第7話「フランツ・フェルディナンド」
アルフレッド・デュポンは突如として降り注いだ外患に頭を抱えていた。
彼は溺愛する一人娘の命を託した冒険者の二人から報告があると申出を受けた。何事かと多忙な合間を縫って朝一番に面会時間を確保するが、彼女らから放たれた言葉は非常に受け入れ難いものであった。不健康そうな元軍人冒険者フランツ・フェルディナンドは開口一番こう言ったのだ。本日は金級冒険者として参った。貴殿の娘が重大犯罪を犯した件について話したい、と。
この慮外者は突然何を言い出すのか。当然、アルフレッドは反論する。うちの娘に限ってそんなことは絶対にないと。実際、彼は信仰深い敬虔な信者であったし、熱心な宗教教育を施された娘シャルロットも同様であった。清廉潔白を良しとして隣人を愛し、謙虚で優しい子に育ってくれた。そんな娘が重大犯罪を犯した?とんでもない。仮にそうだとしても、何か深い理由があるに違いない。
怒りの感情を露わにして訝しむアルフレッドを、イブ・サンローランはまあまあと宥める。一方フランツはそんな彼を他所目に一言失敬と放つと、許可も待たずに煙草を咥え始める。そして徐に懐からジッポライターを取り出して静かに火をつけると、彼女は深々と煙を吐き出す。アルフレッドは眉間にしわを寄せて形相を歪めるが、煙草とは彼女にとっての戦闘準備なのである。これから成りきる冷徹な軍人像への通行手形と言っていい。
「さて。貴殿は我々の言葉を真っ向から否定するわけか」
「当然だ。詳細な話もなしに受け入れろと言う方が無理な話だろう」
アルフレッドは応接間の重厚な装飾が施された革ソファに深々と背を預け、固く腕を組んでフランツとイブを睨んでいる。彼女らもまたそのアンティークな調度品に腰掛けて彼と向き合っているが、穏和とは程遠い空気感である。
「では単刀直入に。我々が預かっている貴殿の姫君は、我々の仲間を凌辱しました」
「———言っている意味が分からない。確かもう一人のパーティメンバーはドワーフでなかったか?」
だが少々単刀直入に言い過ぎたようだ。イブは必死に笑いをこらえ、アルフレッドの盛大な勘違いを訂正する。
「———ふむ。では我が娘は、その魔法使いの少年を自宅に連れ込み、強制的に事に及ぼうとしたと」
「左様ですな」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
イブの詳細な話を聞いた途端、アルフレッドは何事もなかったよう呆れた表情となり、懐から煙管を取り出した。その態度は先刻までの緊張感あふれる雰囲気を完全に弛緩させており、ある意味安堵していたようであった。
「悪いが、たかが痴情の縺れ程度であれば問題ない。その少年は気の毒だが、十分な補填はしよう。それでも納得いかねば衛兵にでも突き出せば良いさ。もっとも、当局が我が娘に手を出すことはないだろうがね」
紫煙を吐き出しながら、アルフレッドは和解を持ちかけてくる。その提案は迷宮都市における彼の影響力の強さを物語っており、この程度のスキャンダルなんぞ揉み消せるのだと自信の現われであった。むしろ娘もそんな年頃になったかと、どこか感嘆の念すら覚えている。
「貴殿。それが事はそう単純でないのです」
「はて、どういう意味だ?」
「———魔法使いの少年は、帝国、ファタ―ル家の嫡子です」
しかし、彼はフランツの一言に硬直する。紫煙揺らぐ煙管の手を止め、安堵の笑みは消え去っていた。彼は混乱する頭で思索を巡らし、妥当な仮説を懸命に模索する。なぜ?帝国の、それも選りによってファタ―ル家の嫡子がこの迷宮都市に?挙句娘が手を出した?
