43
翌朝。
空気が、いつもと違った。冷え込みではない。城内を行き交う侍従たちの歩みが早い。
声は低く、鎧の擦れる音がやけに響く。
私は窓辺に立ち、中庭を眺めていた。
(……何かあったな)
違和感はある。この数日、兵の動きは慌ただしかった。物資の搬入も増えていた。
遠くで鐘が鳴る。低く、重い音。祝祭の鐘ではない。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのは、王命監察官だった。大国の王の名において、動静を監督する役職。
その前に、すでにマルクが一歩進み出ている。私の斜め前、わずかに庇う位置。
王命監察官は一定の距離を保ち、一礼した。
「今朝未明、我が国はかの国と交戦状態に入りました」
私は、数秒、言葉を理解しなかった。
(交戦状態……?)
やがて、意味が落ちてくる。戦が始まった。
「……ああ」
可能性はあった。だが、本当にやるとは。
前世の記憶がよぎる。会社で大きなトラブルが起きる直前の、あの妙な静けさ。
空気だけが先に変わる。似ている。だが、違う。
これは、国と国だ。
王命監察官が続ける。
「王都は緊急体制に入りました」
一拍。
「誠に恐れ入りますが、緊急時につき、殿下の離国は許されぬとの仰せにございます」
沈黙。マルクの手が、わずかに強く握られる。
「……それは」
声が低い。
「事実上の拘束、ということでしょうか」
王命監察官は表情を変えない。
「そのような意図はございません。安全確保のための措置にございます」
「安全?」
マルクの声がわずかに震える。
「我が殿下は客人であられる。この扱いが――」
「マルク」
私は静かに遮る。怒りではない。ただ、状況を整理する声音。
「合理的だ」
小さく呟く。
「私は小国の王子だ。戦が始まった直後に帰国すれば、それ自体が外交的意味を持つ」
王命監察官が、わずかに目を伏せる。肯定でも否定でもない。
「盤面の固定、というわけだな」
私は窓の外を見る。鐘の音が、まだ響いている。マルクが一歩前に出る。
「殿下、それでも――」
言葉が続かない。怒りか、不安か。祖国に戻れない焦りか。
私は小さく息を吐いた。
(一本、取られたな)
戦争の始まりの空気には、正直、疎い。だが、盤面を読むことには慣れている。
「抗議はしない」
静かに言う。
「ただし、これは記録に残せ」
マルクが顔を上げる。
「はい」
声はまだ硬い。王命監察官が一礼する。
「賢明なご判断にございます」
その言葉が、どこまで本心かは分からない。扉が閉まる。鐘の音が遠ざかる。マルクが低く言う。
「……殿下」
私は苦笑した。
「大丈夫だ。まだ詰んでいない」
そして、窓の外の空を見上げる。
戦が始まった朝。私は大国の城に留め置かれることになった。
その日、私は予定どおり入室した。
円卓の間は、先日と何ひとつ変わらないように整えられている。
磨かれた石床。王家の紋章を織り込んだ緋の織物。陽光が高窓から静かに差し込む。
今朝、戦が始まったとは思えない。
第一王女エリシアは、すでに席に着いていた。
私を見ると、ほんのわずかに目を見開く。
来ないと思っていたのか。だがすぐに表情を整えた。
「始めましょう」
戦争は、まるで関係がないというように。
いいだろう。私はここに、学院設立の協議で来ているのだから。することは、決まっている。
着席した。
エリシアは静かに手を卓に置き、指先で軽く書類を押さえる。立つことなく、座ったままの姿勢で、円卓の全員に視線を巡らせた。
「本日は、姉妹学院の制度設計を詰めてまいります」
声は平坦。盤上の駒のように、言葉を並べていく。
私はゆるやかに背筋を伸ばした。
本日は、私が案を示す。受け身でいるつもりはない。指先を卓上に揃え、視線を一巡させる。それから、静かに口を開く。
「情勢がどうあれ、我々がここにいる理由は変わりません」
一拍。
「ゆえに、本日の議題に入ります。まず――学習内容の自由選択制」
