仮面を被った王子様と無表情な伯爵令嬢
アリス・フィオル。
伯爵家の中でも強い権力を持つフィオル伯爵家の長女であり、1人の兄と1人の弟を持つ。人々に疎まれる長い黒髪と、これまた人々に疎まれる黒に近い暗い紺色の瞳の、けれどとても美しい令嬢。年は15で学園での成績は良く、学年2位を誇る。その一方で社交の経験は少なく、表情が乏しく愛想の悪い令嬢としても知られている。
「アリス嬢、僕と婚約してくれないかい?」
「———へ?」
そんなアリスの目の前で今まさに跪いて手を差し伸べているのは、亜麻色の柔らかい髪と美しい碧色の瞳を持つ少年と青年の間ほどの年頃の大変美しい男である。その正体は驚くなかれこの国の第二王子であり、本来であればその言葉に、へ?と返すなどあり得ないことなのだが、アリスはそれどころではなかった。
(どういうこと?なんでこうなったの?)
アリスはこれまでのことを思い出す。一体いつから、何故こんなことになったのか。心当たりがないでもないが、その中でも最も印象的な2週間前の出来事を、アリスは思い出していた。
「殿下からデートのお誘い?」
同級生であり寮のルームメイトであり、またアリス付きの侍女でもあるメイの言葉に、アリスは耳を疑った。確かに第二王子とは面識があるし、何度か一対一の茶会にも招かれ——もちろん断ることも出来ず——応じたが、2人の仲は良好ともつかないものだったはずだ。傍目にはどう見えるかは分からないがアリスがそう断定するのは———
「殿下は私のことを嫌っていたと思うんだけど」
「アリス様の観察眼を疑う訳ではありませんが、本当ですか?あの誰にでもにこやかで優しい第二王子殿下が、このアリス様を嫌うと?」
「100%じゃないけど、ほぼ確実ね」
アリスを異常に慕っているメイの言葉を聞き流し、アリスは言った。
「殆どが勘だけど、この間ランチに誘ってきたときの態度が一番分かりやすかったかしら。笑い方がいつにも増してわざとらしかったわね」
「そうでしたかぁ?」
「ええ。これは多分向こうも気付いてるわ。私が殿下のこと好きじゃないの」
そう言ってため息を吐いたアリスは、まずいことになったかもしれないと胸中でぼやいた。王族を嫌う——好きじゃないと言葉を濁しているがはっきり言えば嫌いだ——というのは不敬も良いところだが、アリスはどうにも第二王子のことが好きにはなれなかった。あの本心を全く見せない目が気に食わないのだ。まあほぼ無表情のアリスが言えたことではないが。
そこまで考えてから、アリスはそういえばと話を戻す。
「しかし、何で向こうも私なんか誘うのかしら。互いに嫌いあってるのに」
「何ででしょうねぇ。取り敢えず、行きますって返事しておきましたから」
当たり前のようなメイの言葉にアリスはがくりとし、呆れたような、少しだけ怒って聞こえるような声を作る。
「貴女ねぇ、事後承諾はやめてって前も言わなかったかしら。殿下からのお誘いだから元から断れないのは知ってるけど、せめて一言言ってから返事をして」
「はぁい」
これはまた同じことをするんじゃないかとは思いつつも、アリスは考えを2日後の第二王子との茶会にシフトさせた。
そうしてその茶会で3日後に王都を2人で散策することになり、当日。2人は学園の馬車停めで同じ馬車に乗り込み、昼食を摂る店へ出発した。その車内。
「殿下」
「アイリ」
「失礼しました、エド様」
今日は『お忍びで王都で遊ぶ子爵令息とその恋人』という設定——勿論遠くから護衛は常に見ていてアリスもその視線に気づいている——である。その為アリスは第二王子であるエドワード・ステラをエドと呼んでいる訳だが、これがとんでもなく落ち着かない。そのエドワードの方はアリスが大嫌いなあの笑みを浮かべ、アリスが指定した呼び名であるアイリを楽しそうに口にする。実際楽しいかはアリスの知るところではないが。
「エド様は今日何故私を誘ったんですか?」
アリスは設定に合わせて少し砕けた口調にしている。もう少し砕いても良いが、ボロが出ると良くない。
「それは勿論、君と仲良くなりたいからだよ」
なんとも怪しい言葉である。だが王族の言葉を疑うなど言語道断。アリスはそれを信じた体で話を続ける。
「何故私と?伯爵家令嬢であれば、私より社交の能力に秀でた方もいたでしょう」
そこまでアリスが言ったところで、エドワードは笑みを深めた。
「ねえアイリ、君———」
それにアリスも笑みを作って返す。
「はい、何でしょうエド様」
「———君は、第二王子はどんな考えがあってフィオル伯爵令嬢と仲良くなりたいんだと思う?君の意見が聞きたいな」
その辺りの令嬢が見れば失神しそうな笑みだが、話の内容は目眩がしそうなものである。
(王族の考えを推測しろって、不敬にあたることじゃない。何これ?嫌がらせ?)