疑問は一向に尽きないが、わずか数拍の間にアルフレッドは自身が執るべき指針を定めたようだった。
「———証拠はあるのか?」
「もちろんですとも。イブ、ご査収差し上げろ」
「ういっす」
フランツの指示を受け、イブは持参したボストンバッグから二枚の書面と魔道具をテーブルに置く。丈夫な羊皮紙にはパーティメンバーの各々の氏名、ファム・ファタ―ルの捜索願いの趣旨がそれぞれ記載されていた。どちらも冒険者組合を通じて取得したものであり、魔力が込められた羊皮紙の効力は明白であった。アルフレッドは眉間を寄せて厳しい表情になりながら、片眼鏡を摘まみ書類を一読している。
「ああ、それと。貴殿にはこちらもご視聴願いましょう。少々凄惨な映像ですが、どうかお目を背けずに願います」
彼が書類を読み終えるや否や、フランツは間髪入れず次の一手を打つ。
彼女は机に置かれた立方体のような魔道具を操作すると、立方体が変形して空間上に映像を投影し始める。その映像は昨晩の月明り差し込む一室での出来事であり、アルフレッドにとってはショッキングな事件現場であった。薄暗い部屋の中、裸体で無惨な扱いを受ける愛し子。あどけなさ残る美少女と見間違うほどの美少年は、怯えた表情でシーツに包まっている。彼がファタ―ル家の嫡子であることは想像に難くなかった。
「———さて。本事案の重大性がお分かりですかな?」
「そうそう。帝国と言やァ、つい数年前にファーティマを征服し、近隣諸国に対する圧力掛けまくってる激ヤバ国家だぜ。その重鎮の嫡子に手ェ出すとは、お宅のシャルロット嬢も良い度胸してるよなァ」
瞳を閉じ、額を抑えながら深い溜息をつくアルフレッドへ、フランツとイブの追い打ちは止まらない。もちろん実際には彼女らの間で最後まで事が進んだわけでなく、幾らかのブラフありきである。しかし重要なのは真実ではなく、この事実が報道された際、大衆及びファタ―ル家にどのような捉え方をされるかである。錯覚こそが真理を生み出すことを、一大商会を経営するアルフレッドが認識していないはずなかった。
「———何が望みだ?」
重々しく言葉を紡ぐ彼の指針は、既に岐路を迎えていた。この事案を揉み消すことは可能だが、万が一迷宮都市外に漏れた際の危機損失があまりに大きすぎる。彼女らも無防備無策で屋敷を訪れたわけでなかろうし、此方側が強硬策に出た際に何かしらのバックアップやプランBを用意していることも推測できた。となれば、この戦いは損害をどれだけ減らせるかの撤退戦に持ち込むべきであろう。そう決断するのに時間はかからなかった。
「———ご決断が早くて助かります。ずばり、我々の要求はファム・ファタ―ルへの支援です」
「———意図が分からん。諸君らは帝国の手先なのか?まるで帝国への支援を要求しているよう聞こえるが」
「いえ、要求はあくまでファム・ファタ―ル『個人』への支援です。帝国への恨み節は貴殿と同様かと」
フランツは瞳を閉じ、出された珈琲に初めて手を付ける。
ここから勝負のフェーズが変わるのだ。アルフレッド・デュポンの協力を取り付けるため、脅しだがキッカケとなる材料は与えた。あとはこの危機意識を煽りつつ、幾多ある手段の中からフランツの提案を唯一の選択肢に魅せる必要がある。相手に望み通りの意思決定をさせるためには、障害を意識させ、その困難を取り除く手法を提示し、その手法でなければならない理由とパッションで押し通す。商談のプロフェッショナル相手に交渉するのは正直気が重いが、やり遂げねばならぬ。
「———」
応接間に数泊の弛緩が訪れる。それは、まるで迫りくる静かな嵐の前夜を示唆しているようだった。彼らはフフフ、ハハハと乾いた笑みを浮かべているが、その本心が笑みとは程遠いものであることは明白である。
