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第1話「転生」

胡蝶の夢をご存知だろうか。戦乱に明け暮れる古代中国、荘子が老荘思想の無為自然として示した比喩である。

 夢の中で胡蝶になってひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのかという説話だ。

 

 興味深いのは、直前まで観ていた世界が遠い世界でありつつも、自分本来の居場所がそこであったかのように錯覚することであろう。非現実的な出来事は、現実世界では決して受け入れ難くとも、一歩その境界線から身を超え出してしまうと錯覚が真理に取って代わられる。

 赤信号みんなで渡れば怖くない。このメタファーの持つ記号内容は、本来赤信号が通行禁止を意味するという真理が、大勢のみんなによって錯覚された結果、赤信号でも渡ることができる点である。物事に対して、錯覚こそが真理性を帯びさせる起因となるのだ。暇つぶしに読んでいた精神分析学説の到達点、スラヴォイ=ジジェクの思想だ。信号無視で死んだ俺が言うのもアレだが。


 

 さて、こんな小難しい話を挟んだのには理由がある。なぜならば、俺はいま胡蝶の夢の真っ最中だからだ。物心が芽生えたのは3歳頃からだった。俺は幼子になって転生していた。そしてママのおっぱいをちゅうちゅう吸っている。


「あぁ~、おっぱいおいしおいし」

「ーーーー?」


 まあなんてお下品なのかしら。品性のかけらもありゃしない。前世なら母親の授乳をこんな下衆そうに飲む赤子がいるはずなかろう。しかも、この世界の住人が分からないからと日本語で呟きながら飲む輩だ。気色悪いことこの上ない。だがこの背徳感が堪らない。

 俺に乳房を好き勝手揉まれながらも女神のような微笑みで授乳してくれているのは、琥珀色の透き通った髪を持った10代後半の美少女。母乳で張りが出ているのか小柄な身長に対して胸が大きい。母親特有の甘ったるいミルクの香りもする。

 授乳が一通り終わると、俺は母親と引き離されて育ての親である乳母に手を引かれる。俺が生まれたのは貴族家系らしく使用人が何人もいるのだ。また乳母と呼称しているが、この世界では何故か、授乳は実の母親が行うべしと決められているそうだ。そのため、言葉とは裏腹に乳母に授乳されたことはなく、完全に子守役に達している。年齢は30代半程だろうか。

 俺の食生活はこうだ。毎朝毎晩は母のミルクを飲み、昼は離乳食を食べさせられる。だが可能であるなら父親はとにかく母に授乳させたがる。なぜだ。たしかに俺はもう5歳にもなるし、なぜ母は母乳が出るのかと疑問ではあった。母親の愛情が身体影響し、驚くべき長期間授乳を可能にしたのか等々。

 終いには、まさか俺の思考を読めるのだろうか。この気持ち悪い趣向が何らかの屈折を経て赤子一般の願望と置換され、良い方向に解釈されてるのだろうかと一時期訝しんだこともあったが、成長するに従ってこの世界の理を理解し始めた。


 この世界は剣と魔法のファンタジー世界であること。一つ、魔法の源である魔力は生命力たる血液を通じて循環されること。二つ、幼少期の育成が人生の魔力総大量を規定すること。三つ、血縁が近いほど魔力は馴染みやすいこと。

 なるほど母乳は母親の血液から生成されている。つまり、それを赤子に与えることで魔力量底上げを図っていたわけである。さながら母乳による英才教育といったところだ。おっぱい教育恐るべし。

 しかも徹底してるのは、俺に妹が出来てからも俺に授乳を続けたことだった。流石にそこまでくると、もしかしたら成人でもいまだ親戚のミルク啜りまくってるのかと勘繰るからやめてほしかった。嫌な想像である。ちなみに結構以前から母乳には興奮しなくなった。赤子から幼子へと成長して羞恥心もあるが、ただの作業に成り果ててしまったのだ。

 

