなものがあるのか」
「さあな」
しばらく沈黙が続いた。
やがて一人が言う。
「だが全員助かった」
「そうだな」
「殿下が命じたらしい」
その言葉で、数人が顔を上げた。
「命じた?」
「窓を開けろ、扉を開けろってな」
「それだけで助かったのか」
「らしい」
若い従士が首を傾げる。
「どうして分かったんだ?」
誰も答えない。火がまた弾ける。
やがて年嵩の騎士が低く言った。
「……殿下は、そういう方だ」
「どういう意味だ」
「戦でもそうだったろう」
火を見つめたまま、騎士は続ける。
「誰も気づかないことを、先に見る」
沈黙。
「偶然かもしれん」
誰かが言う。
「だが助かったのは事実だ」
別の者が言う。
「医者も客もな」
焚き火の火が揺れる。誰も結論は出さなかった。
若い従士が、ぽつりと呟いた。
「……俺たち、すごい殿下に仕えてるのかもしれないな」
誰も、笑うことはなかった。
火の粉だけが、夜空に静かに散っていった。