また部屋一面に珈琲と煙草の混ざった濃い匂いが充満していた。イブは獣人特有の鋭い嗅覚から、鼻がひん曲がりそうになるのを顔を顰めて必死に我慢する。彼女の性格的からして、元々こうした如何にもな駆け引きは苦手だ。まったくフランツに一任するに限るが、腹の中を探り合う重々しい空気で耳も尻尾も萎びれてしまう。そして、そうでなくとも嫌煙家である彼女は唯一腹の中で思う。
...せめて分煙はしてほしい。そう涙ながら心中で懇願するのであった。
そんなイブの厭忌を察してかは定かでないが、最初に口を開いたのはフランツであった。
「まず、貴殿の置かれた状況を整理いたしましょう」
「ふん。どの口がのたまうか」
アルフレッドの皮肉めいた茶々が入るが、フランツは無視して話し続ける。
「第一の課題、シャルロット・デュポン未成年者強制淫行事件。第二の課題、被害者ファム・ファタ―ルの捜索願いとファタ―ル家との衝突。そして第三の課題、想定される最悪の事態は帝国との全面対立でしょうな」
「些か論理の飛躍があらん気もするが、大筋は認めよう」
交渉は両者の同意から静かに入った。交渉術の基本は、前提認識の擦り合わせだからだ。お互いの前提が異なれば、議論は平行線にしかならないためである。アルフレッドは、憎み口を叩きながらも彼女の才覚を認め、その評価を次第に上げ始める。
「貴殿なら第一の課題だけであれば容易に揉み消せるでしょう。しかし、それは第二の課題が許さない。発覚のリスクがある以上、ファタ―ル家が激怒することが目に見えてるからです」
フランツは淡々と状況を整理していく。アルフレッドも無言の同意を送り、彼女の論説は止まらない。
「貴殿の執れる選択は3つです。一つ、我々共々始末して証拠隠滅を図る。二つ、シャルロット嬢を切り捨てる。三つ、ファタ―ル家、延いては帝国との全面対立を辞さないことでしょう。しかし、一つ目は無意味です。なぜなら、この証拠は既に我々の手を離れつつあるから。二つ目は現実的に無理でしょうな。仮に愛しの一人娘を切り捨てても、ファタ―ル家がデュポンを無関係と見なすはずがない。もっとも愛情深い貴殿はそんなことしないと分かり切っておりますが」
「———何が言いたい?」
「ええ。つまり、貴殿はいま帝国との対立を避けられない状況なのです」
改めて、フランツは帝国を強調してアルフレッドを突き放す。彼の立場で想定される選択肢を挙げた上、一つずつ確実に棄却事由を述べていく。必然的に残るのは最悪の想定であるが、狙いはそこである。腕を組んで天を見上げる彼に、彼女はここぞとばかりに第四の選択肢を提示する。
「———であれば、先制してファム・ファタ―ルの後見人となる宣言をすれば良いのです」
瞳を閉じて沈黙を突き通すアルフレッドに、フランツは畳みかける。
「取得した捜索願いを鑑みるに、帝国、ファタ―ル家はいま血眼になってファム少年を探しています。それこそ、莫大な報奨金を掛けていることからもお判りでしょう」
「その少年にはよほどの価値があるというわけか」
「ええ。そんな彼を、我々は『保護』したのです」
アルフレッドはふむと唸ると、次第にフランツの謂わんとする物語を理解し始めた。
不躾な話だが言葉を借りれば、第一の課題は彼女らが黙っていれば漏洩するリスクはない。次に第二の課題は、娘がファム・ファタ―ルを犯したのではなく保護したという物語を、彼と彼女らで共謀して創り出せば解決する。ファタ―ル家との確執がなくなれば、帝国と対立する恐れもなくなるというわけだ。大筋は合意できる。しかし、一つだけ、彼には腑に落ちないことがあった。
「そんな厄介事であれば、なぜ嫡子を支援する必要があるのだ?とっとと帝国に送り返せば良いだろう」
そう。根本的な話、身柄を引き渡せば解決する問題であるのに、なぜ後見人となる必要があるのか。むしろファタ―ル家との不要な確執を再燃させる可能性すらあるのだ。冒頭からこの点が理解できなかったアルフレッドは、フランツへ率直な疑問を投げかけた。
だが、そんなボールを投げかけられた当の彼女は、待望そうにニコリと笑う。ごほんと咳払いを挟むと、いよいよ計画の目的を説明し始めた。
