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元社畜だった私は、今日も昼までに最低限の仕事を終えた。無理をしない。それが信条だ。
書類を整え、飲み物に手を伸ばした、その時。控えめなノックとともに、文官マルクが入ってきた。
「殿下、報告が――ごほっ、ごほ……」
嫌な咳だった。私は即座に飲み物を置く。
「体調には気をつけろ。辛いなら、今すぐ帰れ」
業務効率以前に、病人を働かせる意味がない。だがマルクは首を振った。
「これくらい、大丈夫です。それより心配なのは、城下町です。咳が長引く病が流行っていて、すでに死者も出ているそうです」
私は眉を寄せ、執務室の外へ視線を向けた。廊下を行き交う文官、近衛兵、侍女。
よく見れば――咳をしている者が、確かに多い。
(……おかしい)
「担当部署はどこだ」
「衛生管理局です。しかし――」
「しかし?」
「単なる風邪だと判断し、様子見をしているようで……」
私は深く息を吐いた。
(様子見で死人が出る。前世で見たことのある光景だ)
「分かった。私が動く」
最低限で最大の指示。私が出した指示は、多くない。
一つ目。咳の症状がある者は、全員即時自宅待機。
二つ目。城下町の診療所と薬師に通達し、同一症状の患者数と経過を即日報告させる。
三つ目。衛生管理局に命じ、人が密集する施設の換気、寝具の消毒、共用食器の使用停止を徹底。
そして、最も重要な一言を添えた。
「病人を働かせた責任は、管理者が取る」
それだけで、現場は動いた。
半日で報告は揃った。
病の正体は、空気中に残りやすい感染性の咳病。重症化する前に休養すれば回復するが、無理をすると一気に悪化する。
つまり――働かせ続けたのが、致命的だった。
衛生管理局は軽症者を放置し、結果、城と城下町で感染を広げていた。
私は即座に判断を下した。
「治癒するまで復帰禁止。破った部署は、評価を下げる」
それ以上の罰は与えなかった。無駄だからだ。
数日後。城下町では咳をする者は目に見えて減り、二週間も経つ頃には、新規患者の報告は途絶えた。
城でも、病は急速に終焉した。執務室に戻ったマルクは、まだ少し掠れた声で言った。
「殿下、ありがとうございました。被害は最小限で済みました」
私は彼をじっと見た。
「……お前」
「は、はい」
「病人が働くのは駄目だ」
マルクが固まる。
「お前が倒れたら、その仕事は誰が引き継ぐ。美談にも忠誠にもならない」
「……申し訳ありません」
「次に同じことをしたら、強制的に休ませる」
それが、私なりの説教だった。
私は定時に席を立ち、外套を羽織る。
(無理をしない。だが、放置はしない)
元社畜として、それだけは譲れなかった。
後日。城下町では、医師と薬師が小声で話していた。
「殿下の判断で、助かった患者は多い」
「病人を休ませる。それを通した王族は、初めてだ」
彼らは派閥を作るつもりはなかった。ただ、あの方が困った時は助けようと決めただけだ。
今日もマルクに聞く。
「問題は?」
「ありません」
「ならいい」
それだけだった。
今日も定時。私にとっては平和なら、それで十分だった。




