番外編1
ふう、と息を吐いて思い切り腕を伸ばしたベルティーナは視界の端に映った時計を目にした。
「随分と経っていたのね」
「ずっと集中して取り掛かっていたんだ。時間だって過ぎるよ」
「アルジェント」
王都では風邪が蔓延していた。感染力が強く、あの事件から半年が経過して快方した父やベルティーナも罹ってしまい、四日程ベッドで寝込んでいた。幸い二人とも後遺症はなく、滞っていた執務を朝食後すぐに取り掛かったベルティーナは一旦休憩を取ろうと腕を止めたのだ。
「お父様は?」
「公爵はちょっと前まで休憩をしていて、今また作業を再開した。ベルティーナも一度休憩しようよ」
たった四日と言えど、溜まった書類の量は膨大だ。二人が動けない間は執事やアルジェントが手分けして処理をしてくれたが当主ではないと難しい決済まではできなかった。
後ろに回ったアルジェントに肩を揉んでもらうと「固っ、岩みたい」と失礼な発言を貰い掌を軽く抓ってやった。
「怒るわよ」
「手を出す前に言う台詞じゃないね。マッサージが終わったら紅茶とケーキを持ってくるよ」
「ありがとう」
酷使した肩はアルジェントの言う通り固かったのだろう、揉まれると何とも言い難い幸福に包まれる。いっその事、このまま眠ってしまいたいくらいだ。ベルティーナは小さく欠伸を漏らすと急に笑い出した。
「急に笑ったりしてなに?」
「え? ううん。何でもない」
兄ビアンコは従妹のクラリッサ共々祖父母のいる領地へ送り届けた為、自分がアンナローロ家の次期当主と正式に決まった。王太子だったリエトの婚約者でいた頃は、アルジェントとだけいる以外は欠伸一つ許されなかった。今もアルジェントと二人きりではあるが時折してしまう。気が緩んでいるのだろうがベルティーナの知らない内に疲労は溜まっていった。
風邪に罹る前、ベルティーナは父と共に母の生家へと足を運んだ。叔母アニエスの魅了の後遺症は尚も母を狂わせ、苦しませている。魅了を濃く受けたのは父も同じなのに、何故父だけが自我を取り戻したのだと母の生家は疑いの目を向けるが敢えて口にはされなかった。
「この間、お母様の様子を見に行ったでしょう」
「うん」
「お母様は……夢の中で生きていたわ」
元凶のアニエスが最も愛した父とその父にそっくりなベルティーナが顔を出せば、折角静かに生活を送る母の心をまた狂わせる為、二人は母が療養している別邸を外からだけ見る事を許された。丁度母は庭に出ていて、侍女を連れて散歩をしていた。
「庭にいたお母様は人形を抱いていたわ……」
真っ白なお包みを着せられた赤ちゃんの人形を大事に抱き、時折語り掛ける横顔は母親のそれだった。声が聞こえるギリギリの距離へ近付くと母は侍女に笑いかけていた。
『今日はベルティーナの機嫌がいいみたい。ふふ、早く大きくなってこの子と沢山の事をしたいわ』
『とても可愛い可愛い私のベルティーナ。お母様が貴女の側にいますからね』
ベルティーナが覚えている限り、母に向けられてきた言葉はどれもベルティーナを攻撃するものばかりだった。どうしてクラリッサを可愛がらない、ビアンコを慕わない、可愛げがない等例を挙げればキリがない。
ベルティーナだと思い込んでいる人形に母が向ける言葉も眼差しも——ベルティーナは知らない。
アニエスの魅了のせいだと頭では分かり切っていても心が微かに悲鳴を上げた。何を見ても動じないと馬車の移動中は父に話していたのに。潤んだ瞳を見られたくなくて袖で目元を強く擦ると頭に温かい手が乗った。
隣にいた父の手だった。
『ベルティーナ。泣くのを我慢しなくていい。あれは実際にあった光景だ』
『……え』
『よく覚えている……。カタリナは、ミラリアを失った恐怖からお前の世話を乳母に任せきりにせず、自分でも出来る範囲でした。ああやって、お前を抱いてよく庭へ出ては語り掛けていた』
『……』
罪悪感を滲ませ、でも懐かしさと愛おしさを含んだ眼差しで母を見守る父の言葉にベルティーナは今度こそ涙が止まらなくなった。
「アニエス叔母様が魅了を使わなかったら、違う未来があった。でもね」
母と父と兄と自分。家族四人幸せに暮らした違う未来は確かにあった。それらはアニエスによって壊された。壊れたものは時間をかけて元に戻ったか、永遠に戻らないかのどれか。
肩に置かれるアルジェントの手を握り彼を見上げた。
「過去に戻りたいとは思わない。もしも、過去に戻ったら、それは私であって違う私になってる。何より、アルジェントを拾う事はなかった」
「俺も同感」
肩揉みは中止し、執務椅子に座るベルティーナを後ろから抱き締めたアルジェントは唇で頬に触れた。
「俺はベルティーナに出会えて良かったと思ってる。退屈せずに済んでるからね」
「あら、退屈になったら出て行くの?」
「まさか。今更魔界に戻る気もないし、ベルティーナの従者を止めて他所で働くのも嫌」
「クラリッサの愛人になるっていう手もあるわよ?」
「やめて」
領地へ送って以降も定期的にビアンコやクラリッサから手紙が届く。
ビアンコはベルティーナの補佐を自分以外誰がするのかと、王都に戻すよう父に口添えしてほしいといった内容。
クラリッサはアルジェントを領地に寄越してほしいというもの。
「クラリッサは未だにアルジェントを愛人にすることを諦めてないのね」
「君の兄と結婚したんだろう? 新婚で愛人を作るのは悪魔の俺もドン引き」
「悪魔の方が正妻の他に何人も愛人を作るイメージがあるけど?」
「偏見。まあ、ないことはない。俺は一途な悪魔なんだ」
悪魔の偏見については否定せず、自分のイメージが変わるのは避けたいらしく、強調するアルジェントにベルティーナは楽し気に笑う。
「知ってる。アルジェントがフラフラするような性格なら、とっくの昔にクラリッサの所へ行っていそうだもの」
「酷い言い方。ベルティーナといる方が実の家族より長いのにさ」
「ごめん」
若干拗ねた声色を出すアルジェントに謝るベルティーナだが、面白くてまだ笑いが止まらない。後ろでやれやれと苦笑したアルジェントは黄金の頭に頬を乗せた。
「ほら、お茶とケーキを食べようよ。ベルティーナの好きな店で買ってきたんだ」
「ありがとう」
アルジェントが離れると席を立ったベルティーナ。
後ろを振り向き、アルジェントの手を取ると執務室を出て行ったのだった。
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