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国王の秘書が、私の執務室を訪れた。
扉の前で一瞬、ためらうように足を止め、それから静かに頭を下げる。
「……失礼いたします」
そう前置きし、彼は手にしていた書類の束を胸元で抱え直した。
「王子殿下が停止された工事の件ですが……」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「苦情と、嘆願書が提出されています。数が……想定以上でして」
申し訳なさそうに視線を伏せながら、机の上に分厚い資料を置いた。
「本来であれば、整理してからお渡しすべきなのですが……」
一度息を整え、続ける。
「国王陛下が、この件を大変気にされております。できるだけ早く、状況の把握とご対応を、と……」
それ以上は言わなかった。
――いや、言えなかったのだろう。
秘書は「伝える役」にすぎない。
怒りの矛先が自分に向かぬよう、それでも職務として届けねばならぬものを、両手で差し出しているだけだ。
私は資料の厚みを一瞥し、静かに理解する。
扉が閉まった後、私は飲み物を一口含み、資料をぱらぱらとめくる。
――なるほど。
表紙には、こう並んでいる。
・工事停止による経済損失について
・民意を無視した行政判断への抗議
・早期再開を求める嘆願書一式
中身は、大きく三種類に分かれていた。
一つ目。
工事を請け負っていた業者からの苦情。
「人員と資材をすでに投入している」
「中断は想定外の損失だ」
「契約上、問題がある」
数字ばかりで、前提条件が書かれていない。
典型的な、“損失だけを切り取った主張”だ。
二つ目。
周辺商人からの嘆願。
「工事関係者の往来が減り、売上が落ちた」
「活気が失われた」
「町の発展を妨げている」
感情的だが、生活の実感はある。
無視はできない。
三つ目――。……おや?
署名付きの抗議文が何通もあるが、工事現場からは明らかに離れた地域もある。直接の影響があるとは思えない。それに。
(私の案件“以外”も混ざっているな)
他部署が止めた工事。別件の行政判断。明らかに、まとめて押し付けてきている。
嫌がらせか?それとも、試しか?
……まあ、どちらでもいい。
私は資料を閉じ、軽く息を吐いた。
(まずは、優先順位を決める)
全部を「早急」に処理する気はない。
そんなものは仕事ではなく、消耗だ。
基準は単純でいい。
――人命と安全。
――回復に時間がかかる損害。
――放置すれば、連鎖的に問題が広がるもの。
逆に言えば、金で取り戻せる損失、声だけ大きい案件、責任の所在が曖昧なものは後回しだ。
私はベルを鳴らした。
「時間を空けられる文官を呼んでくれないか」
集まったのは三名。
「至急に」
私は机の上に地図を広げる。
「この工事停止案件について、文章ではなく“視覚資料”を作る」
文官たちが顔を上げる。
「地図上に、次を落とす」
指を一本立てる。
「工事予定地」
二本目。
「実際の影響範囲」
三本目。
「苦情および嘆願書の提出元」
「色分けをする。直接影響、間接影響、ほぼ無関係。三種で」
さらに指を置く。
「加えて、工事を止めた理由を書き込む。
予算超過、資材不足、安全基準未達、人手不足。場所ごとに」
文官の一人が、即座に理解したように頷く。
「……“誰が、どこで、何に困っているか”を一目で分かるように、ということですね」
「その通り」
私は即答する。
「文章は誤魔化せる。地図は誤魔化せない。
明日中に一次資料を出すように。完璧でなくていい。全体像が欲しい」
文官たちは、躊躇なく動いた。
机に残った資料の山を見下ろし、私は思う。
(これを“早急に処理しろ”、か)
処理はする。だが、声の大きさではなく、重要度の順で。
元社畜に、資料の束で圧をかける戦法は――効かない。
翌日、文官たちは地図と表をまとめ上げてきた。
赤は、直接影響を受ける地域。
黄は、間接的な影響。
緑は、ほぼ無関係。
……見事なほど、ずれている。声が大きい場所と、本当に困っている場所が一致していない。工事停止の理由も、地点ごとに違う。
どれも、止めた判断には理由がある。
どれも、無視できない事情だ。
(方向は決まったな)
私は文官を呼ぶ。
「関係者を全員集めるように。担当部署の長、現場監督、嘆願書提出者の代表。一人残らず」
文官が一瞬だけ目を瞬かせる。
「会議の目的は……?」
「優先順位の決定」
私は地図を閉じる。
「限られた予算と労働力で、最も多くの不満を減らす方法を決めたい」
――情ではなく、事実で。
資料は揃った。
あとは、机上ではなく、同じ場で話すだけだ。会議とは結論を出すための場所である。
根回しも、圧も、今は要らない。
……もっとも。
定時で終わるかどうかは、少し怪しくなってきたが。




