僕の世界は揺らぎが多い 後編
後編です。
これだけ大勢が、銘々に鼻水やら涙を垂れ流しこびりつかせているのに、その場は恐ろしく静かだった。
大家さんが、僕に回ってきた鉢の故事由来をどれだけ明確に理路整然と説明しても、ハンカチ落しではないのだから、はいそうですか、と引き受けられるような話ではない。
まだ、何の説明もなく理由すらなく、自衛隊の駐屯地に不審者として殴り込めと言われた方が気が楽である。
「皆さんに出来なかった事がボクに出来る訳ないでしょう?」
「ま、話は年の近いモン同士の方が合いやすいって言うし」
「5歳と21歳は近いんでしょうか?」
既に方法論よりも目的を果たす事だけが目的になってるような状態だ。致し方なしとはいえ、はっきり言って避けて通りたい。。。。ふと、僕は適任者を思いついた。
「大家さんは行かないんですか?大家さんなら人生経験豊富だし、僕みたいな若造が行くよりいいんじゃないですか?」
「死んじまうよ」
大家さんは顔色一つ替えずににこりと微笑む。
「え?」
大家さんは上品に微笑みながら動かない。
「アタシにそんな事言わせるつもりかい?彩ちゃんの顔見た瞬間に心臓マヒで死んじまうよ。葬式2つ出すつもりかい」
僕は驚愕を通り越して冷や汗が出て来きた。
「都さん!!」
僕が叫ぶのと同時に都さんが叫ぶ。
「来年就職よね!!大企業に勤めてる友達紹介してあげるわ!!」
情けない事に僕は一瞬声に詰まった。
このイケズ後家は、これでも一橋大学卒の才媛で、その同窓生と言えば世界の大企業に勤めているはずだ。なんて卑怯な女なんだ。苦学生を就職の口利きで黙らせようなんて。
「ヒキョーモノ!!嫁に行けずにトチョーに人生捧げて平成の将門と呼ばれるがいいわ!!」
都さんは自分が行きたくないばかりに人の弱みに付け込んで来た。
なんてひどい女だ、こんな女一生仕事してりゃいいんだ。
僕は生まれて初めて人を呪った。そして、この年で初めて道端等で大の字になってだだをこねる子供の気持ちがわかったような気がする。出来るものなら今ここで大の字になりたい。
「おや、寿命が延びるかもよ?」
大家さんが、うつむいていた僕に声をかけた。
窓の外を最後の砦、堂島さんが通っていった。僕は脱兎のごとく堂島さんを呼びに走った。
堂島さんは大阪から単身赴任で東京に来ている。カイシャがシブチンでっさかいなぁ。と謎の言語を繰り出しながら越して来た。
「どーじーまーさーん!!」
僕は最後の砦にしがみつかんばかりに飛びついた。
驚く堂島さんを無理矢理ボロ家へ引っ張って行き事情を話した。
「そりゃエラい事やなぁ。橋田さん儚げなべっぴんさんやったのに惜しい事を」
「惜しい惜しくネェは別の話だ。そんな事言ってっと大阪のカカァにどやされっぜ。」
「そうでんなぁ、でも、そんな話警察に任せたらよろしいのちゃいますん?」
堂島さんの態度は正しい。
誰が喜んで地雷とわかってる物を踏みたがる物か、出来れば公共機関にまかせたい。
「警察は葬式を出しちゃくれないし、後は民生委員に任せるんだとさ。いきなり知らない人が母親の死を知らせに来ちゃ彩ちゃんも気の毒だろ?身寄りがないならないで近所のよしみで葬式くらい出してやらないとねぇ。」
堂島さんは、頭をボリボリかきながら渋い顔をした。
「葬式出すぅ。ゆうてもたんでんなぁ。」
「大家と言えばナンとやらさ。古くさいけど江戸っ子はこの唐変木だけじゃないってことよ」
大家さんは、月島さんを見てへへンと笑う。
堂島さんは、面倒くさそうにどっこいしょと立ち上がり玄関へ向かった。
