エレン・アーヴィンは猫を継ぐ。
――大同盟暦118年8月10日
「……ふっ!……ふっ!……ふっ!」
汗が首筋を流れ、顎先より垂れた雫は胸元へと落ちる。
夕暮れの草原にて、全身を汗に塗れさせた少女は、左右の手で交互に腰の拳銃を抜いては戻すという動きを繰り返していた。
「どうしたエレン?1時間前より遅いわよ」
声をかけたのは車椅子に座る、痩せて皺だらけの女、ヴァネサ。
「……はぁ……うるせえ……クソババア……黙ってろ」
息も絶え絶えに返答する少女エレン。黒に近い茶色のブルネットを掻き上げ、再び銃の抜き撃ちを続ける。
――ダン!
彼女の目の前を銃弾が掠めた。
車椅子の上、ヴァネサの手には一瞬前まで無かった、硝煙を吐く拳銃。
「肘が落ちているわ。極限状態でも同じ動きが出来なくては無益」
地獄のような訓練の日々。毎日、朝から晩まで、場合によっては寝ている時も攻撃され、奇襲への対応の訓練。
「ふざけやがってクソが!」
エレンは右手の銃をヴァネサに向ける。ヴァネサは動かない。彼女の胸元に光る首飾り。
エレンの指は引金にかかり震えるも、引かれることなく銃はホルスターへと戻された。
「撃たないのかい。まあ撃ってたら死んでいたのはお前だけどねぇ」
エレンは舌打ちする。
ヴァネサの胸元の首飾り、それは極めて強力な〈矢返し〉の魔術が付与されたもの。もしエレンが引き金を引いていたら、銃弾はエレンの身体を穿っていたであろう。
「ちっ、クソババアめ……」
「ほら、じゃあ銃夫やるよ、かかってきな」
ヴァネサは膝掛けを退かし、車椅子から立ち上がる。白髪混じりの金髪に皺だらけの痩身。
死を待つ老婆のような彼女の両手には黒光りする拳銃。銃把には猫の影絵のあるそれは現代では製造できない西暦か黄道暦の頃に作られたであろう年代物。そして腰には太い革製のガンベルト。だが異様なのはその脚であった。
現役の格闘家のような脚。上半身に見合わぬ力強い脚が裾から金属光沢のある足首を覗かせる。
機械義足だ。
「らぁっ!」
エレンが突進し、拳の間合いでヴァネサに銃口を向ける。ヴァネサは銃身に手の甲を当てて銃口を逸らす。
ヴァネサの逆の手の銃がエレンに。同様にエレンが手の甲でそれを払う。
互いの銃口の前に身体が入らないように高速で銃を払い続ける。それは功夫、東方より来たる漂泊の民たちの扱う武術の訓練を思わせるものであった。
時折銃が火を噴く。だがそれは僅かな首の捻りやサイドステップで躱される。小刻みに動いて隙を窺うエレンに対し、ヴァネサは不動。
そして無数の攻防の後、ついにエレンが左回りの動きからフェイントを決めて右へと身を切り返し、ヴァネサの背に回り込んだ。
(もらった!)
