59
夜明け前の王都は、まだ静まり返っていた。
東の空がわずかに白みはじめている。
私は馬上から、雲を見ていた。
「殿下」
声をかけてきたのは側近のマルクだ。
「皆、揃いました」
私は軽くうなずいた。
騎士は六人。街道の警護には十分で、しかし王子の大行列というほどでもない人数だ。
さらに従者が三人。馬の世話や荷を扱う者たちだ。
そして一人、医官が馬に揺られている。
騎士の一人が城門の方を見て言った。
「……見送りは、本当に無しですか」
「その方が楽だ」
私は手綱を軽く引いた。王子の旅といっても、祝儀の行列ではない。あくまで、少人数の静かな旅だ。
門番が槍を引き、城門がゆっくり開く。
軋む音とともに、王都の外の街道が姿を見せた。
私は馬を進めた。
冷たい朝の空気が頬に触れる。
「行こう」
こうして、私たちは王都を出た。
王都を出て二日目の昼過ぎ、街道はゆるやかな丘を越え、小さな村へと続いていた。
私は馬の手綱を少し緩めた。
「ここで休むか」
先頭を進んでいた騎士隊長が振り返り、うなずいた。
「殿下、村に宿があります。巡礼者もよく使う宿です」
やがて、道の脇に石と木でできた建物が見えてきた。屋根は赤茶の瓦で、入口には木の看板がぶら下がっている。
馬屋と小さな井戸もあった。そして、村の小さな広場には、露店が二つほど出ていた。
私は、まず露店を見に行った。
干し肉、チーズ、木の皿、そして酒の樽。
私は、足を止めた。
小さな陶器の壺が並んでいる。
「これは?」
店の男が答える。
「丘で作った果実の酒でございます。今年のものです」
私は壺を一つ持ち上げた。
軽く揺らすと、中で液体が静かに動いた。
「珍しいのか」
「この辺りでしか、出回りません」
私はうなずいた。
「よし、買おう」
男の目が丸くなる。
「壺を六つ。私の供の分もだ」
後ろにいた騎士たちが、顔を見合わせた。
「殿下、それは多いのでは」
マルクが言った。
「気にするな」
私は銅貨の入った袋を、ずしりと卓に置いた。
「余りは村の子供にでも、菓子を買ってやれ」
店の男は慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます」
そのとき、マルクが壺を一つ手に取った。
「殿下」
「なんだ?」
「味見を」
私は肩をすくめた。
「好きにしろ」
マルクは店主に小さな杯を借り、酒を少し注いだ。匂いを嗅ぎ、わずかに口に含む。
しばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「問題ありません。むしろ、なかなか良い酒です」
騎士の一人が呟いた。
「マルク殿が言うなら、間違いない」
私は壺を従者に渡した。
「今夜の宿で開けよう」
騎士たちの顔が、明るくなった。
去るとき、私はふと後ろを振り返った。
店の男が、まだ深く頭を下げている。
マルクが言った。
「殿下は、村人を甘やかしすぎです」
私は馬の首を軽く叩いた。
「旅の間くらい、細かいことはいいだろう」
そして、少し笑って続けた。
「旅は、賑やかな方がいい」
風が草を揺らしていた。
護衛の騎士はある宿を見て言った。
「この宿にしましょう」
騎士が先に馬を降り、周囲を一度見回す。異常がないことを確認してから、私に軽く頭を下げた。
「問題ありません、殿下」
私は馬から降りた。宿の主人らしい男が、慌てて入口から出てくる。
「ようこそ、お客様」
だが、私たちの外套の紋章を見ると、その顔色が変わった。
「こ、これは……」
騎士隊長が軽く手を上げて制した。