「行ってきまっさ。袖すり合うもナンとやら、大家さんが江戸っ子の心意気ならわしは人生浪速節ですわ。」
出がけに小さくホーッとため息をつくと、行きたくないオーラを体中から出して堂島さんは出て行った。
「アキちゃん、俺、埼玉の馬鹿息子ントケェ行かぁ。」
堂島さんがいなくなると、いきなり月島さんがそういい出した。
「御府内出ると死ぬんじゃなかったのかい?」
大家さんは、突然の展開に驚いているようなのだがあまり顔色が変わらない。月島さんは月島さんで畳の目しか見ていない。
「奴ンとかぁ郊外だから家がデケエのよ。孫が男ばっかりで、久仁子さんがよぉ、前に野郎ばかりだと家の中が殺風景でイケねぇってもらしててよ。そんなら俺が彩坊連れてっても迷惑にゃぁならねぇんじゃねーかと思ってよ。」
久仁子さんというのは嫁だろう。
話を聞いていた大家さんは小さくヨッコイショと言いながら座り直し、それよりもよく響く小さな声で囁いた。でも、その囁きは東京中に響いたのではないだろうか、と思うくらいよく聞こえた。
「およしよ」
そのまま月島さんは黙ってうつむた。
僕も黙ってうつむいた、それしか出来る事がないような気がしたからだ。
都さん達は、静かに泣いていた。
しばらくして、小さくしゃくり上げる声が近づいて来るので僕たちは気が重くなった。
彩ちゃんが真実を知ったのだろうと推測したからだ。散髪屋のおばさんや茜さんはその声を聞いて、また、泣いていた。
そのしゃくり上げる声が玄関先まで来た時、月島さんがたまらなくなったのか、すごい勢いで玄関に飛びつき鼻水をすすりながら引き戸をを乱暴に開けた。
「彩坊!!おいちゃんがついてるから泣くんじゃねえ!!」
明らかに涙声で叫んでいる月島さんの目に映ったのは、大柄な身体をしょげなく立たせ少女のようにさめざめと泣く堂島さんだった。
堂島さんは、こわばって動く事が出来ない月島さんを器用に避けて、玄関の上がり間口に突っ伏して泣き始めた。
「できまへーん!わしにはでけしまへん!!こんな事するくらいならレインボーブリッジから飛び込め言われた方が、なんぼもましですわぁああああ!!!」
堂島さんは、入って来てからしばらくこの調子で手のつけようがなかったのだが、大家さんと月島さんが中に上がらせ水を飲ませてようやく落ち着いた。
確かに、レインボーブリッジの方が確実にましである。僕も鉢を冠って自衛隊に殴り込んで済むのなら、その方がよほどましだと思っている。
「いやや、いやや思いながら部屋の前までいったんですわ。親父がよう言うてたんですけど、いやや、いやや思とったら、相手にも伝わって上手い事行くもんも行かんようになってしまうさかい気ぃつけやぁ。て、それ思い出したんで、ドアの前で深呼吸しとったんですわ。そしたら中から彩ちゃんが『堂島のおじちゃん?』って声かけやるんですわ。」
アパートはボロい。
しつこいがこれ以上ないというくらいボロい。大人が廊下を歩けばアパート全体が揺れる。
揺れ方は歩き方で多少変わるので、慣れてくると住民なら誰が通ったかがわかるという訳だ。おかげで、新聞の勧誘とかが来てもドアを開けずに済んでしまう。けがの功名とでもう言うべき効果だ。
「で、ドア開けてもろて、でも、いきなりお母はん死んでもうたからおっちゃんと迎えに行こか。なんて言えまへんやろ?」
察しはつくがどうして、皆一様に同じ泥沼無限ループに嬉々として足を突っ込むのだろうか?
でも、それは僕らが大人である証拠のような物なんだろうか?