とは思いながらも答えない訳にはいかないので、アリスが上手い言い回しを考えていると、エドワードが付け加える。
「大丈夫。君の好きなように言ってくれて良いから」
開き直ったアリスはならばと口を開く。
「そうですね。第二王子殿下のお考えを語るなど烏滸がましいことですが、1つ推測していることはあります。それで良ければお話ししますが」
「良いよ、何だい?」
アリスはすっとエドワードに手を向ける。
「第二王子殿下が王位を継ごうとは思っていらっしゃらないということです」
するとエドワードはその目を細め、些か冷たくなった声色で問う。
「へえ、それはどういうことかな?」
「まず第二王子殿下は学園入学後、何人かの貴族令嬢を順にお茶会に招待されました。恐らく彼女らは殿下の婚約者候補でしょう。そしてそのお茶会に最初に招待されたのが」
アリスはそこで一瞬言葉を切って続けた。
「フィオル伯爵令嬢です。ですがこれには不自然な点があります。何故殿下はより高位の貴族令嬢を先に招待しなかったのでしょう。同じクラスには公爵令嬢もおられたのに」
アリスはそこで探るようにエドワードを見つめたが、本心を映さない瞳が見返してくるだけだった。諦めてアリスは言葉を継ぐ。
「私はその理由を、殿下が王位を継ぎたいと思っておられないからだと推測しました。王族の婚約者として伯爵令嬢では少し弱いですが、フィオル伯爵家の令嬢なら話は別です。一部の侯爵家を凌ぐほどの権力がありますから。つまりフィオル伯爵令嬢は、殿下の婚約者として言わばギリギリの存在です。そんな彼女と婚約することに何の意味があるのか」
アリスはそこで一旦言葉を切る。全く何でこんなことになったのか。長く話していると喉が渇いてきたから飲み物が欲しいと思った。
「それは、第一王子派の貴族たちに王位を継ぐ気はないと示せるということです。第一王子殿下の婚約者様は侯爵令嬢でおられます。その方より身分の低い者を自身の婚約者とすることで王位に関心がないことを示そうとしたのではないかと」
アリスはその暗い色の瞳をエドワードに向けて微笑んだ。
「以上です」
それにエドワードは———
「あっはははは、ふふ、君は本当に面白いね」
「お褒めに預かり光栄です」
「いやあ、そうか。そう見えるんだね。貴重な意見が聞けたよ。ありがとう」
「お役に立てたのであれば良かったです」
アリスがそう言って頭を下げ、上げた頃にはもう先程の大笑いの残滓も残っていない表情で、エドワードが窓の外を見つめていた。そして暫く車内にはガタンガタンと馬車が揺れる音だけが響いていたが、店が近付くとまた少しだけ会話が戻った。
そうして日も落ちかけた頃。護衛の目をどう掻い潜ったか、転移魔法で第二王子と伯爵令嬢が攫われるという事件が起こった。事件はその日の内に解決を見たが、王宮はしばしの間混乱していた。
その伯爵令嬢というのは言わずもがなアリスのことであり、彼女らを見つけたのは彼女の兄だった。その際アリスが怪我をしていて、その怪我というのが王子を庇ってできたものだったから、それに怒り狂った兄が王族へ抗議をして、妹と王宮の職員が必死でその怒りを収めた。というのが王宮のしばしの混乱の正体であった。
アリスに王宮への招待状が届いたのは事件から1週間後のことだった。アリスの怪我もそう深くなかった為、お礼とお詫びと、思わぬ終わりを見せたデート(?)のやり直しを兼ねて王宮を案内させてほしいという内容である。王宮からの招待が断れる筈もなく、承諾の返事をし、慌てて準備をした。
そして当日。アリスは王宮へと向かう馬車の中でため息を吐いていた。しかしすぐに気を引き締めると、窓の外に近付いてきた王宮を見上げた。王宮で気なぞ抜いていたら、命とフィオル家の名誉に関わる。メイは楽しそうにデートだ何だと言っていたが、これはある種の戦いである。アリスはその戦いのパートナー、或いは対戦相手となる男を見据え、ため息を吐きそうになるのを堪えた。
馬車が止まり扉が開けられると、その男、エドワードはアリスに手を差し伸べてにこりと微笑んだ。
「やあ、アリス嬢。今日は来てくれて嬉しいよ」
