15
彼女は、久しぶりの夜会に、わずかな緊張を覚えていた。豪奢な音楽、照明にきらめく宝石、甘い香水の残り香。
――変わらない。けれど、慣れるものでもない。
会場の中心では、第一王子の周囲がひときわ華やいでいた。
王妃の座を狙う令嬢たち。家柄、財力、美貌、すべてを武器にした“華麗なる軍団”が、隙間もないほど取り囲んでいる。
笑顔は完璧で、会話は計算され尽くしていた。
一方、少し離れた場所。
第二王子の周囲には、また違った空気が流れている。――第一王子ほどではない。だが、だからこそ。
「第二王子なら、正妃になれる可能性が高い」
そう読んだ令嬢たちが、個性と魅力を前面に押し出し、静かに、しかし確実に距離を詰めていた。派手さよりも実利。野心を隠さない、麗しくも油断ならない集団だった。
そして、王女の周囲。
そこには、若い貴族たちが集まっていた。
一目でも、声ひとつでも、覚えてもらおうと。
これ以上ないほど着飾り、胸を張り、時に緊張で声を上ずらせながら。
それらすべてを眺めながら、彼女は思う。
(……いつもの風景)
第一王子の相手が決まれば、流れは一気に動く。勢力図を見定め、残る二人も、ほどなく相手を決めるだろう。
彼女の名はリディア・クロウフォード。
中規模伯爵家クロウフォード家の、一人娘だ。連続する水害によって、彼女の領地は疲弊している。堤は修復が追いつかず、収穫は不安定になり、帳簿に並ぶ数字は年々細っていった。
それでも彼女は、安易に税を上げることも、領民に無理を強いることも選べなかった。
――自分が継ぐ領地だからこそ、失敗できない。
長女として生まれ、逃げ場はない。婿を取る必要がある。財力のある貴族か、あるいは財務に明るい人物。それが、領地を守るための最適解だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど――。夜会の場で、淡々と意見を述べていく第三王子の姿に、リディアは、思わず視線を向けていた。
リディアは、知らず、唇を噛んでいた。
(……領の経営は、苦しい)
連続した水害。疲弊する財政。農民たちに、これ以上の予算をかける余裕などない。
(だからこそ――)
農民向けの保険制度は、導入する価値があるのではないか。そう考えたことは、一度や二度ではなかった。
痛みを分散させる仕組み。それは、弱い領地を支える現実的な手段だと、思っていた。
だが。第三王子の言葉が、静かに落ちた。
「それは、本来、領主が担うべき役割です」
――頭を、殴られたような衝撃だった。
息が、一瞬、詰まる。胸の奥が、ひりつく。
(……そんな、簡単に)
恥ずかしさが、先に来た。自分が、どこかで「仕組み」に逃げようとしていたことを、見透かされた気がして。そして、遅れて、怒りが湧いた。
(現実を、知らないから言えるのよ)
水害の後始末が、どれほど重いか。帳簿の数字が、どれほど無慈悲か。理想だけでは、領地は守れない。
現実を知れば――きっと、同じことは言えない。
……はずなのに。否定の言葉が、喉まで上がってきて、それでも、出てこなかった。なぜなら、第三王子の声には、軽さも、逃げも、なかったからだ。感情を煽らず、誰かを責めることもなく、「できること」と「できないこと」を整理する。
その姿勢は、彼女が何度も帳簿の前で立ち止まってきた理由そのものだった。選ばなかった道の責任まで想像して、足が止まる。それが、彼女の弱さだった。
彼女は、決心した。
――第三王子なら、領地の相談に乗ってくれるかもしれない。そう思った瞬間、身体はもう動いていた。王子が去っていった方角へ、自然を装って歩き出す。発見した第三王子は、中庭で佇んでいた。
……待って。そこで、ふと我に返る。
このまま追いかけたら、あまりにも露骨ではないだろうか。
(……落ち着いて。理由が必要だわ)
夜会の会場は熱気がこもっている。外に出る理由なら、いくらでもあるのだが……。
――そうだ。お酒。少し飲み過ぎて、酔いを冷ましに来ただけ。それなら、誰が見ても自然だ。リディアは踵を返し、会場へ戻った。
近くの卓からグラスを取り上げる。
一杯。
二杯。
喉を通る液体の熱に、少しだけ頬が緩む。
(……よし。ほどよく酔った、はず)
自分にそう言い聞かせ、彼女は再び足早に先ほどの場所へ向かった。
だが――そこに、第三王子の姿はなかった。
夜風だけが、先ほどよりも静かに吹いている。まるで、何事もなかったかのように。
リディアは、その場に立ち尽くした。
追いかける気力も、言い訳を探す余裕も、もう残っていない。
胸の奥で、熱を帯びていたはずの感情は、気づけば、すっかり燃え尽きていた。
考え過ぎることで初動が遅れる。その躊躇が、取り返しのつかない結果を招くこともある――その言葉を、噛みしめながら。
彼女は一人、中庭で誰もいない闇を見ていた。




