第2話 嘆き
深夜に玄関の戸が開く音で目を覚ました鈴音は妙な胸騒ぎを感じ、篤志の部屋へ向かうことにした。
「篤志、入るよ?」
鈴音がそっと音をたてないようドアを開けると、そこに篤志の姿はなかった。
色んなもので荒れ、冷たく薄暗い部屋の中で、机の上に置かれている一枚の紙が鈴音の目を引く。
白い背景に綴られた文字は、家族に当てての言葉であり、読み進めるたびに次第と鈴音の息が荒くなる。
「これって、遺書? なんでこんなものがここに……」
その声は震えていた。
眼前に広がる薄暗い思考に、時間はひそかに歩みを止め、冷たい血が全身を巡って汗が滲む。
切ない気持ちに目は潤み、視界がどんどん狭まっていく。
辛く苦しい内容に読むのを止めたくなるが、それでも勝手にその文字の繋がりを追い続けていた。
何処かへ消えてしまうのではないかという恐怖と焦りが、鈴音の鼓動をさらに早める。
そして自分への思いを綴った最後には、ありがとうと感謝の言葉が連なれていた。
それを見た途端、鈴音の堪えていた感情は溢れだし、ポロポロと大粒の涙が床を濡らしていく。
今生の別れを告げるような手紙に、鈴音は悲しみと共に小さな怒りを覚えていた。
※一人称視点(穂乃香)
「篤志……っ!」
私は息継ぎをするのを忘れて、夜に包み込まれた街を夢中で駆ける。
鈴音さんから篤志が居なくなったと電話で知らされ、私は手当たり次第に篤志が行きそうな場所を当たっていた。
その途中で、ふと過去の記憶が蘇る。
当時、小さい頃の私はオタクで引っ込み思案な子だった。
そのせいで周りと馴染めず、一人でいる事が多かった。
「そのマンガ、知ってるよ。面白いよね」
そんな私に優しく笑い掛けてくれたのは篤志だった。
初めてできた話し相手に、私はとても嬉しかった。
気付けば、いつも篤志の背中を追うようになっていた。
少しずつだけど、他の子とも話せるになり、友達を作ることも出来た。
それも全部、篤志のおかげ。あなたがいなかったらきっと、何も変わらずに今を迎えていただろう。
いつしか、篤志が他の女の子と仲良くしているのを見て、嫌だなって思うようになった。
そこで、ようやく私は篤志の事が好きなんだなって気付いた。
何処にでもあるようなものがここにしかなくて。どんなにくだらない話しでも、篤志と一緒なら楽しく感じた。
まだ話したいことだって山ほどある。
誰よりも近くにいたのに、その声は聴こえなくて。その痛みを気付けないままでいた。
痛みを分かち合う事さえ、あなたは許してくれなかった。
無意味だって、無駄だっていい。積み上げた日々が無惨に散っても、報いも無く、徒労に終わってもいい。
何にも出来ないのは……もう嫌なんだ。
今度は私があなたの力になりたい。何度でも手を差し伸べて、かつてあなたがそうしてくれたように。
例え不安定な自我があなたを嫌おうと、私が信じているから。
それを何よりも伝えたくて。
だから、迎えに来たの──
※三人称視点
陰鬱にくろずんだ海は、月明かりによってキラキラと白く輝きを放っていた。
ザーザーとさざ波の音だけが響く浜辺で、息を切らす穂乃香の目線には、確かに篤志の姿があった。
ホッと胸を撫で下ろす穂乃香だが、それと同時に今にでも死んでしまいそうな篤志の姿に、胸が押し潰されそうになる。
「風邪引いちゃうよ?」
穂乃香は篤志の隣に座ると、着ていた上着を貸す。
「穂乃香。……どうしてここに?」
「あなたが一人で心配だから」
その言葉に、篤志は面を食らった顔をする。
「あはは。心配しすぎだよ、子供じゃないんだから。俺は大丈夫だよ」
「大丈夫なんて嘘。ねえ、そうでしょ?」
穂乃香は篤志の手を包み込むと、そっと握って顔を近付ける。
「どうして何も言ってくれなかったの?」
その問いに、篤志は目を逸らすように下へと落とす。
「それは……穂乃香には迷惑を掛けたくなかったから──」
「迷惑だなんて一度も思ったことなんかない! 私の事を気に掛けてくれるのはいいけど、もっと自分の事も大切にしてよ! 何でもかんでも一人で抱え込んで、そんなの全然っ嬉しくない! 少しは頼ってよ、私のことっ……! 友達でしょ?」
涙で瞳を潤わせる穂乃香の声は、怒りで震えていた。
「話したらっ、話したら何か変わるのか?! この状況が解決するとでも? もう俺の事はいいから放って置いてくれ!」
そう声を荒げる篤志は、苦しそうに顔を歪めていた。
「残される私はどうなるの……。私が寂しい、それだけじゃ理由にならない?」
今にも泣きそうな顔で穂乃香は言った。
「篤志がいない生活なんて嫌だよそんなのっ、絶対に嫌! あなたの代わりなんていない。ずっと傍にいてよ、お願いだから私を一人にしないで!」
その切実な言葉に、篤志は目を大きくして口を半開きにする。
「死にたくなったら逃げてもいい。恥ずかしいことなんかじゃない。せっかくの命なんだから、大事にしてよ!」
涙がぐっと込み上げて声を詰まらせる穂乃香。
「弱音を吐いたっていい。我慢だってしなくていい。心配を掛けたくないなんて悲しいこと言わないで! どうしようもなく辛い時は、助けてって言ってもいいんだよ!」
篤志の頬に両手を当てる穂乃香の頬を、ぬるい涙が伝う。
胸の奥に響く声が、篤志のうつむいてばかりな薄暗い視界の霧を晴らし、ハッキリと穂乃香の顔を映し出す。
その曇りない眼差しを遮るものは何もなかった。
「──けて、助けてくれっ……!」
気付けば、篤志の目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
我慢していた分だけ、涙が溢れて止まらなかった。
「ゆっくりでいい、辛いのも苦しいのも吐き出して。私が全部受け止めるから」
優しく曲線を描く眉で、穂乃香は微笑みを見せた。
篤志は心の奥底にしまい込んでいた思いをさらけ出し、諭されるがまま気が済むまで沢山泣き続けた。
いつしかその涙は悲しみから喜びへと変わり、篤志は笑顔を浮かべていた。
「穂乃香。ごめん、それとありがとう」
「うんっ……!」
「それと……ちゃんと、笑えてるかな…………?」
唇を横に広げるようにして笑う篤志に、目を三日月のようにして穂乃香は頷いた。
「帰ろう。お家に」