アリスも、流石に令嬢らしい笑みを作って応える。
「ご機嫌よう、殿下。本日はお招き頂き恐悦至極に存じます」
そう言ってエドワードの手を取るアリスは、文句の付けようがない程美しく、アリスを優雅にエスコートするエドワードもそれは美しかった。この2人、表面上はまるでお似合いのカップルだが、実際には全くそうではない。にこにこと表面を取り繕い、優雅で優等生な人間を演じているだけなのだ。そんな2人は、エドワードのエスコートの元、王宮の応接室へと歩いていった。
「さて、アリス嬢。先日はどうもありがとう。ついては君に何かお礼をしたいんだけど、何か欲しいものはあるかな?」
キラキラした王子様スマイルを浮かべるエドワードに、アリスは先程まで作っていた令嬢らしい微笑みを引っ込めて冷やかな視線を送る。
「そうですね、では手始めにその被った猫を脱いで頂けたらと」
「何のことかな?」
「私と殿下とその最も信頼する側近が1人ずつ。構いませんよね。では申し上げます」
そうしてアリスは息を吸うと、少しだけ口調を変えた。
「おい、アリス、大丈夫か」
「うっ」
「お前何で、あぁクソ」
「ぐっ」
「良かった、びっくりさせんなよ。あ、えっと———アリス嬢、大丈夫かい?」
「分かったもう良い」
そうしてエドワードは深い深いため息を吐いて———綺麗な王子様の仮面を外した。
因みに今アリスが再現したのは、事件でアリスが怪我を負い、それに慌てたエドワードの反応と、傷がそこまで深くないと知ったときのエドワードの反応である。
仮面を外した王子様は、アリスを軽く睨むと再びため息を吐いた。睨む顔も綺麗だとアリスが考えていたのは内緒である。
「それ、誰かに言ったか」
「メイ以外には誰も」
「そうか」
(始末するかどうかを考えてるのかしら。そうなると王家とフィオル伯爵家で全面戦争ね。少し面倒だわ)
などとアリスが考えていると、エドワードが言った。
「よし、分かった」
「処分は決まりましたか?」
「何だ処分って。そんなことはどうでもいい。1つ、お前に聞きたいことがある」
「なんなりと」
そして一瞬だけ間を置いて、エドワードは問う。
「何故俺を助けた」
何を聞かれるか——それこそフィオル伯爵家の機密情報から自身のスリーサイズまでを思い出していた——と身構えていたアリスは、その問いに拍子抜けした。何だそんなことかとアリスは答える。
「目の前で人が死ぬかもしれなかったんですから、助けるに決まってるじゃないですか」
「っ———。そう、か。そうだな。———もう1つ聞きたい」
今度は割とすぐに質問がきた。
「お前、俺のことが嫌いだろう」
「っ——————そ、そんなことはないですよ」
「嘘だろ」
無論嘘である。因みにこの動揺したような態度も半分は嘘だ。動揺はしても、それを態度に出すようなアリスではない。
「まっ、そうですね。殿下のあの薄っぺらい笑みが好きではないので。でも殿下も私のこと嫌いでしょう」
「ああ、そうだな。いや、正確に言うと———」
何だかブツブツ言っているが、無視することにする。そしてアリスが窓の外へと目を彷徨わせたとき、少し俯いていたエドワードが顔を上げた。その顔にはあのキラキラした笑みは浮かんでおらず、アリスはつい言いたくなって、
「その顔の方が、貴方に似合ってますよ」
と少し揶揄った。ところがエドワードがその言葉に下を向いてしまったので、アリスは少し焦った。
「殿下?」
「・・・で良い」
「何とおっしゃいました?」
「エドワードで良い」
その少し拗ねたような口調を訝しみながらも返事をすると、エドワードは顔を上げた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいて、訳が分からないとアリスはため息を吐いた。
その後、招待状通り王宮の案内をされ、日も沈んできた頃、アリスは庭園の端にある塔に案内された。
「ここは?」
「僕のお気に入りの場所だよ。よく勉強とか稽古の休憩に来るんだ」
そう言って、エドワードは薄暗い塔の中の階段を上がっていく。アリスもそれについていくと、上の方からオレンジの光が見えた。