ヴァネサの左手は前へと伸び、右手は身体が邪魔で撃てない位置。エレンはヴァネサの左側を正面に捉えている。
「死ねクソバ「甘いわ」!」
ヴァネサの左手の銃が火を噴く。それは誰もいない虚空を撃つ。
だがその反動を利用して加速された肘がエレンの顔を捉えた。
「がっ……!」
吹き飛ぶエレン。
ヴァネサは起き上がるエレンの額に銃を突きつけた。
「何年もやっててクソババアに負けるんだからね。エレンはクソ未満だなぁ」
ヴァネサは皺だらけの顔を歪めて笑った。
「いいかい、クソ未満。お前の蠅より小さな脳味噌でも理解できるように何度でも言ってあげる。〈矢返し〉の術式は銃口が体表から30cm以内なら発動しない。それを僅かでも超えたらお前の身体に風穴が開く。
だけど、至近で撃てば良いってもんでもないのよ。銃夫は拳の射程を伸ばす技でもあるの。お前はまだ銃口を15cm程度まで近づけている。今の攻防の中、何度か25cm先で隙を作ってやってたんだけどね。それが撃てなきゃお前はいつまで経ってもクソ未満よ」
「畜生がっ……!」
訓練は連日続く。
走り込み、筋トレ、隠密行動、奇襲、格闘、精密射撃、抜き撃ち、組手……
遺都ヴァルゴより東。魔界が近く、放棄された村の屋敷にヴァネサとエレンはただ2人、修行の日々に明け暮れていた。
かつては放牧なども行われていたであろう豊かな平原。だが今は人影はなく、ただ毎週一度、食料品と使用した弾薬、ヴァネサの薬を持ってくる無口な壮年の運送屋が唯一の外界との繋がりであった。
だがある秋の昼下がり。
運送屋が一人の男を連れてきた。それはエレンがここにきてから初めてのことであった。トップハットにロングコート。手には革張りのトランク、目には片眼鏡。紳士然とした男がこちらに歩みを進め、運送屋は荷物を置くとさっさと出発してしまう。
「久しいな、カッツェ」
「ええ、久しぶりね、ドクトル」
ドクトルと呼ばれた男はヴァネサを旧知の友であるかのような親しげな声で彼女をカッツェと呼んだ。
そしてエレンに向き直る。
「私はドクトル。13竜騎兵が1、ドクトル。オスヴァルト・デングラーだ」
「あんた孤児院の巡回の医者の先生じゃ……」
エレンは呆然とした表情で呟き、男は笑みを見せる。
「憶えているのかね、エレン・アーヴィン、次代のカッツェよ。
そう、孤児院から才ある少年少女を13竜騎兵という悪の組織に引き込むのがわたしの仕事だ」
こうして男が生活に加わり、ヴァネサとオズヴァルトは2人で話すことが増えた。
組手だけはヴァネサがやってくるが、それ以外の訓練の最中には横にいない。
うるさいのが消えてせいせいした。そう呟きつつも、なんとなく面白くない気持ちを抱え、エレンは一人訓練を続ける。
ある夜、ヴァネサが寝床に向かった後、エレンはオズヴァルトに呼び出された。
虫の声しか聞こえないような夜。僅かなランプに照らされてオズヴァルトはキッチンから声をかける。
「呼び出して悪いな。座って待っていてくれ」
エレンが座って窓の外に浮かぶ3つの月を眺めていると、オズヴァルトは2つのマグカップを手にして向かいに座る。
差し出されたカップからは高級品であるココアの甘い匂いがした。
「……なんだよ。呼び出して」
「ヴァネサの寿命は保ってあと数日だ」
「は?」
いきなりそう切り出したオズヴァルトの言葉に脳が追いつかない。
「クソババアが?冗談はよせ。今日も組手であたしをボコるほど元気なのにか?」
「君がクソババアと呼ぶヴァネサだが、まだ30歳にはなっていない」
「はぁ?どう見てもババアじゃねえか」
「彼女の機械の脚を知っているな。拒絶反応だよ。何年も前から内臓に重篤な症状が出ている。年老いて見えるのはそのせいだ」
「おい……じゃあアタシも……」
「ヴァネサは極めて高い運動神経・戦闘能力を有していたが、機械義足との適合率はあまり高くなかった。
君は『孤児院』の中から適合率が最も高い子を選んで育てている。歴代の適合者と比べても非常に高い数値だ。……彼女のようになる可能性は低い」
無いとは言い切れんがね。そう続けてオスヴァルトはカップを傾ける。
「……アタシが手術を断るとどうなるんだ」
「ふむ。機械義足の適合率が高い継承者はいずれまた出るだろう。だが黄道暦より歴代のカッツェが継承してきた銃夫の技術は潰えるな」
エレンには答えられない。
かつて孤児院から病院へ。そこで色々と血液を取られ運動神経を測定されながらも苦しいトレーニングを課されてここへ連れてこられた。
そしてヴァネサから2年に渡り、地獄のような銃夫の修行をつけられていたのは何だったのかと。
「考えなさい、エレン。明日ヴァネサが最後の修行をつけると言っていた」
