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ある午後のことだ。
中庭を一回りし、執務室へ戻る途中、回廊の角で声がぶつかり合っているのが聞こえた。
文官が二人。それぞれ、厚みの違う資料束を抱えている。
「だから、新しい方式を使うべきだと言っているだろう」
「危険すぎる。実績のある古い方法で十分だ」
足を止める。
「新方式なら、工事許可と資材申請を同時に処理できる」
「だが、それは帳簿を一本化するという話だろう? 不備が出たら、どこで止める」
「今は部署ごとに同じ内容を書いている。無駄だ」
「無駄でも、確認が取れている。それが安全だ」
どうやら、工事申請の処理方法についての議論らしい。
「何を揉めている」
声をかけると、二人は揃ってこちらを振り向いた。そして、露骨に嫌そうな顔をした。
王族に議論を聞かれた。それだけで、面倒事が増えると悟ったのだろう。
私は気にせず、言った。
「資料を見せてくれ」
差し出されたのは、
一方が「従来方式の申請手順」、もう一方が「新方式の処理案」だった。
古い方式では、申請書は人の手で回される。
現場で書かれた書類は、まず担当部署へ送られ、内容が帳簿に書き写される。次に会計へ回され、同じ内容が、また別の帳簿に記録される。最後に監査が確認し、さらに同じことを繰り返す。
どこか一つでも不備が見つかれば、書類は差し戻され、最初からやり直しだ。途中での改竄防止でもある。時間はかかるが、誰が確認したかは、書類を見ればすぐ分かる。
新しい方式は違う。
申請内容は一枚の主帳簿にまとめられ、各部署はそこに追記・確認するだけ。重複はなく、進捗も一目で分かる。
ただし――最初の設計を間違えれば、混乱する。
私は、しばらく無言で目を通した。
「新しい方がいいな」
二人の肩が、ぴくりと動いた。
「理由は単純だ。この国では、工事が増え続けている。だが、文官は増えていない」
主帳簿の図を指でなぞる。
「この方式なら、同じ確認を何度もしなくて済む。処理が早くなれば、現場も止まらない」
次に、古い方式を見る。
「こちらは、確かに安全だ。だが、人が増えなければ、遅れは必ず出る」
二人は、言葉を失っていた。
私は続ける。
「古い方が悪いとは言わない。だが、将来的には、新しい方が必要になる」
沈黙。回廊の空気が、妙に重くなる。
私は資料を返し、軽く手を振った。
「最終的に決めるのは、君たちだ。私は、意見を言っただけだ」
そして、少しだけ苦笑する。
「……口出ししすぎたな」
それだけ言って、私はその場を去った。
背後で、二人が顔を見合わせる気配がしたが、振り返らなかった。
執務室へ向かう足取りは、いつも通りだ。
文官二人は、第三王子の背中が見えなくなるまで黙っていた。
やがて、片方がぽつりと言う。
「……誰だ、王子が無能だって言ったのは」
「知らん。だが、少なくとも今日は違うな」
「一読しただけで、問題点と結論を同時に出した」
「しかも、感情論なしで、だ」
二人は歩き出す。石畳に足音が重なった。
「確かに、今の方式でも回ってはいる。だが、作業量は限界だ。人を増やさずに回すなら、いずれ破綻するかもな。改正は……必要かもしれん」
「わかって、くれたのか?」
「いや」
少し間を置いて、低い声。
「認めたくはない。ただ、やる価値があると思っただけだ」
「今まで、散々反対してたくせに」
「……忘れた」
二人は、いつの間にか歩調を揃えていた。
「時間を使いすぎたな」
「ああ」
「だが、やるべきことは決まった」
「行動だけだな」
そうして、表には出ない案件が、また一つ処理されていく。旧来の帳簿は整理され、新しい様式の書類が静かに差し替えられた。
そこに名前は残らない。
記されるのは、整えられた書類と、導き出された結果だけだ。
第三王子の評価は、知らぬ間に変わっていく。
だが本人は、それを知ることもなかった。
……新しいことを始めるには、勇気がいる。
時には技術、努力、金がいる。
失敗も、挫折も、避けられない。
だが、始めなかった者には、何も残らない。
それは、過去、私自身が、踏み出して知ったことだった。
そして挫折は、糧となり、踏み出した者だけが、次の景色を知ることになる。
私は、定時に席を立つ。
今日も平和だった、と。