「わぁっ」
階段を上がりきり、塔の上から王宮を眺めたアリスは歓声をあげた。広大な王宮と、その向こうに広がる王都の街並みが、美しいオレンジ色に染まっている。隣に並んだエドワードが、亜麻色の髪をオレンジに染めて笑う。
「どう?きれいだろう」
アリスは心ここに在らずの状態で返事をする。それほどまでに塔の上からの景色は美しかった。
「ええ、とても」
「君に見せたかったんだ」
そこで徐に言葉を切ったエドワードをアリスが見上げる。夕日の光は強くて、2人の姿は影になる。
「あの日、君が馬車で言ったこと。あれは事実だよ」
「あれ、というとエドワード様が王位を継ぐ意思がないということですか?」
「ああ。君を最初にお茶会に招いた理由も当たり。本当に頭が良いんだね。何で僕は君のことが嫌いだったのかな」
「そういえば、何故ですか?」
「ふふ、君があんまり無表情だからだよ。本心が見えなくて困ったんだ。僕が言えたことじゃないけど」
話し方と表情こそ取り繕っているが、内容は本心のように思えた。奇しくもアリスと同じ理由である。
「でも、君のことをよく見ているとね。ほんの少しだけ、表情に変化があることに気付いたんだ。ちょっとだけね。それが何だか面白くて」
「それで私を街歩きに誘ったんですか?」
「いや、あれはね。ノアが勝手にやったことなんだ。突然ごめんね」
ノアはエドワードの側近だ。先程の大暴露大会(アリス命名)の場にもいた。アリスのクラスメイトでもある侯爵家の三男である。
「お気になさらず。私の方もメイが勝手に返事をしていましたから」
そう言って、アリスはほんの少しだけ口角を上げた。取り繕った笑顔ではない、殆ど誰も気付かないようなささやかな笑みだ。それに気付いたエドワードもまた笑う。瞳の奥に小さな本音を滲ませて。
「ねえ、アリス嬢。君に伝えたいことがあるんだ」
そう言うと、エドワードは徐にアリスの隣に跪く。そしてそっと手を差し伸べた。
「アリス嬢、僕と婚約してくれないかい?」
「———へ?」
こうして冒頭に戻る。
2週間前の事件から現在に至るまでの経緯を思い出していたアリスは、目の前に跪くエドワードを見下ろして困惑していた。エドワードの碧色の瞳の奥には熱い意志が見えて、兎に角何か返事をしようとアリスは口を開きかけ、これは何と答えれば良いのだろうと再び困惑した。単純にはイエスかノーだが、王族からの要請にノーは禁物である。だが———。
「ごめんなさい。私は今お答えすることは出来ません。ですから———」
エドワードが差し出した手をぐいと引っ張り、立ち上がらせたアリスはエドワードを見上げて言う。
「よく話し合ってから決めましょう」
アリスの真っ直ぐな瞳に射抜かれたエドワードは、敵わないと笑って、今度はエスコートの為にアリスへ手を差し伸べた。
「何故私に?」
エドワードの部屋で『話し合い』が行われた。立会人はノアとメイの2人である。エドワードは少し照れたように答える。
「君が———好き、だから」
「君?突然どうされたんですか?」
「ああもう!素でこんなの言うの恥ずかしいだろ!」
「ほう、ではそれは貴方の素の思いではないのですか?」
「っ———本心だ」
「ではもう一度はっきりと」
「好きだ!お前のことが好き!」
突然黙り込んだアリスを、半ば自棄になって叫んだエドワードが不思議に思って見てみると、何故か俯いて震えている。
「アリス?」
「は、はい」
そう言って顔を上げたアリスは———真っ赤な顔で涙目になっていた。
「うぐっ」
それを見て今度はエドワードが真っ赤になったが、アリスは落ち着いてきたのか顔色と表情をすぐに元に戻した。
「どうされました?エドワード様」
「お前なぁ」
その様子を黙って眺めていたノアとメイは必死で笑いを堪えている。どうして告白でこんな流れになるのか。
そこからアリスの怒涛の質問ラッシュである。
「私のどこが好きなのですか?」
「ぜ、全部?」
「では具体的な例を挙げてください」
「性格?」
「どんな?」