ざわめきが走った。
「身分や家格ではなく、適性と志に基づいて科目を選ぶ。固定履修ではなく、段階的選択制とします」
沈黙は一瞬だった。
「殿下」
侯爵がゆっくりと口を開く。
「それは、市井の子弟と我らの嫡子が、同じ講義を受けるということか」
「基礎科目においては」
「同じ机に?」
声が低くなる。
「それは、序列の混同を招きますな」
別の貴族が言う。
「血統は神より賜った秩序。その上に立つのが我らの務めです」
私は即答しない。視線を一巡させる。
「混同はさせません」
「ではどう区別する」
鋭い問い。私は答える。
「評価の階層を分けます」
空気がわずかに動く。
「共通科目は履修可能。しかし、高位科目――統治学、儀礼学、帝王学は貴族のみ」
侯爵が目を細める。
「……門は同じ、だが奥の間は違うと?」
「その通りです」
別の声。
「だが成績は出るのだろう。市民が我らの嫡子より上位を取れば?」
「それは事務官としての能力です」
私は言葉を選ぶ。
「統治の資格とは別軸で評価します」
「別軸?」
「貴族は“統べる者”としての適性で測る。市民は“支える者”としての技量で測る」
沈黙。一人が言う。
「つまり、同じ尺度では測らぬと?」
「測りません」
「だが、同じ場で学べば意識は近づく」
それは正しい。私は頷く。
「意識は近づきます。だが序列は動きません」
「なぜそう言い切れる」
「制度で固定するからです」
ここでざわめきが強まる。
「制度は変えられる」
「血は変わりません」
私の声は静かだ。
「血統の継承権は学院ではなく、家が決める」
一瞬、空気が止まる。侯爵が低く言う。
「……成績が血の正統性を脅かすことはないと?」
「ありません」
「証明できるか」
「成績は役職選抜にのみ用いる。爵位継承とは切り離します」
言葉は刃ではない。だが、確かにぶつかっている。いつの間にか、円卓を照らしていた光は卓の端へと移り、やがて床へと落ちていった。
誰も気づかない。
「役職を成績で決める?」
「一定の下位官職に限ります」
ここで初めて、計算思案する空気になる。
「嫡子が無能でも、家督は守られる」
「守られます」
「だが有能な市民は官僚になれる」
「なれます」
静寂。これは革命ではない。調整だ。
侯爵が最後に言う。
「……殿下は、血統を崩すつもりはないのだな」
「崩しません」
私は視線を逸らさない。
「ただし、血統に責任を持たせます」
それはどういう意味か、と目が問う。
「統べる者が無能であれば、支える者が優秀である必要がある」
円卓の顔たちは沈黙の奥で、それぞれ別の計算を進めているように見えた。
やがて私は、時計代わりの砂時計に目をやった。定刻。
「本日はここまでにいたしましょう」
一瞬、空気が止まる。
侯爵が何か言いかける。だが私の声は穏やかだ。
「続きは明日。制度は急いで作るものではありません」
沈黙。視線が、私ではなくエリシアへと向かう。
第一王女エリシアは、こちらを見ていた。その瞳は、まだ終わるつもりはないと言っている。
「……殿下は、余裕でいらっしゃるのですね」
静かな声音。挑発ではない。事実確認のような響き。
「余裕ではありません」
私は立ち上がる。
「ただ、焦りは制度を歪めます。そして、どんな時であろうと、日課は守ります」
わずかなざわめき。皮肉か冗談か分からない顔が並ぶ。
エリシアの唇が、ほんのわずかに上がった。
「……退室の刻限まで支配下に置くとは、見事な采配」
「習慣です」
私は一礼する。
「本日はありがとうございました」
誰も納得していない。
だが誰も反対もしていない。
こうして、ある一日は終わった。
円卓の間を出ると、廊下の窓の外はすでに群青だった。
遠くで、戦支度の号令が響く。
戦は動いている。だが盤面は、まだ崩れていない。学ぶことは、この世界では秩序を揺らす刃だ。
それでも。
今はまだ、その時ではない。




