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短編

地味で結構です。婚約破棄された整頓令嬢は、騎士団の女神となる

作者: ゆうじ

王立学園の卒業記念パーティーは、若き貴族たちの熱気と未来への期待で満ち溢れていた。磨き上げられた大理石の床にシャンデリアの光が乱反射し、ワルツの甘い旋律が色とりどりのドレスを揺らす。


その華やかな喧騒から切り離されたテラスで、エリアーナ・フォン・ヴァインベルク公爵令嬢は、婚約者であるテオ・ルミナス第二王子と向き合っていた。


「エリアーナ。お前との婚約を、この場をもって破棄する!」


テオ王子の声は、パーティーの喧騒を突き抜け、周囲の注目を一斉に集めた。彼は陶酔したような表情で、自分の言葉に酔いしれていた。


「理由をお聞かせいただけますか?」


エリアーナはただ静かに、僅かに首を傾げた。その反応が王子の癇に障ったらしい。


「理由だと? お前はあまりにも整然としすぎているのだ! その寸分の狂いもない所作、常に塵一つなく片付いている部屋、お前の全てが私の芸術的な魂を窒息させる!」


王子は芝居がかった仕草で胸を押さえる。彼の隣では、可憐なロザリー・リリアン男爵令嬢が、心配そうに王子の腕に寄り添っていた。


「それに比べて、ロザリーはなんと情熱的か! 彼女の部屋はいつも嵐が過ぎ去ったように物が散乱し、紹介状や扇子を頻繁に失くしてしまう。その人間味あふれる混沌こそ、真の芸術だ! 彼女こそ、私の妃にふさわしい!」


常人には理解しがたい論理であった。周囲の貴族たちは呆気に取られ、ひそひそと囁きあう。エリアーナは、その異様な光景の中心で、ただ静かに完璧なカーテシーをした。


「承知いたしました。テオ殿下、ロザリー様、末永くお幸せに」


感情の欠片も見せないその返答に、テオ王子は侮辱されたかのように顔を歪めた。エリアーナが静かに背を向けたその時、会場の隅で、一人の男が息を呑んでいた。


王国騎士団の補給総監、カイルス・アイゼンハルト卿。誰もが王子の狂気に眉をひそめる中、彼の現実主義的な緑の瞳だけが、「完璧すぎる整理整頓…」という言葉に、神の啓示にも似た希望の光を宿していた。


婚約破棄だけでは、テオ王子の芸術的な魂は満たされなかったらしい。彼は国王にこう進言した。

「エリアーナの完璧主義を矯正するため、王国で最も混沌とした場所へ送るべきです!」


その「罰」としてエリアーナが送られることになったのは、カイルス卿が管轄する「開かずの間」――騎士団北部物資集積所だった。そこは数十年間、歴代の担当者が匙を投げた末に封鎖された、伝説的な魔窟である。それは誰の目にも、公爵令嬢に対する陰湿な嫌がらせであり、屈辱的な左遷に映った。


廷臣たちが同情的な視線を向ける中、カイルス卿は一人、厳粛な面持ちで進み出た。

「なんと不憫な…。しかし王命とあらば、このカイルスが責任をもって彼女をお預かりいたしましょう」

彼の心は、天からの救いの手に歓喜の雄叫びを上げていたが、その表情は完璧に隠されていた。


王都を発ち、北へ向かう馬車の中。エリアーナは黙して窓の外を眺めていた。カイルスが恐る恐る渡した積荷のリストに、彼女は初めて視線を落とした。

数分後、彼女は静かに顔を上げ、リストの羊皮紙を指でなぞる。

「カイルス卿。この配置では、馬車が揺れた際に積荷同士が干渉し、破損の危険がございます。また、第七項の薬品と第十五項の食料を隣接させるのは、汚染のリスクを考慮すると賢明ではございません。積載順序を再考すれば、あと三割は多く積めるかと」


カイルスが目を見張っていると、不意に馬車が大きく揺れた。衝撃で固定されていなかった木箱が床に落ち、中から医療品や書類が散乱する。

同行していた兵士が「しまった!」と声を上げるのを尻目に、エリアーナは静かに立ち上がった。彼女は散らばった品々を瞬く間に種類と用途で分類し、箱と箱の隙間には緩衝材代わりに丸めた布を詰め、振動でずれないように荷紐を巧みに操って固定していく。その一連の動きに一切の無駄がなく、まるで流麗な舞のようだった。