「その、誰にも物怖じしないところとか、貴族的な価値観も持ってるけど庶民の感覚もきちんと持ち合わせてるところとか、落ち着きがあって、慢心しない努力家で、家族思いで、それから・・・」
「も、もう結構です。性格以外には?」
「見た目とか、あとはその能力も素晴らしいと思う」
「能力?」
「勉学、特に数学は凄く優秀だ。それ以外にも知識が多くて博識。淑女としての振る舞いも完璧で、聞けば領主の仕事も半分は出来るんだろう?」
「実際にやっているのは3割ですが」
「それでも学園に通いながらやっているのは凄い」
「ありがとうございます」
「それと・・・」
「その辺で結構です!」
「それと、あと1つだけ。これだけ言わせてくれ。俺のことを、第二王子じゃなく、ただ1人の人間として扱ってくれた。そこが、一番の決め手だった。嬉しかった。ありがとう」
「い、え。私は・・・」
「アリス?」
俯いて言葉を詰まらせたアリスに、エドワードは声を掛ける。そして、顔を上げたアリスの瞳には強い意志が宿っていた。
「その、私、エドワード様にお伝えしなければならないことがあります。信じてくださるかは分からないのですが」
「大丈夫だ。話してくれ」
「私には前世の記憶があるんです」
その言葉に最初に反応したのはメイだった。
「アリス様———!」
「メイ、これは伝えるべきことだわ」
「っ———、差し出がましいことを」
「いいえ、ありがとう」
この2人の反応から、自ずと先程の言葉の真偽が分かる。信じ難いことだが———。
「本当に、あるんだな。前世の記憶が」
絞り出すように言ったエドワードにアリスが淡々と答える。
「ええ。あります」
「その、詳しく聞いても良いか?」
「はい」
アリスは無感情な声で語り出した。
私は前世では地球という惑星の日本という国に住んでいました。いえ、恐らくこの世界とは違う世界だと思います。何しろ魔法が存在しませんでしたから。別に不便ということはありませんでしたよ。なければないなりに暮らすものです。そこで生まれた私は3歳で両親と死別しました。事故です。兄弟もおらず、引き取ってくれる親戚もいなかったので、1人で施設に入りました。ええ、孤児院のようなものです。私は施設で育ち、18歳で施設を出て、国からの援助をもらいながら一人暮らしをしていました。学校へは6歳から22歳まで通いました。日本では6歳から15歳までは学校に通うことが国民の義務になっていました。今考えると凄いことですね。少し話は逸れましたが、その後は仕事の為に専門的なことを各々が学びます。私は数学について勉強していました。大層なものではありませんでしたが。その後就職して、25歳まで働いていた———記憶はあります。恐らく25歳で死んでしまったと思うのではっきりとはしませんが。え、ああ。死にましたよ。25歳で。歩いていたらトラック———大きな馬なし馬車とでも言いましょうか。それが突っ込んできたところまでは覚えていますが、その後はさっぱり。だからそこで死んだのではないかと。長くなりましたが、これが私の前世の概要になります。
一通り、大して長くもなかった一生を語り終えたアリスは、そこで少し息をつくと、何処か宙を彷徨っていた視線をエドワードに向け、話の続きを始めた。
「ここから私が何を言いたいのかというとですね。殿下が挙げてくださった私の長所の一部、いえ大半が、私の前世の記憶に起因するものであるということです。権力者に物怖じしないのは、全ての人が平等だとされる世界にいたから。庶民の感覚が分かるのは元庶民だったから。年の割に落ち着きがあるのは・・・あまり言いたくありませんが、32年分の人生経験があるからですね。16年も勉強していましたから勉強には慣れていますし、特に数学に関しては前世の知識がかなり役に立ちました。家族思いなのは———」
そこで一瞬躊躇って、しかし何事もなかったように続けた。
「前世で家族を失ったからです。王族はいない国に住んでいたので、王族を敬う感覚に慣れていないだけですし、だから———」
少しだけアリスの口調に熱が籠もった。
「ですから、殿下が私のことを・・・好きになってくださったのは、殆どが勘違いのようなものというか。だから———」
