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城壁都市を離れる時、大国の紋章を掲げた騎士団が私達を出迎えた。
形式は完璧、言葉も丁寧。だがその奥にあるものを、誰もが感じ取っていた。
――小国の王子。その無言の響き。
彼らに案内されたのは、王都手前の狩猟城だった。
石造りだが、王城ほどの威圧はない。
低い塔、深い森、広い中庭。王家直轄の中継城。出迎えたのは、王命監察官。黒革の手袋を常に外さぬ男だった。
その声は柔らかい。
「陛下のご命により、こちらでご休息を」
丁寧な物腰。しかし目は、笑っていない。文化の国にふさわしい流麗な発音で続ける。
「我が国の伝統と学識に触れていただければ、きっとご満足いただけましょう」
触れていただければ。
教える側の響き。保護でもあり、監視でもある。広間は広く、梁には獣の角。
壁にかかる織物は華美だが、どこか誇示的だった。
夕餉は豪勢だった。鹿肉は柔らかく、香草の使い方も洗練されている。葡萄酒も上質だ。若いが、よく管理されている。
――最大級の礼遇。
だが、それだけではない。皿の数は多い。
だが量は控えめだ。味は濃い。香辛料も塩も、過分だ。これは城のもてなしではない。
誰かの試験だ。
鹿肉を一口。
「若い鹿ですね」
王命監察官の眉が動く。
「よく管理されている」
葡萄酒を少量だけ含む。
「三年。樽は新しい。香草は南方」
沈黙。私は皿を置く。
「学院の食堂には、塩を控えさせましょう」
一同が止まる。
「学ぶ者の舌は鈍らせぬ方がよい」
――こういう食事は好まない。
舌が鈍る。酒が進み、判断が遅れる。それは、望ましくない。私は杯を回し、香りだけを確かめてから口をつける。
なるほど。これは歓待だ。そして同時に、誰かの査定だ。小国の王子が、この席でどう振る舞うか。気後れするか。過度に感謝するか。場の豪華さに飲まれるか。あるいは飲み過ぎ、無作法を晒すか。
彼らは見ている。料理の知識。葡萄酒の扱い。会話の選び方。学院を共に設けるに足る教養があるか。
そして――精神。
王命監察官が杯を掲げる。黒革の指が縁に触れる。私はそれを見てから、自らの杯を掲げた。
「革は便利なものですね。体温を隠せる」
広間の空気が、わずかに止まる。監察官の目が細まる。
「……おや、何のことでしょう」
私は淡々と言う。
「外交の席では、時に体温が邪魔になります」
微笑まない。
「今宵は、互いに適温で参りましょう」
王命監察官は、常に手袋をしたまま杯を持つ。指先一つ、素肌を晒さない。
季節は穏やかだ。それでも外さない。偶然ではない。あれは距離だ。
皮一枚を隔てることで、彼は自らを守っている。いや、違う。守るというより――触れないのだ。相手にも、責任にも、感情にも。
素手は、体温を伝える。震えも、汗も、緊張も。だが革はそれを遮断する。
外交の場で素肌を見せぬということは、同じ土俵に降りぬという意思表示だ。友好の席にいながら、決して友ではない。
なるほど。
あの手袋は、鎧の一部だ。
ならばこちらも、鎧を脱ぐわけにはいかない。外に纏う鎧はない。だが揺れぬ心こそ、私の鎧だ。
私は杯を置く。
素手のままで。
王命監察官は口を開いた。
「我が国の料理は、王侯の舌を育てると申します」
誇示する口調。柔らかく、しかし測るように。私は杯を置く。
「育つかどうかは、土によります」
広間が静まる。
「良き土壌であれば、種は自ずと芽吹きます」
視線を外さない。
「学院も、同じことでしょう」
育てる、か。未熟者に向ける言葉だ。
……懐かしい響きだな。前世でも、似た言葉を聞いた。
「ここで学ばせてやる」
「鍛えてやる」
そう言われるときほど、値踏みは終わっている。ならば対応は簡単だ。感情は出さない。
酒は進めない。礼は尽くすが、へりくだらない。業務と同じだ。
評価者がいる席で、余計な感情はコストになる。私は微笑みもせず、怒りも見せない。
「過分なおもてなしに感謝する」
声音は平坦。卑屈でもなく、挑発でもない。
監察官の目が、わずかに細まる。
「学院設立は我が国の誉れとなりましょう」
誉れ。その言葉に、侮りが滲む。
――教えてやる、という響き。
私は杯を置く。
「互いに益する形となれば、何よりです」
対等の言葉。
もてなしは本物だ。侮りもまた本物。
ならば応じ方も、本物でなければならない。
私は杯を置く。
この席もまた、会議の一つに過ぎない。
従者たちは固かった。
料理を口に運びながらも、周囲の兵の配置、扉の数、窓の高さを確認している。
ここは他国。味方は、自分たちだけ。
だが第三王子は、食後きっぱりと立ち上がった。
「翌日の謁見に万全で臨みたく存じます。今宵は失礼を」
無駄な歓談はやんわり退ける。王命監察官は微笑を崩さない。だが目は冷たい。
「長旅でお疲れでしょう。どうぞごゆるりと」
ゆるりと。その言葉の裏に、観察の意図。
自室は主塔二階にあった。階下の広間よりは静かだが、足音は石壁を伝って微かに響く。天井は高く、梁はむき出しのまま。窓は細く、外の森が黒く沈んで見える。広さは十分だ。寝台も上質で、卓も磨かれている。
だが、空気が冷たい。石が夜の湿気を抱き込み、乾いた匂いを放っている。
温もりはない。整えられているだけの部屋だ。
窓の外には森。灯りを落とす前、昼に王命監察官から渡された図面を広げた。
学院予定地の区画図。
敷地の広さ、周囲の街路、水路との距離。建物の配置を頭の中で組み直し、必要な人員と資材を算出する。
見栄ではない。実現のための計算だ。
マルクが低く言った。
「……見下していますね」
私は図面から目を上げない。
「何を根拠に」
わずかな沈黙。
「会食の場でありながら、最後まで手袋を外しませんでした」
灯りが揺れる。
「乾杯の時も、料理に手を伸ばす時も。殿下に素肌を見せることは、一度も」
私は静かに紙を折る。
「……侮りか」
マルクは即答しない。
「距離です。対等とは見ていない」
部屋の空気が冷える。私は短く息を吐く。
「構わぬ」
マルクが顔を上げる。
「見下せるうちは、まだ安心している」
私は灯りを落とす。
「安心は、長く続かぬ」
マルクは頷く。
「揺れるな」
「は」
その返答は、静かで強かった。私は灯りを消した。
「今日はここまでだ」
外では隣国の兵が見張っている。友好の顔をした警戒。まだ先は長い。学院も、条約も、立場を更新するための積み上げも。
人は人を試す。
だがその視線は、必ず返る。
森の狩猟城は静かだ。
笑みも礼も、すべて整えられている。だが、その静けさの底にあるものを、私は見ていた。




