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ある日の午後。庭を散歩でもするか、と思った矢先に来客があった。
通されたのは、城下の商人だった。顔には焦りと怒りが混じっている。
商人を見て――察しがついた。
そして、午前中のことを思い出した。執務は予定より早く片付いた。……暇だな、そんな軽い気持ちで、私は書類を一枚作った。使う予定はない。前世にあった損害保険制度。あれば安心だな、その程度の思いつきだ。叩き台。ただ、それだけ。もし、既に存在するなら、棄てるだけだった。
「第三王子殿下。以前、城下で病が流行した際――殿下の指示で労働者を休ませたため、納期が遅れました」
そこまでは、事実だ。
「その結果、我々は大きな損害を被った。責任を取って、補てんしていただきたい」
はっきりとした物言いだった。つまり、金を出せと言っている。
私は、ため息を一つだけ飲み込み、静かに口を開いた。
「では、確認します」
商人を見る。
「病が流行していたあの状況で、人を休ませず、通常通り働かせていた場合――どうなったと思いますか?」
商人は一瞬、言葉に詰まった。私は構わず続ける。
「感染者は増え、重症者が出て、死者が出る。働き手は減り、町は機能不全を起こす。市場は閉まり、流通は止まり、あなたの商会は“納期遅れ”どころでは済まなかった」
机の上で指を組む。
「病が長引けば、回復には年単位が必要です。結果として失われるのは、一時の利益ではなく、町全体の経済です」
私は商人を真っ直ぐ見た。
「――これは、王族でなくても分かる話です」
商人は唇を噛んだ。
「しかし、現実に我々は損害を――」
まだ粘るか。私は、少しだけ首を傾げた。
「では、次の話をしましょう」
声の調子は変えない。
「商売とは、本来、常にリスクを伴うものです。天候不順、災害、疫病。それらは“想定外”ではなく、“想定すべき事態”だ」
商人の目が、僅かに揺れた。
「今回の件で明らかになったのは、あなたの商会が、リスクを全て此方に押し付ける意思、という事実です」
私は、午前中に作った紙を取り出し、机に置いた。
「提案があります」
商人は戸惑いつつ受け取った。
「疫病や災害時の損失に備え、商人同士で積み立てを行う制度を作る。いわば、損害保険のような仕組みです」
商人は紙に目を走らせていた。
「平時に少額を出し合い、非常時にはそこから補てんを行う。国は制度設計と監督のみ。経営判断と責任は、商人自身が持つ」
私は、にっこりと笑った。
「これなら、次に同じ事が起きても、誰かに怒鳴り込む必要はありません。他の災害にも対応できるでしょう。もし、もう存在しているのなら破棄してください」
商人は、紙を持ったまま動かなくなった。
反論が、出てこない。
「すぐに結論は出さなくて構いません」
私は、椅子から立ち上がる。
「商人同士で話し合い、もし制度が動き始めたら、報告してください。その結果次第で、此方の対応を考えます」
沈黙。完全な沈黙だった。
私は静かに言った。
「補てんは、しません」
やがて商人は、肩を下げ、何も言わずに帰っていった。……ただ、執務室を出る時、僅かに頭を下げた。
(元社畜に、舌戦で勝てると思うな)
私は心の中でそう呟き、予定通り、庭へ向かう。
今日も定時。
――平和だ。