そのとき、アリスの正面の椅子に座っていたエドワードがぐっと身を乗り出した。碧色の瞳がアリスを映し、微かに熱を帯びる。
「だから、婚約は出来ないと?そんなこと関係ない。前世の記憶があろうとなかろうと、俺が好きになったのはお前だ。俺が聞きたいのはそんな言葉じゃない」
そしてずいとアリスに顔を近付けた。
「お前が俺と婚約したいのかどうかだ」
間近に迫ったその美貌に、アリスは息を詰める。
婚約したいのかどうか。貴族の令嬢として生きてきたアリスは、婚約者を選べない。それが当たり前だと思っていた。思い出したのは、兄の言葉。
『アリスが好きな相手と婚約すれば良いさ。もし誰ともしたくないなら、ずっと領地にいても良いんだぞ』
それでは貴族の令嬢としての役割を務めることが出来ないと言ったアリスに、兄は笑った。
『そんなの気にしなくて良い。もし文句を言う奴がいたら、俺が相手してやるさ』
自分はどれほど恵まれているのだろうか。兄も弟も、使用人たちも皆優しい。目の前でアリスを見つめる王子もまた。本来であれば王族の申し出を断れないアリスに、選ばせてくれる。ならば自分も、応えなければ。その優しさに。
「エドワード様」
アリスの言葉に、エドワードは乗り出していた体を椅子に戻し姿勢を正した。
「私は———現時点では貴方のお気持ちに応えることが出来ません。私は貴方を異性として意識したことがありません」
その言葉に、エドワードの顔から少しだけ血の気が引く。顔に出さないよう教育を受けていてこうなのだから、内心のショックは計り知れない。それを感じ取りながら、アリスは続けた。
「ですが———」
エドワードがはっと、少し俯いていた視線を上げる。
「この国の臣民として、貴方を支えていきたい」
「それは———」
違う、と続けようとしたエドワードの言葉を遮って、アリスが言い連ねる。
「そして、それ以上に。全てをその仮面の下に隠して抱え込んでいる貴方を、支えていきたい。その仮面の下に隠してきたものを、知りたい。だから、ステラ王国第二王子であるエドワード・ステラ殿下」
アリスは身を乗り出してエドワードの手を取った。その暗い紺色の瞳で、エドワードの碧色の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。
「貴方との婚約を、お受けします」
暫くその場に静寂が漂った。誰も何も言わず、身動ぎもしない。
初めに声を発したのはエドワードだった。
「よ———」
「よ?」
首を傾げたアリスの手を取ったまま、エドワードは飛び上がった。
「よっしゃーーーーー!」
それは王宮中に響くほどの大声であった。
そう、王宮中に響くほどの。
「殿下、どうされました!?」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは王宮勤めの執事である。王宮に勤めてこの道50年。王子たちを赤子の頃から知っていた彼は、そんな王子、しかもいつも穏やかな第二王子が大声で叫んだのを聞いて、老体に鞭打って駆けつけたのだ。
「えっ、あ、えーと・・・。そ、そのだな・・・」
エドワードは常にないほど目を泳がせて、言い訳を考えた。そして彼の優秀な頭脳が導き出した言い訳がこれである。
「て、テストで分からなかった問題をアリス・・・嬢に教えてもらって理解出来たから、その嬉しさのあまりに、ね」
苦しいどころではない。何処にテストの問題が分かったからと叫ぶ人間がいるのか。普通なら聞き返すところだが、その執事は冷静かつ有能だった。アリスと繋がれたままのエドワードの手。今朝やけにそわそわしていたその様子。紅潮した頬に、慌てまくって言葉も崩れたエドワード。とどめにノアからの目配せ。これは———。
事情を察した有能な執事は、さっと頭を下げて淡々と言った。
「左様でございますか。これは失礼いたしました」
ほっとした様子を見せたエドワードを横目に、アリスは頭を下げた執事を見据えた。
(彼、エドワードの正体に気付いてるわね。大分王宮勤めも長そうだし、幼少から見ていたのかも。そう考えると、エドワードの中身を知ってて何も言わない人も結構いるんじゃないかしら)