僕が自問自答してる間にも堂島さんの告白は続いていた。
「なんか話のきっかけをと思とったら、机の上に折り紙があるんですわ。彩ちゃんが折ったんか?ゆーたらそうや、言うんで見してもろたんですわ。カニとかインコとか、取り留めのないもんばっかりなんやけど一生懸命説明してくれてなぁ。」
堂島さんは、ここでもう既に目頭をハンカチで押さえている。
「そしたら、彩ちゃんが、なんや吹田におる娘とかぶさって見えるんですわ。ウチの娘はもう高校生で親父が汚いもんに見える年頃ですわ。こっちもわかってても、つい怒鳴ったり手ぇあげたりで、なんでこんなかわいげのないのんに育ってもうたんやろ、ワシが悪いんやろか。なんて考えんのしょっちゅうですわ。彩ちゃん見とったら、娘もこんな頃があったのに思えて泣けて来て。今ですら子供は心配やのに、こんな小さな子供残したら死んでも死に切れんわ、思たら、橋田さんはさぞ無念なこっちゃなぁと。。。。。」
堂島さんのハンカチは、ここまでの話で絞れそうなくらいべちゃべちゃになっている。人生が長いと考えなければいけない事が多くなるのだと初めて実感した。
「それ思い出したら、もう、あきまへんわ。わし、泣かんと、さいなら言うのが精一杯で。。。。こんな、こんな殺生な話おまへんわ」
堂島さんは、また突っ伏して泣き始めた。
嘆き悲しむ堂島さんを見ながら、僕は痛いほどの視線を感じていた。僕の目の前に、重い重い鉢が回って来た。鉢の中には、さらに重い一言が入っている。劣化ウランよりも重く、僕の今までの人生よりも重い一言だ。
「二人で行こう。」
僕が黙ってうつむいていると、都さんが声をかけてきた。
「いっしょに彩ちゃん泣かせに行こう。まだ、私らの方が人生の日が浅いからなんとか絞り出せるよ。私一人じゃ行けないからさぁ。一緒に行こう。」
都さんは、情けない顔で笑い手を差し出した。
僕は黙って都さんの手を取った、他にどんな選択肢あるのだろう。ここは、黙って都さんについて行くしかない。僕と都さんは、顔をこわばらせ手をつなぎ、ボロアパートへの近くて長い長い道を歩き始めた。
いつの間にか浮かんだ宵闇の月が眩しい、その光が昼間青く見えた柳を鈍く銀色に光らせていた。
「ヘンゼルとグレーテルみたいだ。。。」
僕はぼそりとつぶやくが、都さんは何も言わなかった。
いつになくボロアパートが巨大に見えた。
いつもの入り口も、いつもの廊下も、入っていくのを躊躇する位大きく見えた。
都さんと僕は、無言で手を叩き合うと気合いを入れ直して中へと進んだ。
ボロアパートのおかげで、僕らはノックもする事なしに彩ちゃんに部屋の中に招き入れられた。
都さんを見た彩ちゃんはひとしきり、今日のテレビ観戦の話をしている。そして、僕らはものの見事に泥沼無限ループに足をつっこんだ。
あ、都お姉ちゃんと考太郎お兄ちゃんだ。などと満面の笑みで迎えられた後に、いきなりお母さん死にましたよ。お葬式しましょうね。なんて、どこの無慈悲な人間が言えるのだろう。
都さんなんか青ざめた顔で、無理矢理笑いながら一緒に折り紙を折っている。こんな顔を見られた日には嫁になんか行けたもんじゃない、ザマーミロ。そう思いながらも僕の顔もろくなもんじゃない、さっきから胃がキリキリと痛む。
「お母さん遅いな。」
彩ちゃんがボソリとつぶやく。
僕と都さんは心臓をわしづかみにされたように息が荒くなった。
「彩ちゃん。お腹すいちゃった?」
都さんの声が裏返っている。なにか言わなきゃいけないのはわかるが、どんどん核心から逃げてるような気がする。
「大丈夫。お母さんもうすぐ帰ってくるから、今日はねオムライスしてくれるって約束したの。」
「オムライスかぁ!いいなぁ!」
僕の声も裏返って、しかも必要以上にでかい声が出る。