「なんで、そんな突然」
「我らが敵は世界そのもの。強大で、どこにでも潜む。故に突然の変化にも冷静に対応を求められるからだ。前日に伝えたのはまだ温情だよ。
……ではおやすみ」
オズヴァルトは飲み干したカップを持ってキッチンへと立った。
エレンの手には冷えたココアが残された。
翌朝は好天だった。
いつもの訓練をする平原には殆ど眠れず酷い顔のエレン。その前に、オズヴァルトに車椅子を押されてヴァネサがやってくる。
「おはよう。さあ、クソ未満、最後の訓練よ。命令は単純。生き残りわたしを殺せ」
ヴァネサはそう告げて車椅子から立ち上がる。立ち上がっても普段はそのままエレンを待ち構える戦法を取っていたヴァネサであるが、今日はそのままエレンに向かって歩を進めた。
「……動けるのかよ」
「クソ強い鎮痛剤をうったからね。10分は保つわ」
「……死ぬのか?」
「ええ。今日はわたしの最後の日。
聞いたんだろう?どのみちわたしは死ぬ。ただ、その前にお前がわたしに殺されるのか、生き残るのかはまだ分からないわ。
構えな」
そう言うや否や、ヴァネサの姿が掻き消えた。地面が抉れ、千切れた芝が舞う。
エレンはその場で屈み込む。先程まで頭があった場所に拳銃が突きつけられ、もう一丁の拳銃がエレンの胴を狙う。それを抜き撃った拳銃の銃身で払ったところで脚。
鋼の脚がエレンの脇腹に突き刺さり、彼女の身体が鞠のように吹き飛ぶ。
「ぐえっ……」
蹴りの威力を殺して跳んだにも関わらず酷い衝撃。
胃液を芝生の上に吐いてさらに飛び退る。
「機械義足は神速の移動だけではない、強力な打撃力も有するわ」
エレンは距離をとって立ち上がるが、その距離を刹那で詰めたヴァネサの銃がエレンを捉える。エレンはそれを払う。銃夫の組手の通りだから捌ける。……だが。
ヴァネサの機械義足が閃き、脚を払われたエレンは転倒する。そのまま踏みつけられんとするが、そこを転がって回避。回避しながらも銃を脚に突きつけて発砲。エレンの拳銃が火を噴いた。
だがヴァネサの姿はそこにはない。再び刹那のうちに距離を取られている。
「悪いね、エレン。今日は脚が全開なのよ」
「クソったれが、普段の組手でも勝てねえのに、勝てるわけ無いじゃねえか」
「そうね。じゃあ負け犬のクソ未満にちょっと話してあげる。13竜騎兵というわたしやドクトルの所属する悪党一味についてね。
名前の通り、13人の構成員からなる組織だけど、欠員やドクトルみたいな頭脳派もいるから、今現役で戦えるのは6人くらい?
お前はわたし、カッツェがその6人の中でどれだけ強かったと思う?」
「誰とも会ったことがねえんだから知る訳がねえ。最強とでも言うのか?」
「最弱よ」
「……マジか」
「速度じゃヴォルフに負け、近接の戦闘術じゃシュトルムにもシュヴァートにも及ばない。ファルケ相手ならこちらの間合いにも入れないわ」
ヴァネサは最弱を名乗りながらも清々しい表情でエレンに告げる。
「お前の人生には今後どう立ち向かっても勝てない奴らが立ちはだかるのよ。
だからこんなクソババアくらい、勝てるようにならなくては困るの。今のわたしにも負けるくらいのクソ未満なら、13竜騎兵にいる価値がない」
エレンは立ち上がり、ステップを踏んで間合いを詰める。
再び交差する拳と銃。
エレンは組手のさなかに先ほど倒れた時に握り込んだ土をヴァネサの顔に向けて撒き散らした。
風上を取って風下のヴァネサへ。
だがヴァネサの姿は消える。一瞬でエレンの背後を取って埃の範囲から逃れ、逆にエレンを土埃の中に蹴り押した。
「お前の良いとこは生き汚いことだ!だが甘いわ!」
バランスを崩すエレンに向けて発砲。
エレンは転ぶように回避、その左肩を銃弾が掠める。
「痛ってえ!」
再び向き直って組手。
左肩から血が滲み、垂れる。傷を負った分、左手側の動きが僅かに遅くなり、エレンの左手の銃が跳ね飛ばされた。
エレンは一歩後退。靴から左足の踵を抜くと、蹴りと同時にヴァネサの顔目掛けて放る。
「ふん?」
ヴァネサの首飾りがきらりと光る。〈矢返し〉の術式が反応して、靴は逆にエレンの方へと飛んでいった。
エレンは空いた左手でそれを掴むと、靴に仕込んだナイフを抜き放ってヴァネサに斬りかかる。
「シイッ!」
ナイフは銃身で受け止められ、銃と銃、銃と刃が絡み合う組手が再開される。
「なるほど、ユニークね。でもそれでは足元が安定していないわ」
ヴァネサがエレンの右足を払うと、草の上で靴下が滑りエレンは転倒した。
エレンは悪態をついて靴下を脱ぎ捨てつつ立ち上がる。左足が剥き出しに。
エレンの劣勢は続く。
彼女は蹴りを放った。
回し蹴り。左脚が鞭のようにしなり、ヴァネサを狙う。
――ダン!