全ての荷物が完璧に再梱包された時、馬車の中は驚くほど静かで、そして広くなっていた。


カイルス卿は、目の前で起きた奇跡に言葉を失っていた。これは単なる令嬢の嗜みではない。神の領域に属する御業だ。

「…エリアーナ様」

彼は知らず、敬称を変えていた。彼女は振り向かない。その横顔は、これから対峙するであろう混沌の魔窟へと思いを馳せ、微かに紅潮しているように見えた。


北部物資集積所に到着した時、兵士たちの顔には絶望が浮かんでいた。扉を開けた瞬間、腐敗と埃の混じった空気がなだれ込み、目の前には天井まで届くガラクタの山がそびえ立っていた。錆びついた武具、カビの生えた革製品、用途不明の機械部品。それは人間の理性が見捨てた領域だった。


しかし、エリアーナはその惨状を前にして、初めて心の底から歓喜に打ち震えた。彼女の琥珀色の瞳が、獲物を見つけた狩人のようにきらきらと輝いたのだ。


「…お任せください、カイルス卿」


その日から、聖女の浄化が始まった。

地味な作業着に着替えた彼女は、まず空間を区画整理し、巨大なガラクタの山に挑んだ。その手にかかれば、埃をかぶった金属片は「修理可能な装備部品」に、古い羊皮紙の束は「貴重な戦術記録」に、色褪せた布地は「再利用可能な資材」へと瞬く間に分類されていく。

彼女の動きは音楽的ですらあった。音を立てず、淀みなく、全てがあるべき場所へと収まっていく。初めは遠巻きに見ていた兵士たちも、いつしかその神業に引き込まれ、自ら弟子入りを志願し始めた。エリアーナの的確な指示のもと、彼らは次第に効率的な作業方法を学び、集積所は見違えるように片付いていった。


一週間後。

混沌の魔窟は、整然とした巨大な機能的倉庫へと生まれ変わっていた。全ての物資には分類札がつけられ、完璧な台帳が作成された。

そして、その過程で、ガラクタの山の下から数十箱分の横領されていた金貨と、存在自体が忘れ去られていた古代の魔道具が「発見」されたのだ。


カイルス卿は、すぐさま王都へ詳細な報告書を送った。

「エリアーナ様の『矯正』の結果、国家予算の数年分に匹敵する国庫損失を回復。兵站の効率化により、騎士団の戦力は150%向上するものと見込まれます。これすべて、第二王子殿下のご慧眼のおかげと、心より感謝申し上げる次第です」

それは、礼節を尽くした、最も痛烈な復讐の狼煙だった。


報告書は王都に衝撃をもたらした。

時を同じくして、テオ王子とロザリーの宮廷での評価は地に落ちていた。「情熱」と称された彼らの生活は、単なる自堕落に他ならなかったからだ。重要な国事に関する書類を失くし、他国との謁見の約束を忘れ、私室は常に散らかり放題。その「芸術的」な混沌が国政に多大な混乱をもたらす頃には、彼らの人間的魅力を信じる者はいなくなっていた。


そこへカイルス卿からの報告が届いたのだ。王は激怒した。自らの愚かな息子が、国宝級の才能を持つ令嬢を、理不尽な理由で追放したのだから。


ほどなくしてカイルス卿は、王の命令で王都へ凱旋した。国王への謁見を終えた彼は、一人の女性を伴って再び玉座の前に進み出た。それは見違えるように自信に満ちた表情を浮かべた、エリアーナだった。

兵士たちに「女神」と崇められる彼女の存在は、もはや騎士団にとって不可欠となっていた。


カイルス卿は恭しく片膝をついた。

「陛下。エリアーナ様なしに、我が国の兵站はもはや成り立ちません。彼女はもはや公爵令嬢にあらず。我が騎士団の、そしてこの私の『守護女神』でございます。つきましては、生涯をかけて彼女の御側でお仕えする栄誉を、このカイルスにお与えください」


それは、紛れもない求婚だった。

エリアーナは驚いて隣の男を見上げた。カイルス卿は顔を上げ、紳士な緑の瞳で彼女を見つめ返すと、悪戯っぽく微笑んだ。


「エリアーナ様。もし私との結婚をお受けいただけるなら、王国の全ての倉庫、書庫、そして宝物庫の再編纂の全権を、貴女にお任せいたします」


それは世界中のどんな甘い言葉よりも、エリアーナの心を揺さぶるプロポーズだった。

彼女は頬を染め、そして、婚約破棄されて以来、初めて心の底からの笑みを浮かべた。


「喜んで、お受けいたしますわ」


整頓令嬢が本当の幸福と、生涯をかけて片付けるべき「仕事」を見つけた瞬間だった。

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― 新着の感想 ―
実家を断捨離中のわたくしにとっても女神となられる方ですわ。 分別の難しいものや捨て方に懊悩する日々を救って頂きたいわあ。 現金はほぼ発掘されることがないのは悪徳故でしょうか、金貨とは言いませんからせめ…
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