死亡確定のまんまる令嬢なので国外逃亡を図ったら、最強悪役お義兄様に溺愛されて逃げられない!
「……わかってるよね? デルフィニアの座るところはここ」
「で、でもお義兄様、わたし重いですし……わわっ!」
何とかそこに座らないために言い訳を口にしたものの、やっぱり無視されて強引に、でも怪我をしないようにふわりと座らされる。
──どこって、お義兄様の膝の上に。
こうなってしまうと腰にがっしりと腕を回されて逃げられなくなるのは経験済み。いくら文句を言ってもそのまま書類仕事を始めるのもいつも通り。お世辞にも瘦せているとは言えないデルフィニアの重量など気にも留めず、引き締まった筋肉の存在を服越しに実感する。
その上、『氷薔薇の貴公子』とご令嬢たちに噂されるその尊顔を首筋に寄せてくるのだから、デルフィニアとしてはたまったものではない。
(……おかしい、こんなはずじゃなかったのに……!)
うっすらと冷や汗をかきつつも、表情には出さないようにっこりと。
内心で大きなため息を溢しつつ、こんな事態を招いた半年前のことを思い返す。
──きっかけは高熱。
魘されながら見た夢は前世、OLとして働いていたこと。
そして今の世界は乙女ゲームの中だ、ということだった。
『緋桜と氷薔薇のクセプシハオ』は泣く子も黙る鬱ゲーとして名高く、その最たる理由が裏社会を牛耳り、国家の闇を手足のように操るパラクセノス公爵家の当主──今わたしが座っている膝の持ち主、リュサンドロス=パラクセノスのせいだった。
どのルートに進んでも主人公に執着し、恋仲になりそうな男性を紙切れよりも簡単に闇に葬るのがこの男。王国騎士団長を務めながら魔法の腕にも秀でていて、地位も権力も敵うものなどなく、表向きには非の打ち所のない青年。
その実、ほぼ全てのバッドエンドで主犯、悪事や犯罪の話が出れば全ての糸を引いていると言っても過言ではない、ゲーム内最強最悪の悪役なのである。
そんな男の義理の妹── デルフィニアになっているのだと気が付いて、高熱よりも先に驚きのあまり心臓が止まるかと思ったほどだ。
デルフィニアは不義の子で、5歳までは孤児院で過ごしていた。孤独と貧困の生活から急に公爵家に迎え入れられたのだからお察しの通り、欲望のままに振るまった。調子に乗って好き放題食べ、金を浪費した結果、立派な我儘ボディで我儘レディの出来上がりだ。
しかも気がついたときには、デルフィニアが断罪される日まで1年も時間がなかった。
『このままでは間に合わない……お義兄様が公爵家を継いでしまう……!』
リュサンドロス=パラクセノスが実の父を殺害して、名実共に公爵家を継いだ日に、デルフィニアは死を言い渡される。理由なんてない。リュサンドロスの残虐性をユーザーに見せるためだけの駒で、無駄な犠牲。意味をなさないただの一場面。
具体的に殺される理由なんてないのだから、対策のしようがない。
『……逃げよう、できるだけ遠く。可能なら国外に……!』
いくら最強悪役様だって、他国に行けばその国の法律に従うしかない。難民申請をして他国に保護を求めれば、裏社会の伝手があったとしても殺しにくくなるはずだ。……多分! そうでなければ困る!
