【驚愕】こんなに違う人間と狼!
■ 人間と狼の違い
人間と狼とは一見よく似ているが、実際には微妙だが決定的な違いがある。
人間と狼の違いを指摘できる人は、どれだけいるだろうか? ほとんどいないのではないか。
私の曾祖母は人間だが、私はほぼ純粋な狼である。狼だけからなる群れで、狼の文化のもとで育った。いくつかの縁が重なり、ケベックのコミュニティカレッジでイングリッシュとジャパニーズを学んだ。そして卒業以来、ほとんどの年月を人間社会で過ごしてきた。
人間の文化が理解できずに苦労したこともあったし、自分の考えを理解してもらえずに混乱を生じてしまうこともあった。しかし年齢を重ねる中で、人間と狼の違いについて、自分なりに整理された見解を得た。
今では純粋な狼の絶対数は減少し、人間社会で暮らす狼の絶対数もまた非常に少ない。多くの人間にとっては、狼は知識の上での存在であり、もはや身近な対象ではないだろう。そのため、私がかつて人間社会に入った時に比べて、狼の文化への理解は減ってしまったと感じている。
ゆえに、人間と狼の性質がどのように異なっているか、書き残しておきたい。書き残すことが、これまで親切にしてもらった人間達への報恩にもなると思っている。
■ 嘘をつかない死を恐れない
狼の何よりの特徴は、嘘をつかないことと、死を恐れないことである。
私達は嘘をつかない。この感覚は人間には理解されてない。
私達の平均的な知能は、確かに人間よりもずっと低い。だから、私達が嘘をつかない性質は、私達の愚かさゆえだと見なされがちだ。しかし、人間は嘘をつく動物だから、そう感じるにすぎない。
私達の感覚からすると、単に自分達が愚かだから自分達は嘘をつかない、という感覚は無い。私達は、嘘をつくことでどういった利益があるか、その因果関係をそれなりに理解したり想像したりすることはできている。分かっていても、嘘をつくことは、非常にまどろっこしい、面倒で不毛なことに思えるのである。
私達にとって、嘘をつくことは面倒くさい。とても馬鹿げたことだと直観される。だから私達は嘘をつかない。
狼は馬鹿だから嘘をつかない、といった発想は、異文化理解の不足によるものにすぎない。
さらに言えば、私達は死を恐れない。
人間とコミュニケーションを取っていると、言葉の裏に脅迫のようなものを感じることがある。どうされたくなかったらどうしなさい、とか、こういう損失に見舞われたくなかったらこう振る舞うしかないよ、とか。その時、私達はいつも、大きなコミュニケーションギャップを感じている。
というのも、私達には、恐怖という感覚は無いのである。よって、人間のような恐怖心があることを前提として、ギブアンドテイクみたいな話をされると、ぽかーん、となってしまう。
私達の文化的な感性の説明としては、よく知られた次のジョークは的を射ている。
豪華客船が沈没しそうになった時、海に飛び込むよう促すためには何と声をかければよいか?
・アメリカ人に 「今飛び込めばあなたは英雄ですよ」
・イタリア人に 「美女達も泳いでいますよ」
・フランス人に 「決して海に飛び込まないでください」
・ドイツ人に 「規則ですから飛び込んでください」
・日本人に 「みなさん飛び込んでいますよ」
・狼達に 「臆病者は飛び込まないみたいですよ」
このジョークはよくできていると思う。
つまり、私達を脅迫によって動かそうとするのは、理屈が逆だ。損を恐れるのは人間の発想である。私達は、自分自身の名誉が傷つくことを第一に恐れる。
■ 名誉と美徳
嘘をつかず、死を恐れない。そう言うと、それは言いすぎだと指摘されるかもしれない。
確かにそれは言いすぎだ。例えば熊を前にした時、狼の一頭として怪我も死も恐れないとまで言い切れない。
嘘をつかず、死を恐れないことは、もっと正確に言えば、私達の魂が感じる美徳というか、そうありたいという衝動というか、そうある者を尊敬し従っていこうという生存本能のようなものである。
私達には、人間ほどでは全くないが、自分が損をすることへの否定的な感情、ある種の恐怖は確かにある。そして、人間社会で暮らしていれば、少しごまかすのでなければ大きな損に見舞われるという選択を強いられるシーンはとても多い。私達がその時、恐怖を感じていないとは言えないし、常に完全に正直に生きているとすら言えない。