そのことに、アリスは安堵を覚え、と同時にその自分を不思議に思った。そして考え、納得するに至った。
(ああ、そうか。エドワードを見守ってる人はちゃんといるんだって思ったから安心したのね。彼が1人じゃないって分かったから)
なんだかんだ、アリスはエドワードを結構気に入っていたらしい。それなら彼と婚約というのも悪くはない、とアリスは思った。
執事が退室し、何故かメイとノアもいなくなって2人きりになった部屋で、エドワードがアリスに向き合って言った。
「アリス」
「はい」
そして一歩距離を詰めてくる。反射的にアリスが後退ると、エドワードは更に距離を詰めてくる。そうしてずるずる後退し、気付けばアリスは壁際まで追い詰められていた。
「で、じゃない、エドワード様、何でしょう」
「———アリス、お前は今俺が好きでも何でもないだろう。嫌いでさえいるかもしれない。だがな———」
エドワードは身を乗り出し、アリスの耳元で囁く。
「すぐに俺を好きにさせてやるからな」
過保護な人間に囲まれて育った箱入り娘のアリスは、男性への耐性などないに等しい。よって、耳元で囁かれた甘い言葉にアリスはすっかりやられてしまって腰を抜かした。何とも哀れな話ではないか。
「アリス!?」
突然腰を抜かしたアリスにエドワードは驚きながらも、咄嗟に腕でアリスを抱えて支えた。抱き付くようなその体勢に、2人の心臓が同時に跳ねる。しかし動けないアリスは離れる訳にも、またエドワードは離す訳にもいかず、2人はしばしドキドキしながらその体勢でいた。
そこに最悪とも言えるタイミングで———。
「おーい、エド、そろそろ、っと・・・。あー、邪魔したかな」
ノアが入ってきた。ノアは2人の状況を見ると気まずそうに頭を掻き、また扉から出ていこうとするので———
「「ちょっと待った!」」
と2人が声を揃えた。これによってアリスは調子を取り戻し、さりげなくエドワードから離れたのだが、エドワードが少し残念そうな顔をしたのは見間違いだと思うことにする。
「ええ、エドワード様もお忙しいですよね。私そろそろ失礼しますので。本日はありがとうございました。では」
アリスが早口で捲し立て、部屋を出ていこうとするのをエドワードが呼び止めた。
「アリス!・・・また、学園で」
「・・・ええ、また学園で」
アリスは頭を下げると、今度こそ部屋を出た。エドワードの言葉で思い至ったが、学園に行けば大変なことになるだろう。何せエドワードは———学園の生徒である令嬢令息からすれば———完璧でかっこいい王子様なのだ。妬み嫉みが凄いに違いない。これは面倒だとアリスは心の中でため息を吐いた。
外に出ると、既に馬車が用意されていて、アリスはメイの周到さに舌を巻いた。そのメイの姿を認めると、アリスはそちらへ駆け寄った。
「メイ、そろそろお暇するわ。馬車の用意ありがとう」
メイは笑って答えた。
「いえいえ。それよりお嬢様、どうされたんですか?」
「何が?」
「だって」
するとメイは満面の笑みで、指先で軽くアリスの頬をついた。
「とっても嬉しそうですよ」
「嬉しそう?私が?」
面倒なことになったと思っていたのだが、どうしたことだろう。
「はい、本当に」
表情が乏しいアリスだが、幼い頃からの仲であるメイがその表情を見間違うことがあるだろうか。何か良いことがあったかとアリスが考えていると、メイがにこにこと言った。
「やっぱり、王子殿下との婚約は嬉しいですよね!」
「え?」
なら、アリスはエドワードとの婚約を嬉しそうにしていたというのか。あり得ない、と思うがしかし、それ以外にアリスが嬉しそうにする原因もないようにも思えた。
(まさか、ね)
メイの勘違いだろうと件の問題を片付けて、アリスは馬車に乗り込むと、婚約報告の為、メイに兄へ先触れを出すよう頼んだ。頬杖をついて窓の外の王宮を眺めるアリスが、鼻歌でも歌い出しそうに見えたのは、メイの心の中の秘密である。
読んで頂きありがとうございました。
いつか連載が出来たら良いなと思っております。




