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私達は、山間の谷へ入った。
この地方は古くから鉱泉の湧く土地として知られている。谷の奥には、白い湯気が細く立ち上っていた。
山の斜面に沿って石造りの建物が並び、赤茶の屋根が段々に続いていた。
谷底には小さな広場があり、そこから湯を引いた浴場や宿がいくつも建てられている。
療養の地として知られているため、貴族や騎士が滞在することも多い。
谷の上の方には、城館に似た大きな建物があった。王族が訪れる際に使う館、王家の別館だ。
その周囲には、諸侯や伯爵家が建てた別荘が点在していた。石の塔を持つもの、小さな庭園を備えたもの、狩猟用の館を兼ねたものもある。
この場所は、ただの湯治場ではなく、貴族たちの小さな町のようになっていた。
私たちは歩みを進めた。別館の近くまで行くと、門番がすぐにこちらへ気づいた。
「レオンハルト殿下、お待ちしておりました」
門番は帽子を胸に当て、恭しく頭を垂れた。
静かな谷に、門の軋む音だけが響く。
別館の庭には、湯気の混じった白い霧が薄く漂っていた。
私は馬を止め、空気を一度ゆっくり吸い込んだ。硫黄の混じる独特の匂いと、山の風。
草津のような湯治場、それとも軽井沢のような別荘地に近いのか。
ふと昔の記憶が頭をよぎった。
大学時代、ゼミの仲間たちと温泉地へ行ったことがある。研究の合宿と言いながら、結局は皆で温泉に入り、夜遅くまで語り合った。
不思議なものだと思う。
こうして異世界で第三王子などという立場になっても、温泉と聞くだけで心が少し緩む。
日本人が温泉を好むのは、もはや習慣というより――民族の性質のようなものかもしれない。
私は小さく息を吐いた。
まあ、理屈はどうでもいい。
せっかくの温泉だ。
湯に浸かれるなら、それで十分だろう。
温泉地に到着したその日の午後。
私は、まず王族専用の浴場を見に行くことにした。
王族用の浴場は、源泉に近い谷の斜面に建てられている。時として貴族にも貸出をするらしい。石造りの二階建てで、下階が浴室、上階は控えの間になっていた。
屋根の隙間から白い湯気が立ちのぼっていた。
入口には一人の男が立っていた。灰色の外套を着た年配の男だ。この浴場の管理人だ。
「レオンハルト殿下。お待ちしておりました」
深く頭を下げる。王族専用の施設である以上、当然、管理を任される者がいる。
湯の温度、薪の管理、浴場の準備――そういったものを取り仕切る役目だ。
私は館の中を歩いた。広い浴室だった。
中央に石造りの大きな湯船があり、白い湯気が立っている。
……だが。私は眉を少しひそめた。
湯船の周囲には、妙に多くのものが置かれていた。小さな机。皿。酒の壺。そして、木の盤と石の駒。
私は管理人に聞いた。
「これは?」
管理人は答えた。
「入浴中の食事でございます」
「……湯の中で食べるのか」
「はい。長湯になりますので」
私は少し沈黙した。それから、別の机を指さした。
「これは」
管理人は当然のように答える。
「賭け事でございます」
「……賭け事」
「はい。皆様、湯に浸かりながら、よく遊ばれます」
私はしばらく湯船を見た。
湯の中で酒を飲み、食事をし、賭け事をする。
……随分と自由だ。
私は、もう一つ気になったことを聞いた。
「湯は代えないのか?」
私が聞くと、管理人は首をかしげた。
「……代える、とは?」
「湯を新しくする、という意味だ」
「ああ」
管理人は少し笑った。
「殿下。湯は体を清めるものではなく、温めるものです」
私は一瞬、言葉を失った。
「……体を洗わないのか?」
「はい」
あまりにもあっさりとした答えだった。
「入浴とは、湯に浸かり血の巡りを良くするためのもの。体はその前後に拭き清めるか、香油を使います」
「拭く……」
私は思わず言葉を失った。
「……石鹸はないのか?」
管理人は、またしても首をかしげた。
「せっけん、でございますか?」
「泡立つ油だ。体を洗うためのものだが」
管理人は少し考え、それから「ああ」と声を上げた。
「豚の脂と灰を練り合わせた洗い薬のことでしょうか」
「それだ」
「ございますが……」
管理人は困ったように笑った。
「普通は浴場では使いません」
「なぜだ?」
「油分が湯に広がりますので」
私は再び湯船を見た。
確かに――ただでさえ濁っている湯に油まで浮いたら、目も当てられない。
「湯は……新しくしないと?」
「いえ、殿下。湯は常に湧いております。減った分は足すので、その分新しくなってます」
つまり。
この大きな浴槽は。
ずっと同じ湯を使い続けている、ということらしい。
ふと、王都での入浴のことを思い出した。
まず、風呂は浴場ではなく――寝室で入る。
夜になると、侍従たちが大きな木桶を部屋へ運び込む。そして別室で薪を焚き、釜で沸かした湯を桶へと運び入れるのだ。
桶を満たすには、何度も往復しなければならない。
あれはなかなかの重労働だ。だから入浴は、そう頻繁にするものではない。
せいぜい数日に一度。
湯に浸かる時間も長くはない。桶の湯はそれほど多くなく、すぐに冷めてしまうからだ。
入るときは腰に布を巻くこともある。
侍従が背を拭くこともあるため、その方が都合がいい。
酒や食事などは当然しない。湯に浸かり、体を拭き清め、温まったところで終わりだ。
そして使い終わった湯は、その都度捨てられる。
冷めた湯の入った桶を運び出すのも、また侍従の仕事だった。
王都での入浴とは、その程度のものだ。
それに比べれば、目の前の浴場はまるで別の世界だった。
大きな石の湯船。
湯は白く濁り、湯気が静かに立っている。
だが、よく見れば――どうにも澄んではいない。
湯の表面には、何かが微かに浮いているようにも見える。
湯を代えないというのなら、当然か。
……これに、入るのか。
私は思わず喉を鳴らした。