「貴殿。貴方らしくないですな」
「なに?」
「せっかく舞い込んだ鴨ネギをみすみす逃すのでしょうか。いいや、断じてあり得ない。これはチャンスなのです。帝国を内側から蝕ませ、我々の思惑を通すための好機なのですよ」
フランツの饒舌が、冷静に、しかし仄かな憤りを帯びてまくしたてる。彼女は一拍置いて珈琲を飲み干すと、前かがみになって気怠そうな顔を近づけてくる。綺麗な顔をしているが、どこか感情を読めない不思議な表情だ。訝しむアルフレッドに、フランツは囁くように更に押しを詰め始める。
「良いですか。ファム少年は強力なカードです。帝国という強大な敵に我々が飲み込まれないための切り札、ジョーカーと称してもよろしいでしょう。彼を籠絡するのです」
「———ふむ。だがいかに有望だとしても、たかが辺境伯の元服前の幼子。嫡子とは言え当主の確約もない。本当に重要な札となり得るのか?」
「ええ。近い将来、間違いなく。彼は呪われた一族の最高傑作ですから」
フランツは身を引き、片眉を吊り上げる。自信満々に言葉を紡ぐ彼女は、自身の提案する策を差し置いて他に有効な手立てがあるとでも?と言いたげであり、対するアルフレッドはぐぬぬと唸る。
しかし、彼女の言葉は当然嘘である。ファム・ファタ―ルが魔法の才溢れる原石であることは明白であるが、すなわち彼が戦力及び政治的な重要フィクサーとなる確証はどこにもない。現段階ではその血脈から存在価値があるに過ぎず、重要な交渉カードの一つではあるが、彼自身の価値は保障されていないのだ。彼はファタ―ル家との文脈に限り有効であり、そこには不確かな蓋然性があるのみであった。
だが彼女の思惑を知る由もないアルフレッドは揺れ動いている。真っ赤な嘘というわけではないが、幾分の楽観的推測と脚色が加えられていることも事実である。それに思い至らない彼ではないが、その勘定天秤を振り切らせるためには、最後のひと押しが必要だった。
「———まだ解せぬ点がある。軍事的商業網を全世界に持つデュポンと帝国が軛を打つことを避ける。それが延いては迷宮都市と帝国のサプライチェーンの分断を防ぎ、この地への侵攻リスクを回避する狙いがあるのは分かる。しかし現状の持ちつ持たれつを棄却するのは、却って帝国との癒着として諸外国にあらぬ心象を与え、軍事的緊張を高めるのではないか?それに、この情況を生み出している諸君らの利害が読めん。散々掻き回した挙句、冒険者のお遊びでしたでは済まされんぞ?納得のいく説明を求めようか」
天秤の最後の分銅は、思いがけず先方からもたらされた。決まれば少なからず政治経済情勢に多大な影響を与えることになる決断であるが、その錘が受け皿のどちらかに置かれるのかは、弱冠冒険者フランツの回答次第であった。
彼女は徐にソファから立ち上がると、執務机の奥側に設置された窓際に歩み寄り、迷宮都市の街並みを一望しながら返答する。
「貴殿の杞憂はよく分かります。しかし、我々は癒着を求めてはいないし、利害目的も単純です」
「物は言いようだな。問題はデュポンと帝国が癒着をしようがしまいが、第三勢力からどう捉え———」
「———私は旧ファーティマ王国の出身です。既にご存じでしょう?」
冷ややかに、それでいて力強い言葉で遮るフランツ。相手の言葉を遮るのは商談としてタブーであるが、ここで先程から垣間見えた憤りの正体に、アルフレッドもようやく気付き始める。かつてシャルロットを冒険者修行させるにあたり、有力な冒険者を選定したことがあった。結果的に選ばれた彼女らの素性を洗ったが、その経歴は本人が述べる通りだ。
フランツは数年前に帝国に征服された亡国の軍人である。正確には士官候補生であるが、近代戦争の凄惨な戦地を見てきたのであろう。そうでなくとも貧民街出身である彼女は、立身出世のため血の滲む努力をして軍人になったと思えば、帝国の侵攻で人生設計が全て無に帰したのである。憤りと憎しみに溢れ、ルサンチマンに満ちた喪女。アルフレッドは、報告書に記載されていた彼女の人物像を回顧する。