そう決めてから始めたのはまずダイエットだった。
立てばもちもち座ればぽよん、歩く姿はぶよんぶよんなこの体では、いざというときに逃げられない。俊敏さを獲得するために毎朝筋トレ・ジョギング・食生活の改善。
裕福さに慣れきったわたしにはキツかったし、急に何やってんの? と言いたげなメイドの視線は痛かったけど3ヶ月を過ぎたあたりからはしっかりと効果が感じられた。
次いで手を付けたのが魔法の習得だ。
貴族社会における身分の高さには魔力の高さに比例する。
半分とはいえ、パラクセノス公爵家の血が流れているのだ。気合いがあれば魔法のひとつやふたつ、と自主練に励んだ結果、目的だった闇魔法を習得できた。
闇魔法は気配の遮断や記憶の操作、認識の阻害など、文字通り闇に潜むために必須の魔法が多く、これから訪れる国外逃亡生活には欠かせない。
元々、貴族の教養として四大属性の中級魔法までは使えたのだが、四大属性から派生した闇魔法を会得するのには生まれ持った才能が必要になる。ゲーム内でお義兄様が使っていたのだからもしかして、と思っていたが本当に使えるようになるとは。
『これがあれば……!』
闇魔法の中には影を操るものや闇の中に物を収納するものが存在する。それらを応用すれば、影から影へ空間移動することができるのでは、と仮説を立てたデルフィニアは、早速試してみることにした。
己の力量と体積を考えるのであればもう少し小さなもので実験をしてから、というのがセオリーだが、悠長なことを言える身分でもない。
よっしゃ、これが成功すれば明日にでも国外逃亡だー! と浮足立った状態で魔法を使ったものだからあとはお察しの通り。……そう、盛大に失敗したのだ。
『う、動けないんですけど……!?』
ジョギングの最中に見つけた、ひと気のない裏門付近の城壁。薄暗くて警備も甘くて、実験には最適の場所だ。
ひとまずそこに闇魔法を展開して通り抜けられるように空間に繋げた。そこまではよかったが、デルフィニアが上半身を押し込んだところで、むに、とお腹周りに違和感。何事かと見れば、展開した穴が小さく、デルフィニアの豊満なぷにぷにおなかが境目でつっかえていた。
これはまずいと体を戻そうとしたが、こっちはこっちで無理矢理通ったものだからびくともしない。一番細いウェストにあたる部分──もっとも、デルフィニアの体型はまだドラム缶のため、推定ウェストである──が、ぴったりフィット。押しても引いても、自分の力では動けなくなってしまった。
逃亡なんてバレたらお義兄様に告げ口されてしまうので誰もいない時間を見計らったし、我が儘放題のデルフィニアと親しい友人も使用人もいない。そもそも見つけてもらったところで助けてもらえるかどうかもあやしい。
さぁっと血の気が引いたところへ、草を踏む足音がした。
『……! すみません、もしよければ足を引っ張ってもらえませんか……!』
救いの手だ、どうやら人が通りかかったらしい。
使用人にバレたくらいならまだマシだ。金貨でも握らせて口止めすればいい。お義兄様に目論見がバレる前に戻らなければ!
四の五の言ってはいられない。
みっともなく足をばたつかせて『お礼ならなんでも好きなものを差し上げますので!』と叫んでいたのが届いたらしい。次の瞬間には上半身がすぽんと抜けて、安心したのも束の間。本当に束の間。
お礼をしようと見上げた先にあったのは、今この場で最も見たくない──お義兄様の顔。
『……あ、あの、お義兄様、ちがうんです、これはその、ちょっと遊びで……』
『……遊びで闇魔法を?』
『いえ、その! 闇魔法を応用して空間移動ができれば、その……お、お義兄様の役に立つかもしれないと思って……! け、決して逃げ出そうとかそういう不埒なことを考えていたわけではなくて、純粋な好奇心と知的興味がありまして……ぅわっ!?』
なんとかその場を誤魔化そうとそれらしい理由を並べていたら、デルフィニアの視界がぐんと高くなる。何の予備動作もなくお義兄様に抱え上げられていた。それこそ、米俵のように。
ああ、もうだめなんだ、このまま地下牢にでも投げ入れられてたった15年の人生に終わりを告げることになるんだ……!
せめて一瞬で殺してもらえるよう無駄な抵抗もせず、大人しく運び込まれた先はお義兄様の部屋だった。
『……あの?』
『その空間移動の理論は持論? 何か参考文献は?』
『えっと……? その、既存魔法の理論を流用して、構造の組み換えと再構築をしただけですから、持論とは言い難いです……で、でも実際に試したら、わたしの体以上の空間構築は可能でした、もう少し時間をいただければお義兄様のお役に……!』
立てるはず、と続けるはずの言葉が喉の奥に絡まる。
だって、目の前で、あのお義兄様が声を殺して笑っているのだから。
主人公以外には心を許さず、家族として過ごした10年の間に一度たりとも笑ったところを見たことのない、あのお義兄様が。
ゲームのスチルで、数多の血に塗れているときしか笑っている瞬間がないと話題になったあのお義兄様が。
何とかごねて、殺されるのだけは回避しようとしていた矢先のことでぽかんと口は開いたまま。
その間にも『実験もせずに自分の体を入れるとは』『闇の中に生物を入れようだなんて正気の沙汰じゃない』と声を震わせている。
『……気が変わった』
『な、なんですか……!』
『これからは僕の可愛い義妹を大事にしようと思って』
『そ、それは……』
良いことなんだろうか?
