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リディアへ
そなたの父君は、すでに打つべき手を打っておられる。
ゆえに、今は動かず、待ちなさい。人は、説かれては動かぬ。自ら選べるときに、初めて歩き出す。
時間を味方につけなさい。
――第三王子
リディアは、納得出来なかった。
何度読み直しても、第三王子の手紙は短く、そして曖昧だった。待つ。それは、何もしないことと同じではないのか。
父はすでに領民に提案している。安全な土地も用意した。それでも、誰ひとり動かなかったのだ。これ以上、何を待てというのか。
リディアは、便箋を机に置き、深く息を吐いた。……分からない。
その1ヶ月後だった。長雨が続き、川の水位が目に見えて上がっていった。家臣たちの顔つきも変わる。嫌な予感が、現実味を帯びる。
そして、夜半。川が溢れた。
低地はあっという間に水に呑まれ、畑も道も区別がつかなくなった。朝になっても水は引かず、濁流がゆっくりと流れ続けている。
リディアは堤に立ち、その光景を見下ろしていた。胸の奥が、強く締めつけられる。
やはり、待ってなどいられなかったのではないか。もっと強く進めるべきだったのではないか。
そのときだった。
「お嬢様」
背後から、声がした。振り向くと、見覚えのある老農夫が立っていた。以前、広場で声を荒げていた男だ。濡れた衣のまま、帽子を取る。
「……あの話は、まだ有効ですかね」
リディアは、一瞬、意味が分からなかった。
「あの話、とは」
「川から離れた土地を、分けてもらえるって話でさ」
心臓が、どくりと打つ。老農夫は、水に沈んだ畑を見やった。
「水はな、慣れてる。いつも通りだ。けどな……」
少しだけ言葉を探し、
「歳取ると、立て直すのが堪えてきてな。孫には、こんな思いはさせたくねぇ」
それは、責める目でも、諦めた目でもない。ただ、自分で結論を出した者の顔だった。
リディアは、はっとする。
「……もちろんです」
そう答えると、老農夫は、ほっとしたように息を吐いた。
「そうか。ありがてぇ」
その背中は、どこか小さく見えた。その日の夕方。同じことを尋ねに来る者が、ぽつり、ぽつりと現れ始めた。
「あの土地の話は、まだ選べるのか」
その様子を見ながら、リディアの脳裏に、あの手紙の一文が浮かぶ。
人は、説かれては動かぬ。自ら選べるときに、初めて歩き出す。――待ちなさい。
意味が、胸の奥に落ちていった。
私は、待たされたのではない。彼らが、選べる時を、待っていたのだ。
それでも、ひとりだけ。最後まで動かなかった男がいた。広場で、誰よりも強く反対していた男。
「先祖代々の土地を捨てるのか」
と、声を荒げていたあの男だ。
数日後。水はまだ引ききらぬまま、彼は堤に現れた。泥にまみれた足で、黙ってリディアの前に立つ。
「……領主様の言う通りだった、とは言わねぇ」
低い声だった。リディアは、何も言わずに待つ。男は、水に沈んだ畑を見つめたまま、続けた。
「水が引いたあとな。ひとり、また一人と減っていった」
リディアは、黙って聞いている。
「誰も、説かれた顔はしてなかった。ただ、自分で決めて、去っていきやがる」
少しだけ、苦いように笑う。
「けどな、俺は……」
男は首を振った。そして、ゆっくりと、リディアを見る。
「移る。あの土地に」
そこには、悔しさも、怒りもなかった。ただ、静かな光だけが瞳に宿っていた。
その瞬間、リディアの胸に、はっきりと理解が落ちる。
これだ。これを、待っていたのだ。
「……お待ちしておりました」
男は小さく鼻を鳴らし、背を向けた。その背中は、不思議なほど軽く見えた。
リディアからの手紙が届いたのは、静かな午後だった。封を見た瞬間、私は思わず指先に力を込めた。整った筆跡は、遠目にも彼女のものだと分かる。
椅子に腰を下ろし、ゆっくりと封を切る。
遊水池の件、少しずつ進んでおります。
殿下のご助言のおかげです。心より感謝申し上げます。
それだけではありません。私は、ようやく理解いたしました。人を動かすのは、言葉ではなく、自らの選択なのですね。
もちろん、新しい土地にはまだ慣れぬ面もございます。道は以前より遠く、畑の土は硬いです。それでも、皆が自分の意思で歩む姿を見るたび、私は胸が熱くなります。
そこまで読んで、私は小さく息を吐いた。
やはり、気付いたか。
遊水池の話は、今に始まった問題ではない。
歴史の中で、幾度となく手が打たれ、そしてそのたびに大きな困難を伴ってきた。
人は、危険を知っていても、住み慣れた土地を離れられない。それでも移転が叶ったときは、必ず何かを失った後だった。
反発か、混乱か、あるいは痛みか。
簡単に進んだことは、一度もない。
私は、便箋を丁寧に畳み、机の上に置いた。あのときの手紙は、助言のつもりで書いたものではない。
……上に立つ者は、すべてを教えるものではない。気付く余白を残すこともまた、務めのひとつだ。
リディアは、血筋だから次期領主なのではない。人の痛みに立ち止まれるから、次期領主なのだ。だから、気付く。だから、届く。
窓の外では、穏やかな風が木々を揺らしている。
遠い領地の、濁った水と、泥だらけの畑。そこに立つ女性の姿を思い浮かべながら、私は静かに微笑んだ。
さて、今日も定時だ。
良い日だった。
マルク視点
その頃。城の一角、文官たちの詰める部屋では、ひとつの話題が静かに広がりつつあった。
「例の遊水池の件だが」
「ああ、あの領地か」
「ずいぶん上手く進んでいるらしい」
強制もなく、混乱もなく、それでいて確実に事が進んでいるという。
「第三王子殿下の助言だとか」
「やはり、以前とは変わられたのか」
やがてその話は、文官だけでなく、城に滞在していた他領の領主たちの耳にも入った。
私は、その様子を少し離れた場所から聞いていた。
誇らしい、と思う。あの方は、誰かに評価されるために動いているわけではない。
それでも、こうして実績が言葉になって広がっていくのを見ると、胸の奥が温かくなる。
けれど。私は、そのことを王子に伝えるつもりはない。知ろうと、知らざると。第三王子は、変わらないのだから。
――しかし。影でにやけるくらいは、許してもらおう。
私の仕える人が評価されるのは、どうしても嬉しいのだから。
ある夜。
リディアは机の上に広げた手紙を、静かに眺めていた。何度も読み返し、紙の端はわずかに柔らかくなっている。
書かれている言葉は変わらないのに、読むたびに、違う意味が胸に落ちてくる気がした。
リディアは、そっとそれを両手で持ち上げる。
傷をつけないように、大切に扱うように。
引き出しから、小さな木箱を取り出した。
飾り気のない、けれど丁寧に磨かれた箱だ。
その中に、手紙をそっと納める。
箱を閉じ、引き出しに戻したあとも、リディアはしばらくそこに手を置いたまま、動かなかった。
そこには、何もない。けれど。
確かに、温度があるように思えた。