「なるほどな。君の目的は分かった」
「こほん。恐れ入ります。とはいえ、癒着問題は別途解決せねばなりません。そもそもこのきな臭いご時世、繋がりがあるだけでは癒着ありと見なされないと思いますが、不安要素は排除しておくべきでしょう」
「いや、いいさ。元々の帝国の動向からして充分過ぎるほど近隣諸国には緊張が走っている。デュポンが迷宮都市でいかに巨大な軍需会社であろうと、もはや焼け石に水程度だろう。帝国と深く繋がっている他都市の同業他社なんぞ幾らでもいるからな」
アルフレッドはとうとう覚悟を決めたようであった。癒着の懸念はフランツを試したのだと笑い、まあ座れと彼女に着席を促す。此度の交渉で、彼はフランツの評価を確固たるものにしていた。報告書によると失意に満ちたヤサグレ軍人の若造としか書かれていなかったが、実際に会って話すと中々肝が据わっており気に入った。
シャルロットを通じて、幾分か報告書と乖離するような優しさを見せる一面も把握していたが、その若さでこのように冷静沈着な交渉を進める才能があるとは嬉しい誤算だった。もし彼女に気があるなら冒険者を辞め、うちで働かないかと勧誘を迷っている程である。
「よろしい。デュポンはその誘いに乗ってやろう。だが此方としても3つ条件がある」
「なんでしょうか」
「まず一つ、そのファタ―ル家の嫡子に会わせろ。本当に帝国に対する切り札となり得るのか、俺が見極める。次に二つ、件の事件証拠を完全に削除しろ。娘からも詳しい話を聞きたい。決定はその後だ。そして最後に三つ、今後ファタ―ル家との交渉はデュポンに一任しろ」
「良いでしょう。しかし、裏を掻く際はお気を付けを。ご息女の命運は我々が握っていると」
「ふん。最後まで喰えぬ輩だ。安心しろ、俺はお前さんを高く買っているのだ」
交渉は概ね成立した。あとはファム少年とシャルロットが余程のヘマを犯さない限り、決裂することもなかろう。フランツは張り詰めていた緊張の糸を緩め、最後の溜息を吐く。何気なく隣を見ると密室に込められた煙草の匂いでイブが死んでいた。揺すっても反応がない。途中から完全に空気になっていたのはそのせいであったか。
また、ふと時計を見ると丁度頃合いの時間であった。もうそろそろ主役が登場する手筈だ。彼女がそう思うのと同刻、廊下から激しい足音が鳴り迫るのは同時だった。
「ッ!!!」
重厚な木製の扉がはち切れんばかりの悲鳴を上げて開かれる。来訪主はもちろん、綺麗なお人形さんのようなフリフリドレスを身に纏い、冷や汗を垂らして息を切らすシャルロットである。
「ねえッ!たしか昼前に来いって言ったよね??なんでもう交渉は終わったよって顔してるのさ!!」
「ああ、すまん。間違えた」
「おお。いつになく綺麗になったな我が娘よ。昔のお母様を見ているかのようだぞ」
「だってお母様に無理やり着せられたのッ!!っていうか間違えたって何さ!」
状況がよく読み込めずテンパるシャルロットだが、突っ込みが追いつかない。糾弾される由々しき交渉になるだろうと気が重く、蒼白な断腸の思いで実家を訪れた彼女であったが、来訪一番に久々に会った母親に着せ替え人形にされた。
少し早めに到着したはずであったが時間を幾分取られ、挙句応接間に訪れる頃には数刻前に交渉は終わったと聞かされる。おまけに此度の事案について、簡単に事情を聴いた父から何のお咎めもなしであると告げられると、却って身が竦む思いだ。彼女は一体全体何も分からなかった。
「———あのう。すみません、入室してもよろしいでしょうか」
ぐぬぬッと行き場のない怒りや把握し得ない感情に悶え苦しむ彼女であったが、轟音を響かせた出入口から恐る恐る身を乗り出すのはもう一人の主役、ファム・ファタ―ルであった。