でも少なくとも、この瞬間に首と胴体がさようならする事にはならなかったらしい。
どうやら最悪の事態を避けられたらしいと、そのときは安堵したものだったが。
「……お義兄様、」
「お腹でも空いた? だったら何か甘いものでも持ってこさせようか」
「いえ、その……!」
「それとも何か飲む? 確か隣国から直輸入した珍しい紅茶があったから……」
「お、お義兄様の手を煩わせるわけにはいきません! わたしが自分でメイドに頼んできます……!」
「デルフィニア、君だって立派な公爵家の人間だ。そんな給仕のために自ら動くのは……」
「わたしがお義兄様のために紅茶を選んできますから、一緒に休憩にしましょう……!」
かれこれ2時間は膝の上に座りっぱなしのデルフィニア。
ただでさえ自身の体重で負担をかけているというのに、不意な言動がいつお義兄様の怒りに触れるかわからない。身じろぎするもの慎重になっているというのに、お義兄様の方はデルフィニアの髪を指に絡ませてみたりおなかの肉をつまんでみたり、とよくわからない行動するものだから心臓に悪い。もちろん、死に直結する方で。
今まで全く関心がなかったデルフィニアの、どこに興味を持ったのかもいまいちよくわかっていないのだ。
通常では考えられない理由で突如『やっぱり死んでもらおうか』状態になるかもしれない。
だから可能な限り距離を置いておきたいのだが、何故か気に入られてしまった以上、あまり拒否しすぎるのもそれはそれで機嫌を損ねてしまいそうで怖い。本当に難しい、この最強悪役お義兄様は!
そんなに義妹が言うのなら、と何とか解放してもらってほっと一息。
自由を満喫すべく、できるだけ厨房で時間を稼ごうと目論んでいるデルフィニアの元へ駆け寄ってくるのはパラクセノス公爵家の執事。いつになく焦った様子を見て、多分お義兄様に急ぎの用事があるのだろうと道を開けてやると、目の前でぴたりと立ち止まる。
「……ん? わたしに用事?」
「……その通りにございます。こちらを……!」
差し出されたのは一目で最高級とわかる封筒。
押された封蝋には雄々しい獅子と3本の剣の紋様。王家にしか使用を許されない、真紅の蜜蝋。
ひゅっと息を呑み、慌てて添えられたペーパーナイフで封を切る。
こんなタイミングで、しかもわたし宛に送られてくる封書に嫌な予感が脳裏を過ぎる。
逃げることを最優先にするあまり後回しにしてきたが、現時点ではデルフィニアの婚約者は第一王子。
ゲームの時間軸では既にデルフィニアがお義兄様の手によって殺された後のため、第一王子の婚約者は自動的に空席となっているが、今はまだデルフィニアが生きている。
しかも、散々我儘放題の風評をそのままにしていたのだから、何かしらお咎めがあるのかもしれない。命に直結する命令でないことを祈りつつ文章を目で追う。
「『可及的速やかに、王宮へ馳せ参じること』……? 具体的な用件はわからないけど、こういう書き方は『今すぐ来い』って言われてるってことだよね……急いで支度しないと……!」
「それがですね、お嬢様……あの、既に……」
「……既に?」
執事の背後から覗くのは、銀の鎧と禁色の真紅を纏った屈強な騎士たち。
ひえ、と後ずさるが、抵抗する暇もなく。
あれよあれよという間に馬車に詰め込まれ、気がつけば王宮の謁見の間へと引きずり出されていた。腕は後ろで縛られ、両脇には厳つい騎士の方々。
ここから逃げようなんて気も起きず、王の御前で大人しく首を垂れる。
「……ここに呼ばれた理由に心当たりはあるか?」
「……いえ、わたしには高貴な方のお考えなど見当もつきませんが……」
「ほう、言い逃れられるとでも?」
頭上からは侮蔑を含んだ声が聞こえるが、前世を思い出してからのわたしには本当に思い当たる節はない。
これまでの素行に問題があったとはいえ、まだ何にもしてないはずですけど……!
「……他国から不審なものを密輸入したという報告が上がっている」
「それは……」
めぼしいダイエット食品がなくて、大豆やこんにゃくなどの抵カロリー食材を東国から取り寄せたことなら……?
