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もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


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クロウフォード家の領地において、川沿いの低地は長雨の時になると、決まって水をかぶった。

膝まで水に浸かり、畑の半分以上が駄目になることもある。それでも、誰もこの土地を捨てようとはしなかった。

水が引けば、土は豊かになる。手間はかかるが、作物の出来は悪くない。何より、先祖の代から耕してきた畑だった。

「また水か」

そう言って、皆で泥をかき出し、畑を整え、何事もなかったように暮らしを戻す。それが、この土地の当たり前だった。

だからこそ。

「ここを、遊水池にする」

領主――リディアの父の言葉に、広場はざわめいた。

「何を今さら」

男が声を荒げる。

「確かに水は来る。だがな、毎年じゃない」

「そのたびに、俺たちは立て直してきた」

「それでも、ここで生きてきたんだ」

別の女が言う。

「水に浸かるくらい、もう慣れている」

「畑があるから、生きていけるんだ」

父は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

その表情は、領主のものではなく、一人の人間のものに見えた。

リディアは、その様子をすぐ傍で見ていたが、何も言えなかった。

彼らにとってそれは「被害」ではない。「受け入れてきた暮らし」なのだと、初めて知ったからだった。

それでも、現実は変わらない。この川は、いずれ必ず、大きく氾濫する。そのとき、この低地は丸ごと呑み込まれる。

「今まで大丈夫だった」は、「これからも大丈夫」の証にはならない。

だが――その未来の話は、今日を生きる彼らの前では、あまりにも遠かった。

リディアは、ゆっくりと息を吐いた。

広場の空気は、最後まで固かった。

説得も、説明も、理屈も。どれも間違ってはいないはずなのに、誰の心にも届かなかった。

父は、川から離れた安全な土地を開墾し、そこへ移ることを提案した。だが、先祖の代から耕してきた畑を離れるという言葉は、彼らの耳には届かなかった。

「考えさせてくれ」

そう言って領民たちは散り、結論は出ないまま、その日は終わった。

執務室に戻った父は、椅子に腰を下ろすなり、深く息を吐いた。リディアも、家臣たちも、言葉を失っている。

遊水池の必要性は、誰の目にも明らかだった。だが同時に、あの土地を失えば、暮らしが立ち行かなくなる家が出ることも事実だった。

「……私は」

父の呟いた言葉は、机の上に落ちて消えた。

その背中は、いつもより小さく見えた。

リディアは、思った。

……領主とは、もっと迷いなく決断できるものだと思っていた。だが今は、何を選んでも誰かを傷つける気がするのだと、父の背中が語っているように思えた。


夜になっても、答えは出なかった。

リディアは机の引き出しを開け、便箋を取り出す。迷った末に、ペンを取った。

宛名は、ただ一人。――第三王子殿下。

インクが滲むほど、しばらくペン先は止まっていた。

助けてほしいわけではない。決断を代わってほしいわけでもない。しかし、この迷いを、誰かに聞いてほしかった。次期領主としてではなく、リディアとして。

静かな部屋に、紙を擦る音だけが響く。



今日、父が「領主ではない顔」をしているのを見ました。私は今、父の隣で、領主として正しいことと、人の暮らしを守ることの間で揺れる姿を、ただ見ています。

長雨が続く度、水に浸かる土地があります。皆それを受け入れ、立て直し、そこで生きてきました。

けれど、いずれ来るかもしれない大きな氾濫を思えば、今のうちにその場所に遊水池を作るべきだと、父は判断しました。ですが、彼らにとってそれは“被害”ではなく、“慣れた暮らし”でした。

父は、川から離れた安全な土地を用意することも提案しました。でも、先祖の代から続く畑を離れるという選択は、誰の心にも届きませんでした。

領主とは、迷わず決断できる者だと思っていました。ですが、私は今日、その迷いの重さを、父の背中から知りました。


そこで、ペンが止まる。

しばらく考え、リディアは最後に書き足した。


殿下なら、このとき、どうなさいますか。



書き終えた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。


……人は、迷う。

けれど、その迷いを胸の内に閉じ込めたままでは、押し潰されてしまうこともある。

誰かに向けて言葉にするだけで、少しだけ救われる時があるのだと、リディアはこの夜、初めて知った。


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― 新着の感想 ―
「誰かに向けて言葉にするだけで、少しだけ救われるときがあるのだと、リディアはこの夜、初めて知った。」 最後の一文で私は泣いてしまいました。 正直、王子相手に手紙を出すべきではないと思います。 ただリ…
簡単に嫌われる方法は相手の感情を無視して正論を言い続けること、という言葉もあるしねえ。 正論が受け入れられるのは「誰が言ったか」の部分がクリアできた時だけ…というのが世の常ではある。 悩むのはまともな…
手紙は書くだけならいいけど、出すのは踏みとどまってほしいと思いました。もしくは、せめて領主である父本人に自分の思いをぶつけ、ともに考える姿勢を見せるなら。 父から本来、王族に訴えるべきことではない、と…
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