彼は困惑した表情で大人たちが和気藹々と雑談に耽る空間に顔を覗かせている。一同の視線が一斉にその可愛げのある小動物へと向かい、アルフレッドから入室許可を賜ると、可憐な全体像が皆の眼に曝け出された。
「ほう―――」
アルフレッドは品定めするようどんな人物かと一瞥をくれた後、驚きの表情でマジマジとファムを二度見する。いや、もはや凝視していると称しても過言でない。その驚嘆な姿勢にフランツはニヤリと笑い、シャルロットは照れくさそうにはにかみ、イブは魂が抜けたように呆然としていた。
...あり得ない。あまりにもチグハグだ。まるで幼子の身体に別の熟年魔法使いの魂が迷い込んだように魔力総量に乖離がありすぎる。
しかも、どこかミステリアスで知的な雰囲気からは、ただの血脈ボンボンでないことが感じ取られる。おそらくあの灰色の瞳だろうか。ぐるぐると渦を描くような不思議な瞳に意識が持っていかれそうになるが、瞬きと頭を軽く振り、目頭を押さえてぐっと堪える。
きっと緊張感あふれる商談を久しぶりに交えたからであろう。アルフレッドは自身がもう若くない中年であることを改めて自覚した。
その後の展開は交渉内容通りであった。
デュポン家の当主アルフレッドは、ファム・ファタ―ルとシャルロットと言葉を交わして後見人となる決定を確固たるものにする。
全てフランツ・フェルディナンドの掌で踊らされている気に食わない感覚も残っているが、長期的に見てファタ―ル家と関係性を持つのも悪くない。最初の接触リスクはあるものの、幾分の修羅場を潜り抜けてきた自分なら大丈夫であろう。幸い、ファム少年からの聴取内容により先方との交渉筋も見えているのだ。
ファタ―ル家に対する譲歩と勝ち取る権利はこうだ。
ファム・ファタ―ルの保護を持ち出し、彼の要望通りこの迷宮都市で魔法の才能と実践経験を開花させる。帝国の安全な領地に引きこもって才覚をいたずらに消耗するよりも、迷宮都市の有力者の庇護の下で智勇と実力や名声を育み、名実共に当主の器に育てる。そして成長したら彼自身の意志でファタ―ル家に戻るのだ。これが先方との大筋合意であろう。
また仮にファタ―ル家が彼自身の強制更迭を求めてくれば、ファム少年が交渉の席に着くことも吝かではない。ファタ―ル家にとっての最大の損失は、一族最高傑作の彼が家を見限ることであるからだ。
デュポンの役割は彼の意志を尊重しつつ身の安全を図り、数年後に成長した姿で送り出すこと。もっとも、その頃には我々の唾が付いているだろし、時間は籠絡の余地だけでなく次なる策を練ることも可能にさせてくれる。来るべき時期が訪れればその都度交渉に応じれば良いし、身柄が此方にある以上、主導権を握っているのはデュポンである。
思索を巡らすほど、初動対応さえ間違えねば美味しい話だと分かる。
「———だが油断は禁物だ。私の情報筋によると、正体不明の外部勢力が教会を行き来しているという情報を掴んでいる。現在素性を洗っている最中であったが、ファム少年の話を鑑みるに滞在していた教会が密告したのだろう。帝国の、ファタ―ル家の手先の可能性が高い。此方の体制が整うまで、地上よりも迷宮の方がむしろ安全かもしれない」
「それには同意だ。迷宮であれば捜索の手も入らない。冒険者組合で登録を済ませた以上、もはや時間の問題でもある。一刻も早く身を隠した方が良いだろうな」
アルフレッドとフランツの提案は異論なく受け入れられた。彼らは事の顛末をラクラウに伝えると、すぐに迷宮探索の準備に取り掛かる。こうしてファム・ファタ―ルは迷宮都市でこれ以上ない後見人、死の商人デュポンの後押しを手に入れたのであった。
「ぐェ...吐きそう」
しかし、イブだけは歓喜の感情よりも吐き気をひたすら催し、迷宮探索の直前までしおらしく耳と尻尾を萎びれさせていた。普段は強気な彼女であるが、黙ると美少女だなとファムは仄かに思うのだった。
残業滅ぶべし。余談ですが、フランツは士官候補生時代、実習落第ギリギリ座学トップの成績でした。