 片手で数え年が出来なくなった頃。俺はこの世界の住人となることに違和感を覚えなくなった。胡蝶の夢は夢から真理へと成り変わったのである。

 この頃から開始された貴族教育は熾烈であったが、前世の旧華族教育を受けていた俺にとって教育自体は苦でなかった。この世界特有の宗教知識、一般常識、政治経済情勢、貴族としての立ち振舞いなど学習速度も早く、保有魔力総量では類を見ない存在として、我が家創設以来の天才と持て囃されていた。

 しかし依然として閉塞感と退屈さを拭うことはできなかった。むしろ前世と似た状況に陥ったし、以前の授乳のように物事に対する背徳感や好奇心を抱ける場面は皆無に等しくなった。この世界にも俺の自由意志はなかったのだ。

 父親は俺を跡取り息子として道具にしか思っていない。母親は優しかったが、何を考えているのか分からなかった。なぜか妹だけは俺に積極的に話しかけてきたが、数年前に弟が生まれたあたりでわざと避けるようにした。誰にでも良い顔をするのは非常に疲れるからだ。自分でも酷い兄貴だと思うよ。ごめんな。

 

 まもなく両手で数え年が出来なくなる頃。俺はとうとう家出を決意した。貴族だか華族だか知らないが、もう家督なんぞに縛られるのはまっぴらなのだ。ここ数年は特に心を殺して感情を抑圧してきた。最も辛いのは、坊ちゃんのためと言って屋敷の敷地外に全く出してもらえないことだろう。上流階級の交流パーティ一つ取っても俺が出席するのは自家主催会のみ。おまけにある時を境に、両親は俺の存在を表立って出さなくなった。元々交流したいとも思っていなかったが、世間との隔絶をより感じさせられた。

 もう十分だろう。我慢の限界が来た。前世の死亡原因である家出だが、それ以上に自由への憧れは辞められねえんだわ。家族にしてみれば、前兆も見せずあまりに唐突な度し難い行為かもしれないが、俺は本来良い子ちゃんではない。下品なことにも興味があるし、上品にお高くとまっている輩は貶したいし、生来の品性のなさを努力と理性で隠してきただけに過ぎない。

 決行は俺の10歳誕生日パーティの日。外部から大勢の来賓を迎えるようで屋敷の警備体制は厳重だ。しかし、それは外部からの不審者侵入を防ぐため。逆に言えば、外部への脱出は手薄である。本日のため、計画も準備も入念に行ってきた。この剣と魔法のファンタジー世界で俺は冒険者になるのだ!


「あっ、お兄様!どこに行かれるんですか?」

「...」


 屋敷を無事に脱出し、正門の反対側から敷地内の庭園を進むまでは良かった。だが、敷地を隔てる石塀を越えるため土魔法を発動して登っていると、運悪く妹に見つかった。何とか切り返さねば...。


「...やあシルビア。僕はこれから外の世界を旅してくるよ。また会えたらいっぱい話してあげるからね」

「...え? いや、その。また会えたらって。....えっ?」


 妹は激しく混乱している。正統派貴族系お兄ちゃんの俺がなぜ脱走しているのか。そして唐突な別れ。悲しいけど別に今生の別れというわけでもないだろう。何年何十年後になるか分からないが、満足したらふらっと戻ってくるかもしれない。


「んじゃ、そういうことで。元気でね」


 あまりに啞然としすぎて妹は無反応だったが、それもよし。逆にいま妹に事前報告できたのだから、俺が誘拐されたとかではなく自主的に旅立ったことを両親に伝えてくれるに違いない。とはいえあまりに報告が早すぎると追手が訪ねてくるので、妹には悪いがそのまま茫然としててほしい。

 実際に外界を目で見たことはないが、近隣地図や周辺地理は頭に入っているし、きちんと目的地までの計画も立てている。最後に急なハプニングもあったが、万事順調に進んでいるだろう。


 こうして俺は幼子にして家を出た。だがこの時俺はまだ知らなかった。この世界がいかに前世の世界と歪に異なっているか。俺がなぜ異様なまでに守られていたのかを。

 男女で貞操観念が逆転していることの恐ろしさを...。



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