【4】一葉を語る午後
北川古書店に、一人の文学好きな女性・綾乃が訪れました。
彼女の登場は、雅人の未来に新たな波紋を生み出してゆきます。
午後五時ごろ、ドアが開いて若い女性が入ってきた。
『前沢さんだ』
注文の本は机の上に用意してある。
「前沢さん、お待ちしていました。『一葉日記』です。ご確認ください」
前沢綾乃さんは本をめくり、しばらく読んでいた。
「これ、いただきます。十九〇〇〇円でしたね」
「ありがとうございます」
レシートを渡した。
「北川さん、大学生ですか?」
「今度、四年生になります」
「私と同じですね」
急に親近感がわいた。
「何学部ですか?」
「文学部です」
「私も文学部です」
就職活動の話になった。
「私は出版社が希望です。本づくりに関わりたい。小説作りにも興味があって、両立できる会社を探しているんです」
「僕は、小説家を育てる出版社の仕事に就きたいと思っています」
「どうすればいいか迷いますね。主な会社の募集はもう終わっていますし」
「就活の情報があれば、教えてくれませんか?」
同年代の女性と就職について話すのは、雅人にとって初めてだった。
「情報交換しましょう。おいしいコーヒーとケーキを用意して待っています」
二人は文学論などについて語り合った。
「一葉、お好きなんですね?」
「苦労した経験が作品に反映されていて、強い女性ですよね」
「『一葉日記』は一葉文学の基本だと思っています。卒論のテーマにしたいんです」
「じゃあ、本郷菊坂は行きました?」
「まだです」
「菊坂を見ずに一葉は語れませんよ」
「本郷界隈、散策しませんか? 一葉が明治二十三年に本郷菊坂に移ってきた頃、近くには漱石、子規、鴎外、二葉亭四迷、坪内逍遥などの文豪が多く住んでいましたよ」
「ぜひ誘ってください」
雅人は古書店の所蔵本も説明した。初版本の多さに、綾乃さんも驚いていた。
五時三十分になり、和美さんが入ってきて挨拶した。
「あら、可愛いお嬢さんですね」
「和美さん、今日はどんな問題を持ってきたの?」
「今日はこれを持ってきたの」
「前沢さんは数学、得意ですか?」
「どんな問題ですか?」と綾乃が覗き込む。
「私はこの問題が得意なのよ」
そう言って綾乃はメモ用紙に書き始めた。
それを見て、和美は少し不機嫌になった。
「皆さんの邪魔になるから、今日は帰る」
そう言って帰って行った。
「和美さん、青春真っ盛りですね」
綾乃が微笑みながら、雅人を見つめた。
綾乃の訪問は、雅人の人生と北川古書店にまた一つ、柔らかな光を灯しました。
これから彼女がどのように関わっていくのか──。
物語は、静かに、しかし確かに動き始めています。