都さんにいたっては、涙を押さえるのが精一杯のようで折り紙を押さえつけたまま肩が震えている。今の僕らはミクロの世界ですら役に立たない。
「そうだ、見て見てぇ。2階のおじちゃんが踏み台作ってくれたの、取っ手がついてるんだよ。」
彩ちゃんは、流しの方に踏み台を取りに行った。
「都さん、埒があきませんよ。心を鬼にしなきゃ」
彩ちゃんが席を外した隙に、僕は小声で都さんに声をかけた。
「こんなことなら上司の赤ちゃん褒めてやるんだったわ。健康そうですね、なんてはぐらかさずに一言、嘘でもかわいいと言ってやればよかった。私、今、罰が当たってるのよ。」
都さんはフルフルと震えながら、唇が紫色に変わっていっていた。
取り乱している、しかも静かに穏やかに取り乱している。
今、自分が置かれてる状況は、自分に責任がある事なんだ。そう考える事で、冷静さを保とうとしている。でも、失敗もいい所だ。今、都さんに取り乱されたら話どころじゃなくなる。
それに、僕一人じゃ伝え切る自信なんかない。
「み、都さん、落ち着いて!僕一人じゃナンにも出来ない。心を鬼にしなくてもいいから、平常心を保って下さいよ。」
声をかけたその瞬間、都さんに鬼のような目で睨まれた。心の鬼が僕に矛先を向けたらしい。
「ヘイジョーシーン〜?不法入国の外人かしら!?こんな状況で、素面で落ち着いてられるとでも思ってんのぉ!ここで落ち着いてられるってなぁ!どんな夜叉よ!」
こんな状態では、嫁どころか出世も危うい!それはともかく目的自体が果たせない。
とりあえず都さんを落ち着かさねばならない。
僕は自分がこれほど臆病で小心者だと初めて知った。今日は人生のファーストインパクトだらけだ。
「お母さんだ!」
この声が一瞬遅ければ、僕は都さんに組みしかれていたに違いない。
僕と都さんは彩ちゃんを見た。
「彩ちゃん」
彩ちゃんは、僕らの方を振り向こうとせずドアへと向かう。そして、僕らにも廊下からの振動が伝わった。少し控えめな、キシッキィキシッキィと言う音が、どんどんとこちらへ近づいてくる。
「橋田さんだ。。。」
「嘘でしょ。だって」
廊下を音だけで通り過ぎるのが彩ちゃん。揺れも音も軽いのが大家さん。揺れが軽くて音が大きいのが茜さん。何故か音がトントンと軽いのに駆け込むように揺れるのが都さん。揺れが軽くテンポよく重たい音がするのが月島さん。船をこぐように揺れも音もゆっくりなのが散髪屋夫妻。短い間隔で揺れドスンドスンと擬音が形になるのが堂島さん。それのやや軽いのが僕。
橋田さんは、人柄のごとく音までも遠慮がちに静かに響き、揺れが柔らかい。その橋田さんのリズムが、今廊下から伝わって来てる。
「茜さんか大家さん。。。」
「アンタ、確かめて来なさいよ。ドア開けたら誰かわかるじゃない。」
「え、僕が?」
確認する間もなくズイッとドア側に押し出された。その間も揺れと音はこっちに向かって来ている。
この揺れとリズムは橋田さん以外にあり得ない、彩ちゃんはもちろん都さんや僕にもわかっていた。
心配で心配で死んでも死に切れない・・、何故か無機質にこの言葉が頭に浮かんだ。
都さんも同じだったようで、僕と都さんは顔を見合わせた。
ごめんなさい橋田さん、僕ら生きてる人間はこんなに無力で儚く不甲斐ない。
どんな状況でも漠然とした不安や心配に駆られている。ほんのささやかな安心も分かち合う事が出来ていない。心配は当然だろう。僕は幽霊にすら心配される未熟者だ。
そうこうする間に、彩ちゃんが満面の笑みでドアノブに手をかけていた。
「だめよ彩ちゃん!!」
「だめだ!」
都さんと僕は同時に叫ぶ。彩ちゃんに近づこうとするが、何故か身体がこわばる。ベコン、ドアが開く音がした。
「おかえり〜」
彩ちゃんがさらににこやかに笑う。ドアが少しづつ開いてゆく、その先の廊下の闇はいつもよりも暗く見えた。
