22
クロウフォード家の領地において、川沿いの低地は長雨の時になると、決まって水をかぶった。
膝まで水に浸かり、畑の半分以上が駄目になることもある。それでも、誰もこの土地を捨てようとはしなかった。
水が引けば、土は豊かになる。手間はかかるが、作物の出来は悪くない。何より、先祖の代から耕してきた畑だった。
「また水か」
そう言って、皆で泥をかき出し、畑を整え、何事もなかったように暮らしを戻す。それが、この土地の当たり前だった。
だからこそ。
「ここを、遊水池にする」
領主――リディアの父の言葉に、広場はざわめいた。
「何を今さら」
男が声を荒げる。
「確かに水は来る。だがな、毎年じゃない」
「そのたびに、俺たちは立て直してきた」
「それでも、ここで生きてきたんだ」
別の女が言う。
「水に浸かるくらい、もう慣れている」
「畑があるから、生きていけるんだ」
父は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その表情は、領主のものではなく、一人の人間のものに見えた。
リディアは、その様子をすぐ傍で見ていたが、何も言えなかった。
彼らにとってそれは「被害」ではない。「受け入れてきた暮らし」なのだと、初めて知ったからだった。
それでも、現実は変わらない。この川は、いずれ必ず、大きく氾濫する。そのとき、この低地は丸ごと呑み込まれる。
「今まで大丈夫だった」は、「これからも大丈夫」の証にはならない。
だが――その未来の話は、今日を生きる彼らの前では、あまりにも遠かった。
リディアは、ゆっくりと息を吐いた。
広場の空気は、最後まで固かった。
説得も、説明も、理屈も。どれも間違ってはいないはずなのに、誰の心にも届かなかった。
父は、川から離れた安全な土地を開墾し、そこへ移ることを提案した。だが、先祖の代から耕してきた畑を離れるという言葉は、彼らの耳には届かなかった。
「考えさせてくれ」
そう言って領民たちは散り、結論は出ないまま、その日は終わった。
執務室に戻った父は、椅子に腰を下ろすなり、深く息を吐いた。リディアも、家臣たちも、言葉を失っている。
遊水池の必要性は、誰の目にも明らかだった。だが同時に、あの土地を失えば、暮らしが立ち行かなくなる家が出ることも事実だった。
「……私は」
父の呟いた言葉は、机の上に落ちて消えた。
その背中は、いつもより小さく見えた。
リディアは、思った。
……領主とは、もっと迷いなく決断できるものだと思っていた。だが今は、何を選んでも誰かを傷つける気がするのだと、父の背中が語っているように思えた。
夜になっても、答えは出なかった。
リディアは机の引き出しを開け、便箋を取り出す。迷った末に、ペンを取った。
宛名は、ただ一人。――第三王子殿下。
インクが滲むほど、しばらくペン先は止まっていた。
助けてほしいわけではない。決断を代わってほしいわけでもない。しかし、この迷いを、誰かに聞いてほしかった。次期領主としてではなく、リディアとして。
静かな部屋に、紙を擦る音だけが響く。
今日、父が「領主ではない顔」をしているのを見ました。私は今、父の隣で、領主として正しいことと、人の暮らしを守ることの間で揺れる姿を、ただ見ています。
長雨が続く度、水に浸かる土地があります。皆それを受け入れ、立て直し、そこで生きてきました。
けれど、いずれ来るかもしれない大きな氾濫を思えば、今のうちにその場所に遊水池を作るべきだと、父は判断しました。ですが、彼らにとってそれは“被害”ではなく、“慣れた暮らし”でした。
父は、川から離れた安全な土地を用意することも提案しました。でも、先祖の代から続く畑を離れるという選択は、誰の心にも届きませんでした。
領主とは、迷わず決断できる者だと思っていました。ですが、私は今日、その迷いの重さを、父の背中から知りました。
そこで、ペンが止まる。
しばらく考え、リディアは最後に書き足した。
殿下なら、このとき、どうなさいますか。
書き終えた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
……人は、迷う。
けれど、その迷いを胸の内に閉じ込めたままでは、押し潰されてしまうこともある。
誰かに向けて言葉にするだけで、少しだけ救われる時があるのだと、リディアはこの夜、初めて知った。




