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その商人は、王都でも名の知れた大商人だった。複数の商会を束ね、物流も金融も握る男。だからこそ――今回の損害が、決して小さくないことも、よく分かっていた。
疫病による工期遅延。止まった流通。
倉庫に積み上がる売れぬ商品。
(耐えられなくはない。だが、次も同じ事が起きたら?)
小さな商人なら、ひとたびで潰れる。中規模でも、立て直しに数ヶ月はかかる。自分の規模だからこそ、まだ“耐えられている”に過ぎない。
だから思った。これは、誰かが動かなければならない。――その「誰か」は、自分だ。
結果、彼は一枚の紙を取り出した。第三王子から渡された、あの紙だ。
そこには、見慣れぬ概念が、淡々と書かれていた。
・平時に少額を積み立てる
・非常時に備える
・疫病・災害・事故を想定する
・損失は“個人の責任”ではなく、“仕組みで吸収する”
感情論はない。救済を求める言葉もない。
ただ、未来を前提にした設計図があった。
(……これが、王子の視点か)
いや、違う。これは、商人の発想だ。
それも、おそらく痛い目を見たことのある者の。第三王子は、補てんを約束しなかった。代わりに、「次に困らない方法」を示した。商人は、紙を静かに畳んだ。
――やるべきだ。
商人同士を説得し、出資を集め、規約を整えた。疫病、災害、事故。誰もが避けられない突然の損失を、個人で抱え込まない仕組み。掛け金については、かなり難航したが。そうして生まれたのが、国で初めての「損害保険」というものだった。
最初に声を荒げたのは、古参商人だった。
「邪道だ」
集会の場で、彼は吐き捨てた。 長年、商い一筋で生きてきた男だ。
「商売に損はつきものだ。 それを均す仕組みなど、商人を弱くするだけだろう」
若い商人たちが視線を伏せる。 保険制度に参加した者も、まだ少数だった。
だが、制度は静かに始まった。
転機は、豪雨だった。山間部で土砂崩れが起き、 街道が塞がれた。 橋が落ち、荷は届かず、倉庫に積まれた商品は動かない。
加入していた商会は、即座に輸送を止めた。 無理に通そうとしない。 損失が出ることを、恐れなかった。損は、補填される。だから判断が早かった。
一方、加入していない商会は、雨の中、強行した。馬車は横転し、荷は失われ、人も怪我をした。
「運が悪かっただけだ」
古参商人は、そう言い聞かせた。
その後街道が復旧するまでの間、加入していた商会は静かに耐えた。資金に余裕があるため雇い人を休ませ、次に備えられた。
加入していないある商会は、人を減らし、店を畳み、取引先を失った。
そこで、古参商人は結果を見て気づく。
――差は、災害そのものではない。判断の速さ。無理をしない選択。それを可能にした仕組み。
(これは、甘えではない)
価値を、ようやく理解した。……個々の商会の勝ち負けではない。
後日、古参商人は申請書を出した。無言で、静かに。
「加入、したい」
それだけ言って。
邪道だと切り捨てた仕組みは、実のところ、商人の誇りを守るためのものだった。長く商うための。国を支えるための。
――大局だった。
第三王子である私の執務室に、商人が一人、訪れた。城下でも指折りの大商人であり、かつて、損害の補てんを求めてきた男でもある。
彼は深く一礼した。
「殿下に、ご報告がございます」
一歩前に出て、静かに言う。
「商人同士で話し合いを重ねました。 資金を出し合い、損害保険を専門に扱う商会を立ち上げます」
差し出された書面には、出資比率、運用方針、補填条件。すべてが、きちんと整理されていた。
「王家の財は使いません。 必要なのは、認可と監督のみ。運用も責任も、我々商人が負います」
私は書面に目を通し、頷いた。
「それでいいと思います」
商人は、少しだけ表情を和らげた。
「正直に申しますと…… 最初は、戸惑いました。ですが、殿下から頂いたあの紙をよく見て、 これは商いを続けるための仕組みだとわかりました。誇りを失うものではなく、守るためのものだと」
私は、淡く笑う。
「私は、考え方を書いただけです。 動いたのは、あなた方ですよ」
商人は深く頭を下げた。
「その“考え方”が、これからの未来でした」
それだけ言って、彼は退室した。
私は、机の上の書類に戻る。
命令はしていない。金も出していない。ただ、無理のない道を示しただけだ。それで、国は少しだけ強くなる。
――さて、今日はもうやることはない。
今日も定時。
平和だ。




