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もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


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先に様子を見に行かせていた騎士が、足早に戻ってきた。

「殿下」

声が低い。顔色も良くない。

「どうした」

「湯宿の主人が、外から見えぬよう扉を閉めております。中を一瞬だけ確認したところ、部屋で数人の客が倒れておりました」

私は眉を寄せた。

「倒れている?」

「はい。主人が言うには、頭痛と吐き気を訴え、起き上がれぬ様子です。まともに歩けぬ者もおります」

その時だった。

坂道の向こうから、ひとりの男が転がるように走ってきた。宿の主人だった。

息を切らし、顔は青ざめている。

「た、大変だ……!」

騎士がすぐに前へ出る。

「落ち着け。何があった」

主人は息を整えながら必死に言葉を絞り出した。

「医者を呼んだんだ……客が気分が悪いと言って……。それで医者が部屋に入ったんだが……」

喉が震える。

「少ししてから……医者まで倒れたんだ……!」

私とマルクは思わず顔を見合わせた。

騎士が主人を問い詰める。

「どんな様子だ」

「最初は、皆……頭が痛いとか、気持ちが悪いとか……。それで、立てなくなって……」

主人は震える声で続けた。

「医者が様子を見ていたんだが……。先ほど、急にふらついて……椅子に手をついたと思ったら、そのまま崩れて……」

マルクの表情が険しくなる。

「主人、お前はどうして無事なのだ」

「わ、私は……客を呼びに外へ出ていたんだ。戻ってきたら、医者が……」

……なるほど。

私は宿の建物を見上げた。煙突から煙が出ていない。しかし、炭火の煙道が詰まれば――。

……一酸化炭素中毒か。あるいは硫黄のか。

頭の中で状況が繋がる。


私は騎士に命じた。

「すぐに扉と窓を開けろ。換気だ」

騎士たちは即座に動いた。

「中の者を外へ運び出せ。長く居るな」

扉が開かれる。淀んだ空気が外へ流れ出た。


幸いにして、運び出された者たちは、しばらくすると次第に意識を取り戻していった。

医者もまた、地面に横たえられたまましばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがてゆっくりと目を開いた。

どうやら、全員が命を取り留めたらしい。

もしもう少し発見が遅れていたなら――

意識が戻らぬ者が出ていても不思議ではなかった。

私は人目につかぬよう、そっと息を吐いた。

胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていく。

その様子を見ていたマルクが、私の横で低く言った。

「殿下」

「どうした」

「先ほどのご判断……見事でした」

私は首をわずかに傾けた。

「ただ換気を命じただけだ」

だがマルクは首を振る。

「それができる方は多くありません。多くの者は、倒れた人間ばかりに目を向けます」

彼は宿屋の建物を見やった。

「原因に気づかず、そのまま中へ踏み込めば……救いに入った者まで倒れていたでしょう」

私はしばらく黙っていた。

マルクは静かに続ける。

「殿下が即座に換気を命じなければ、医者も客も助からなかったかもしれません」

私は小さく息を吐いた。

「……大げさだ」

「いいえ」

マルクは淡々と言う。

「本当のことです」

私はそれ以上は答えなかった。

ただ、宿屋の前で風に揺れる湯気をしばらく見つめていた。


しばらくして、地面に横たえられていた医者が身を起こした。まだ身体はゆっくりとだが、意識ははっきりしているようだった。

医者は周囲を見回し、やがて私の姿に気づいた。

一瞬、驚いたように目を見開く。

「……殿下?」

私は軽く手を上げた。

「無事のようだな」

医者はゆっくりと立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、近くの者に支えられた。

それでも姿勢を正し、深く頭を下げる。

「助けていただいたと聞きました」

私は首を振った。

「風を入れただけだ」

だが医者はさらに頭を下げた。

「それでもです。あのまま中にいれば、私も客も……」

言葉は途中で止まり、代わりに深い礼だけが残った。その時だった。

宿屋の主人が、こちらへ慌てて駆け寄ってきた。

顔は青ざめ、まだ震えている。

男は私の前まで来ると、突然その場に跪いた。

「殿下……!」

額が石畳につくほど、深く頭を下げる。

「この度は……この宿の者をお救いくださり、なんとお礼を申し上げればよいか……!」

声は震えていた。

「もし殿下が通りかからなければ、客も、医者も……皆、死んでいたかもしれません」

男は顔を上げようとしなかった。

私は少し困ったように息をついた。

「顔を上げろ」

主人は恐る恐る顔を上げた。

「偶然だ。気にすることではない」

だが男は首を振った。

「いいえ……この恩は、一生忘れません」

男はまだ震える声で続けた。

「しかし……まさか、温泉の毒気が出るとは……」

私は眉をわずかに動かした。

「毒気?」

主人は慌てて言葉を継ぐ。

「ええ……昔、旅の者から聞いたことがあるのです。山の湯には、ときおり人を倒す毒の気が湧くことがある、と」

私はしばらく黙って宿の建物を見た。

扉は大きく開け放たれ、中から空気が流れ出ている。

「……そういうこともあるのかもしれんな」

私はそれだけ言った。

「宿の者をよく休ませろ。それで十分だ」

私はそれ以上何も言わず、ただ小さく手を振った。


夜になり、王家の別館の裏庭では小さな焚き火が焚かれていた。警備を終えた騎士や従士たちが、外套を肩にかけて火のそばに集まっている。

誰かが薪を投げ入れると、火がぱちりと弾けた。

「聞いたか」

若い従士が声を落とした。

「何をだ」

「今日の宿屋の騒ぎだよ」

向かいに座っていた騎士が鼻で笑う。

「ああ、あれか。客が何人も倒れたって話だろう」

「医者まで倒れたらしい」

別の男が言った。

「湯の毒気だとか」

「温泉のか?」

「そう聞いた」

火の向こうで誰かが肩をすくめる。

「そんなものがあるのか」

「さあな」

しばらく沈黙が続いた。

やがて一人が言う。

「だが全員助かった」

「そうだな」

「殿下が命じたらしい」

その言葉で、数人が顔を上げた。

「命じた?」

「窓を開けろ、扉を開けろってな」

「それだけで助かったのか」

「らしい」

若い従士が首を傾げる。

「どうして分かったんだ?」

誰も答えない。火がまた弾ける。

やがて年嵩の騎士が低く言った。

「……殿下は、そういう方だ」

「どういう意味だ」

「戦でもそうだったろう」

火を見つめたまま、騎士は続ける。

「誰も気づかないことを、先に見る」

沈黙。

「偶然かもしれん」

誰かが言う。

「だが助かったのは事実だ」

別の者が言う。

「医者も客もな」

焚き火の火が揺れる。誰も結論は出さなかった。


若い従士が、ぽつりと呟いた。

「……俺たち、すごい殿下に仕えてるのかもしれないな」

誰も、笑うことはなかった。


火の粉だけが、夜空に静かに散っていった。

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