「それに、近頃不審な人物をひっきりなしに邸宅へ召集していると聞くが」
確かに魔法を教わるために、お義兄様や王宮の息のかかってなくて魔法に秀でた人を呼んだりはしたけど……それが発端で魔法研究会のような催しにはなっていたけど……?
「加えて、婚約者である第一王子を差し置いて邸宅に篭もり、別の男を侍らせていたとも」
第一王子の召集──元々義務的に行なっていたようで、王子側は渋々参加していたはず──をお断りしたのはダイエットや逃亡準備に忙しかったからで、侍らせていた疑惑はおそらくお義兄様では……?
「……恐れ多いですが陛下、何か誤解されているのでは……?」
「ここまで来ると我々としても放っておくわけにもいかない」
「陛下、ですから……」
「デルフィニア=パラクセノスから貴族身分を剥奪し、国外追放とする」
「…………ぇえ!?」
一瞬思考が止まったけど、この『……ぇえ!?』は感謝と期待に満ちた『……ぇえ!?』である。
公的に、しかもゲーム内時間が始まる前に国外追放されるのなら、こんなにうれしいことはない。
なぜって、ゲームが始まってしまえばお義兄様は主人公に心を射抜かれてこれまで以上に犯罪行為に手を染めることになり、パラクセノス公爵家はその罪の数々を糾弾される運命にあるからだ。
パラクセノス公爵家と縁を切れる上、国外追放してもらえるなんて最高のルートではないだろうか? いや、そうに違いない!
「沙汰は追って通達する。それまでは地下牢に……」
「いえ、陛下。こんな貴族でもない、身分を剥奪された女を牢に繋いでおく必要はありません。今すぐ、国外へ追放するべきです……!」
「……き、君は何を言って……」
「パラクセノス公爵家に情報が渡れば、そのような失態を公爵家が犯すわけがないと抗議される可能性があります。公爵家の国家への貢献度を鑑みれば、こんな些細なことで公爵家と諍いを起こすのは決して賢明とは言えません。それよりも先に、この女を、可能な限り遠くに捨て置くべきです……!」
⬜︎◼️⬜︎
「……というわけで、わたしは今、隣国の小さな劇団に所属して国内を行脚してるってわけ」
「おーおー、よくできた作り話だったぜ! だったらあれか? こんな小さな劇団に売り込みにきたのも、拠点が移動するから見つかりにくいって寸法か?」
「さっすがキリル! 察しがいい〜!」
「まあ、夢は誰しも見るもんだからな?」
「……なにその、憐れむような目は。多少脚色は加えたけど、概ね事実なんだけど」
「はいはい、戯言は寝てからな〜」
パンを食べ終えたキリルは、ひらりと椅子代わりの木箱から飛び降りると「その調子で次の脚本も頼むぞ〜」と去っていく。残されたわたしは、まあ、信じて貰えない方が助かるんだけど、と残ったパンを口に含む。
お義兄様──今となってはその名前を呼ぶことも許されない身分だけど──に見つかる前に国外追放されたわたしは、名前を『フィニア』と変え、もらった僅かばかりの金銭と身につけていた服飾品を元手に、国境を追加でふたつ超えた。
それなりに過酷な旅で、ふくよかだった身体もすっかり標準体型に。元のデルフィニアを知っている人が見ても、別人だと思ってくれるだろう。
元いた国とは全く違う国で、今は旅芸人のようなものをしている。
理由は簡単で、身分の保証がなくても団長が許してくれたこと。そして、さっきも言った通り全国を回って巡業しているので、居場所が割れにくいということだ。
それに、この仕事は結構わたしに合っていた。
闇魔法は劇の照明代わりに演出に使えるし、四大魔法も中級程度が使えれば生活にも困らない。脚本を書くのも楽しいし、周りの人たちも親切だ。
「……もしかして、ここがわたしの生きる場所なのかも」
「おーいフィニア! 団長が次の公演について話があるってよー!」
「はーい、今いくー!」
パンを口に押し込んで、水で押し流す。
豪華な服も食事もないけれど、毎日忙しくて充実感がある。命の危機もなく、周囲に気を張り詰める必要もない。
「うーん、やっぱり身の丈にあった生活が一番!」
急かすようなキリルの声がする方へ、ぱたぱたと駆けていく。
──これは、お義兄様に見つかるまでのささやかな時間でしかなかったのだけど、それはまた別のお話。