死んでも死に切れない。とても短くて簡単な言葉だ。それがどんな情念を持ち、どんなに無念な事かなんて言うのは今の僕らには絶対に理解できない。
でも、きっとわかるようになりますから、必ず伝えられるようになりますから、彩ちゃんを連れて行こうなんて考えないで下さい。
僕は声にならない声で必死に叫んだ。
「あや・・・・・」
「彩ちゃん!!」
僕らが飛びかかるように彩ちゃんを抱きかかえたのと、ドアが開き切るのと儚げな音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
僕らは、しばらく放心状態で団子のようにしがみつき合っていたが、彩ちゃんの泣声で身体が動くようになった。
「ごめん。彩ちゃん痛かったね。」
慌てて彩ちゃんを座らせて謝る。でも彩ちゃんが泣き出したのは僕らの事ではないようだ。
「お母さんがもう帰って来れないって。どういうこと?」
都さんと僕は顔を見合わせてから、重い重い口を交互に開いた。
アパートのみんなが懸念してた通りというか、当然彩ちゃんは泣いた。
僕は、泣いている彩ちゃんを抱っこしてポロ屋に向かった。
外に出ると意外な程の月明かりが眩く辺りを照らしている。その月明かりを纏うように緩やかに、銀色の柳が揺れている。僕は彩ちゃんを抱えながら橋田さんに謝った、不甲斐なくてすいません。役立たずでごめんなさい。僕は生まれて初めて悔し涙を流した。
その後、たいした混乱もなく、僕はこき使われて橋田さんの葬儀は終わった。
本来なら施設に行くはずの彩ちゃんを、民生委員の調査が終わるまでの約束で、大屋さんが預り商店街のおかみさん達が先を争って世話をしていた。
でも、それも今日までだ。橋田さんの親御さんが見かり、今日彩ちゃんを引き取りに来る。堂島さんが言うには四国はいい所らしい、東京より空気がきれいで食べ物も旨いようだ。
彩ちゃんが何故おじいちゃんやおばちゃんを知らなかったかは分からない。しかし、過去からの連鎖の泥沼ループを断ち切るためには、そんな事はどうでもいい事だと僕は思う。今日も柳が青く揺れている。
「板宿クーン、彩ちゃん行くってさぁ。」
玄関先から都さんの呼ぶ声が聞こえる。さわさわと他の人の声も聞こえるので、みんないるんだろうと思う。
外に出ると、案の定大家さんの家の前に、アパートの住人と商店街のおかみさん達がひしめき合っていた。彩ちゃんは、みんなに用意してもらったのか新しい水色のワンピースとお揃いの帽子をかぶって、初老の夫婦の側に立っていた。
老婦人の胸元の白い布に包まれた箱が痛々しい。皆各々に目頭を押さえて別れを惜しんでいる。
橋田さんの親御さんは、こんなに別れを惜しんでもらえているのが意外だったようで恐縮しまくっていた。
「さぁ、別れに涙は禁物だよ。笑って見送ろうじゃないか」
大家さんが涙声で、そういうとみんな無理に、にこやかに笑い出した。もちろん僕も。
「お世話になりましたっ」
みんなが笑ったのを見た彩ちゃんは、大きな声で挨拶をしてぺこりと頭を下げた。
そして、そのまま少し先の交差点まで走って行った。
彩ちゃんの急な動きに、老夫婦は慌てて大家さんに挨拶を済ますと彩ちゃんの所に小走りで追いかけて行った。
その時、まっすぐにこちらを見つめる彩ちゃんの横に、儚げな橋田さんが立っているのが僕の目に映った。青く揺れる柳の枝の向こうから、生きてる時よりも儚げに立ち深々と僕らに頭を下げていた。
その場にいた全員が静かに泣いた。皆、橋田さんの姿が見えたのだろう。しかし、誰も一言もそんな事は言わなかった。誰も声を出さずに、前を見てにこやかに静かに泣いた。
その後すぐに、橋田さんは消え彩ちゃんも老夫婦とともに去って行った。僕らもそれぞれに日常へと立ち返るため家路に着いた。
ただ、柳だけが自分の役目を果たすように、その場に残り静かに青く緩やかに揺れていた。
お楽しみいただければ幸いです。