銃声。
「ぐうっ……!」
エレンの脚に銃弾が穿たれた。飛び散る鮮血。
倒れるエレン。
「わたしを越えられないか」
「いや、クソババアの負けだ」
――ダン!
エレンの拳銃からたなびく硝煙、ヴァネサの胸から血。
ヴァネサは銃を取り落として胸を押さえ、はっとした表情となる。
「……そうか……護符を」
エレンの左足、親指と人差し指の間に挟まっているのは〈矢返し〉の首飾り。
「足癖が悪いんだよ」
「そう……それでいい……。やりゃあできるじゃないかエレン。
格上相手に戦うには……機転が必要だ。お前は銃夫のルールを破って勝った。それでいいんだ」
ヴァネサがどさりと倒れる。脚を引きずり、這いよるエレン。
「クソババア……」
「いいか、エレン。……お前に継がせてやれるものはこの脚と二丁拳銃と……そしてカッツェの名しかねえが。……いるか?」
「いるよ!」
「そうか、じゃあ安心して逝けるわ。
新たなる13竜騎兵、カッツェ、エレン・アーヴィンよ。お前の人生が……クソみたいな戦いと共にあらんことを。……じゃあな」
そうしてヴァネサは死んだ。
翌日、エレンはオズヴァルトの手術に同意する。
見たこともない透明な部屋の中で真白の服を着た彼に注射を受けて意識を失い、目が醒めた時に腿に触ると冷たく硬い金属の感触がした。
「クソババアは……」
「起きたかね。手術は無事成功した。急性の拒絶反応も無く良好だ。動かせるか?」
エレンが脚をすこし上げようと意識をやると、金属の脚は高く掲げられる。
「後はその脚を使う訓練だな。そのメニューはヴァネサが纏めた教本がある。必要なものがあれば言いたまえ」
「ババアは……」
「埋葬したよ」
――大同盟暦119年2月1日
冬の冷たい風が遮るもの無く吹きつける平原、地面には簡素な隆起とその上の台。
そこには石造りの猫の像が置かれ、その正面は少女。
彼女の腰には二丁の拳銃。その銃把には猫の影絵。
そして金属の脚。
彼女は手にしていた真新しい酒瓶を開封すると、石造りの猫にだばだばとかける。
「そういや、死ぬ前の1年は全く飲むの見なくなってたよな……」
背後から男の声。
「別れは済ませたかね」
「ああ、ドクトル」
少女が振り返る。
「では最初の任務だ、若きカッツェよ。遺都ヴァルゴ北部の町、ミューレベッカーに行きシュヴァートのサポートに回れ。詳細はこちらに」
オズヴァルトは手紙を差し出し、エレンはそれを受け取った。
「分かった。……行ってくるぜ」
言葉の後半は物言わぬ墓石に。
一陣の旋風が枯草を巻き上げ、オズヴァルトの眼前からエレンの姿が掻き消えた。
――To be continued.
→イングリット・グラッツナーの特筆すべきことの無い日。
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