「大げさにするな。殿下は旅の途中だ」
男は何度も頭を下げた。
「失礼いたしました。どうぞ中へ」
宿の中は薄暗く、梁の高い広間になっていた。長い木の卓が並び、壁際では旅人たちが食事をしている。
私たちが入ると、皆が静かに席を譲った。
「殿下はこちらへ」
宿の主人が頭を下げた。
「殿下、鶏を一羽お出しできますが」
騎士たちの視線が一斉にこちらに向く。
「なら焼いてくれ。皆で食べよう」
しばらくすると――香ばしい匂いが広間に広がった。炉で焼かれた鶏が、木皿に乗せられて運ばれてくる。
皮はこんがりと色づき、脂が光っていた。
騎士の一人が小さく息を漏らす。
「マルク、切ってくれ」
マルクは苦笑しながら鶏を引き寄せた。
「……これは当たりの宿ですね」
そしてパンと煮込み、それに小さな壺の葡萄酒が並んだ。
マルクが壺の葡萄酒を杯に注いだ。
私はそれを受け取り、軽く揺らす。
薄い赤の液体が、灯りの下で静かに光った。
一口、口に含む。舌の上に、わずかな酸味が広がった。王宮の熟成酒のような深みはないが、果実の香りが素直に立っている。
私は小さく息を吐いた。
「……若い酒だな」
マルクが眉を上げる。
「悪くはない。軽いが、旅の食事にはちょうどいい」
もう一口飲み、杯を卓に置いた。
少し離れた席において。
「……鶏か」
騎士が小さく言った。
「ああ。街道の宿で焼き肉とはな。今日は運がいい」
別の騎士が肩をすくめる。
「普段は硬いパンと煮込みのスープばかりだからな」
「それに塩肉だ」
誰かが言う。
「袋の底に入れたままの、あの石みたいなやつか」
広間に小さな笑いが広がった。
「三日も食べ続ければ、顎が鍛えられる」
「騎士の修行だな」
マルクがその様子を見て苦笑する。
「殿下がいらっしゃる前では、もう少し品よくしたらどうだ」
騎士の一人が肩をすくめた。
「マルク殿、殿下がいらっしゃるからこそ喜んでいるんですよ」
もう一人が続ける。
「殿下がいなければ、今夜も塩肉です」
誰かが笑った。
「殿下と旅をすると、腹の運がいい」
私は椀を覗き込んだ。
豆と根菜を煮た素朴な料理だが、香草の匂いがする。湯気も立っている。一口食べる。
「……悪くない」
向かいに座ったマルクが言った。
「殿下は旅に出ると、よく言いますね」
「王宮の料理は手が込みすぎている」
私はパンをちぎりながら言った。
「こういう方が体にしみる」
騎士たちも別の卓で食事を始めていた。
鎧を少し緩め、ようやく肩の力を抜いている。
外では、従者が馬に水を飲ませていた。
やがて宿の灯りが一つ、また一つと消え、夜は静かに更けていった。
翌朝、私たちは再び街道に出た。
温泉へ向かう道は、丘と草原の間をゆるやかに続いている。急ぐ旅ではない。馬の歩みに合わせて、穏やかな時間が流れていった。
空は高く澄み、鳥が遠くで鳴いた。
しばらく進んだところで、先頭を行く騎士隊長が手を上げた。
「殿下」
私は馬を寄せる。
「どうした」
騎士隊長は遠くの谷の方を指した。
「ご覧ください。あの煙が見えますか」
視線を向けると、丘の向こう、谷の奥に白いものがゆっくり立ちのぼっている。
焚き火の煙とは違う。風に流されながら、絶えず湧き上がっていた。
「……あれが?」
「はい。温泉の湯気です」
私は思わず小さく息をついた。
「ようやく着くか」
騎士の一人が言った。
「殿下が楽しみにしていた場所ですから」
私は苦笑した。
「当然だろう」
前世の記憶がよぎる。
温泉と聞いて、期待しない方がおかしい。
馬の腹を軽く蹴る。
「行こう」
初めての温泉地だ。
私の馬が、小さくいなないた。