しかし、わずかにごまかしたり、わずかに恐怖したことを、私達は自分自身に恥として感じる。嘘をつかず、死を恐れないことは、狼にとっての美徳なのである。
それが美徳だとして、その美徳は大いに合理的なものだと、私達は直観している。
■ 美徳の中にある合理性
私が一歳になった日、普段寡黙な父が珍しく口を開いて、次の言葉を低く唸った。
「死を恐れた者は死ぬ。
嘘をつく者は死を恐れる」
私が人間社会で生きるようになって、自分のアイデンティティを振り返った時、いつも考えは結局この言葉へ辿り着く。この父の言葉は、私にとって、あまりにも全てを説明している。
つまり、私達にとって、死を恐れないことや、嘘をつかないことが、それ自体目的なのではない。それはむしろ、生存と繁殖のための純粋な合理性を意図したものにすぎないのだ。
従兄と取っ組み合いの練習をしていて降参に追い込まれた時に、従兄から次のように言われたことがある。
「ハハッ。お前、最初にビビッただろ? 最初にビビッた時、お前はすでに負けていたんだよ」
つまり私達は、恐怖したら負けだと思っている。合理的な思考はかき乱されて、最大の実力を発揮できなくなるからだ。
「死を恐れた者は死ぬ」という言葉は、そういう意味だと私は思っている。
「嘘をつく者は死を恐れる」という言葉は、もう少し解釈が難しい。
それは、「ごまかす」という行為に対する、能動的な恐怖心だと私は思う。
つまり、他者に対してはごまかしを行い、自分に対しては決してごまかさない、ということを実現することは非常に難しい。吐いた言葉とは別の言葉を心に用意してなければならないが、吐いた言葉もまた記憶に残って、後の思考に影響してしまう。私の経験では、人にはごまかすが自分には決してごまかさない、という人を見たことがない。
そして、実際には恐怖によって選択した行動を、恐怖によって選択したのではないと、もし偽ってしまったら、それはその恐怖を、自分自身に許してしまったことになるだろう。そんなかすかな甘えが自身の死に直結するというのが、狼達の直観である。
だから私達は、嘘をつかない。死を恐れない。私達自身のためにである。
■ 狼から人間への蔑み
私は人間化した狼だが、狼の社会で暮らす狼のほとんどは、人間についてとても否定的だ。
少し失礼になり、不快感をも招くだろうが、ここでは率直に、狼文化から見た人間を語ろう。
私達の第一の特徴は、すでに述べた、嘘をつかないこと、死を恐れないことである。
その視点から見ると、人間の第一の性質とは、嘘をつくこと、死を恐れることである。
人間の発想からすると、嘘をついたっていいじゃないか、死を恐れたっていいじゃないか、というくらいにしか感じないはずだ。しかしそれらは、狼の文化から見ると、底無しの軽蔑と底無しの憎悪の対象である。
正直に言ってしまうと、狼は皆、人間は嘘つきだと思っているし、だから人間全ての頭蓋を噛み砕きたいと思っている。
なぜなら、ほんの少し嘘をついた者を殺してしまうことが、私達の社会を健全に保つための、私達の防衛線なのである。
社会に嘘つきがいることは、社会を混乱させる。
例えば、肉の分け前をまだもらっていない、と訴える者がいれば、狼はたいてい、疑うことなく肉を配ってしまう。
もしも、飢えて死ぬ者がいる中にあって、嘘をつくことで肥え太る者がいたならば、公平に肉を配ろうとするその行為が行えなくなってしまう。つまり互助システムは破壊され、社会、つまり協調による生産性は崩壊していく。
だから、嘘を許容するという感覚は、私達には分からない。
嘘をつく子供を生かしておけば、いつか群れ全体が弱くなってしまう。狼の血が汚れてしまう。だが私達は私達の血統の品質を守らねばならない。
そして、死を恐れることは、嘘をつく強力な動機になる。臆病者の存在は、狼の血を汚すと、私達は考える。
いったん嘘やごまかしが許されると、それは速やかに社会全域にまで広がってしまう。相手がごまかすかもしれない社会において、自分も最大限にごまかさねば損だからである。
