19
リディアは、第三王子からの返書を胸に抱えたまま、父の執務室へ向かった。その足取りは、どこか弾んでいる。
扉の前で息を整え、声をかけた。
「お父様、今よろしいですか」
「入れ」
短い返事。机に向かっていた父は顔を上げ、リディアの手の封書に目を留めた。
「……それは?」
「第三王子殿下からの返書です。領地の件で、助言をいただきました」
父の眉が、わずかに動く。
「見せなさい」
リディアは手紙を差し出した。
父はそれを受け取り、静かに読み進める。
最初は無言だった。だが、頁をめくるごとに、父の表情が徐々に険しくなっていく。
読み終えた父は、手紙を机に置いた。
そして、低い声で言った。
「リディア」
「はい?」
「お前は……なんという無礼を働いた」
意味が分からなかった。
「え?」
「この件、お前は私に相談したか?」
リディアの視線が泳ぐ。
「……いえ」
「家宰には」
「……していません」
「つまり」
父の声が、重くなる。
「お前は一人で動き、王子殿下に手紙を書き、資料を送りつけ、意見を求めたのだな」
胸の奥が、冷たくなる。
父は手紙を指で叩いた。
「第三王子殿下が、ここまで具体的に書かれているということはだな」
紙をめくる。
「殿下は、お前の資料を読み込み、周辺領地と国の動きまで調べた上で、考えを示してくださっている」
リディアは、瞬きをした。
「それは……ありがたいことでは?」
「違う」
父の声が、わずかに強まる。
「本来、王族のなさることではない」
言葉が、刺さる。
「お前は、“意見をください”と書いたな」
「……はい」
「それはつまり、“調べる手間をかけさせた”ということだ」
はっとした。
「しかも最初の資料は読みにくく、要点もまとまっていなかったのだろう」
胸がずきりと痛む。
「殿下はそれを突き返した。だが二度目は、きちんと読んでいる」
父は深く息を吐いた。
「これはな、リディア。指導ではない」
手紙を見下ろしながら、静かに言う。
「誠実に、向き合われているのだ」
リディアの喉が、小さく鳴る。
嬉しかった。読んでもらえたことが。助言がもらえたことが。だが今、ようやく気づく。これは「教え」ではない。時間を割いて、考えられた跡なのだ。
「無礼すぎる」
父はもう一度言った。
「まず、お前がすべきは、礼だ」
リディアは、深く頭を下げた。
執務室を出たあとも、胸の奥が重く沈んでいる。廊下を歩きながら、父の言葉が何度も頭の中で繰り返された。足が止まる。
……ああ、私は、何も考えていなかった。助言をもらえたことが嬉しくて。読んでもらえたことが誇らしくて。その裏に、どれだけの時間と労力を使わせたのかを、考えもしなかった。
胸が、きゅっと縮む。自室に戻ると、すぐに机に向かった。便箋を広げる指が、わずかに震えている。
これは、相談の手紙ではない。意見を求める手紙でもない。
ただ、詫びるための手紙だ。
ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
目頭が熱くなり、文字が滲む。
それでも、ペンは止めなかった。
リディアが部屋を出たあとも、伯爵はしばらく机の上の手紙を見つめていた。
第三王子の筆跡は整っている。余計な言葉はなく、必要なことだけが、静かに並んでいる。
ふと、昔耳にした噂が脳裏をよぎる。
――第三王子は、才に乏しい。王家の中でも、目立たぬ存在だ。
だが、伯爵はゆっくりと首を振った。
「……まさしく、噂とは当てにならぬものだな」
この手紙を書いた人物が、無能であるはずがない。一つ一つの助言は、領地の現実を理解し、国の動きと周辺の状況を踏まえたうえで示されている。机上の知識では書けない。
「……これは、娘の詫びだけでは足りん」
伯爵は新しい紙を取り出した。ペン先を整え、姿勢を正す。
王子へ送る礼状は、伯爵家当主としての礼でなければならない。娘の無礼に対する詫びと、示された考えへの深い感謝。
そして何より――この助言を、必ず領地に生かすという誓い。
文は長くなった。だが、一行一行に重みを持たせた。書き終えると、伯爵はふと手を止めた。そして、もう一枚の封書を取り出す。
先ほどリディアが書いた詫びの手紙を、静かに同封した。すぐに封をし、最速の馬を出すよう命じる。
「家宰を呼べ。鍛冶組合の長も。街道管理の責任者もだ。すぐにだ」
使用人が慌ただしく動き出す。
執務室に人が集まるころには、伯爵の机の上に地図と帳簿が広げられていた。
「まず街道の仮補修を行う。完全な補修ではない。荷車と人が通れればよい」
「鍛冶職人の呼び戻しを最優先にする。税の減免を提示しろ」
「遊水地の候補地を洗い出せ。川沿いの低地だ。堤の計画は後回しにする」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
誰も反論しなかった。
伯爵の声に、迷いがなかったからだ。リディアはその様子を、少し離れた場所で見ていた。そして気づく。第三王子の手紙は、父の中の迷いを、取り払ったのだと。
その日から、クロウフォード家は動き始めた。
結果が出るには、時間がかかるだろう。税収が戻るのも、職人が増えるのも、すぐではない。
だが、誰の目にも分かっていた。
領地は、確実に前へ進み始めている。