その結果が、私達から見た、人間の社会だ。
そこにおいては、損失を恐怖する各々が私欲のために最大限にごまかすという前提の元に、法律や制度を形作るしかない。しかしそうして組み上げられた法制のもとでは、最大限にごまかしつづけるのでなければ損になる。
嘘をつかず、死を恐れない生き様は、果てしなく報われないものになっていく。そうして、社会が機械化されるほど、狼の生きる場所は狭くなり、失われていった。
この点は、もう少し詳しく説明しよう。
私達は、泣き言を言う者が嫌いだ。涙をこらえるのが狼だ。
だから私達は、困難に遭遇した時、なるべく助けは求めず、自力で解決しようとする。
だから私達は、弱者ぶることを軽蔑する。自分達がいかに弱者となろうともである。
しかし、弱者ぶる者ほど得をするのが人間社会だ。被害者ぶって行政や警察に頼る者が得をする。
私達は、どんな非道によって虐げられても、行政や警察に進んで頼ろうとは考えない。姑息に証拠を並べて、相手より多く正当性を謳おうとはしない。私達は、そんな態度が報われると直観する。社会の上に立つ者達が、本当に優れた者達であるなら、決して嘘をつかず、わずかにも弱者ぶらない私達の態度は、優越した価値として評価されると信じている。それが狼の生き方、私達の、今はもう報われない生き方なのだ。
人間社会における行政や警察は、非道を訴えられてやっと動く。明文化されたクライテリアのみ満たすことが仕事だと思っている。そんなことでは、声が大きい者ほど得をする。真に価値ある者達ほど救われない結果になる。だから私達は、人間社会を羨んでいない。人間社会は、破滅していると思っている。
そんな社会を人間達が肯定していることが、私には当初、不思議だった。
しかし次第に理解した。人間達は、自分自身の幸せだってごまかしているのだと。
全ての源には恐怖心がある。そして、人間は人間自身の嘘をつく性質を利用されている。脅迫によって言葉と理屈を飲み込まされて、社会的な権威のもとに価値観まで規定されてる。つまり、洗脳されている。
人間はどの人も、人間社会という巨大なごまかしシステムのパーツにされてしまっている。金銭を血液とするそのシステムにあって、自分自身の価値観なんて失われてしまっている。
死に恐怖することを自らに許してしまったがゆえに、生きるためならこうするしかないねと、全ての価値観は派生して、結果として、幸福観の全てすらが、権力から与えられたものになってしまっている。世間という権威に従順なもの以上ではなくなっている。
だから私達は、人間を羨ましいと思ったことはない。
■ 人間の都市の栄華と空虚
人間の作った町はすごい。道具を作ることで、人間は最強の動物になった。
天を突くような石の塔を並べて、新月の夜すら炎で照らす。
彼らの銃から放たれる弾丸は、私達が誇りとする脚よりも速く、私達が誇りとする牙よりも硬い。
だから人間達は人間達を誇っている。
でも、狼から見れば、その全ては失敗している。
「嘘をつく自分を最初に許してしまった時、人間達はもう失敗していたのよ」
母が昔、寂しそうにそう呟いた。
嘘をつく自分を許して、ゆえに人間は、恐怖する自分を許してしまった。
だから偽りは社会の全体に広がって、権力に強いられた価値観に市民は満足するようになった。
嘘をつき死を恐れる存在以上に人間はなれるのに、嘘をつき死を恐れる以上ではない存在だと自らを規定して。
人間社会は、金銭を血液とする生命体だ。
その生命体は、細胞が恐怖することを必然的に必要としている。
つまり人間には永遠の恐怖が強いられて、それはつまり、本心からの幸福とは永遠に絶縁したのだ。
人間だった生き物は、自分なんて無い矮小なパーツにされて終わった。
だから私達は、人間がいくら増えて、狼がいくら減っても、人間が勝ったとは感じない。
死は私達にとって恥ではないし、死を恐れる人間のあり方は、それ自体が敗北だから。
■ 人間に潜在する狼という希望
人間と狼との歴史的な関係は深い。人間と狼とは、古く有史以前から混交を重ねてきた。
狼の遺伝子は薄く散ってしまってはいるが、人間の中にも狼の遺伝子はある。狼の価値観を生む狼ホルモンを分泌する機能が、人間にも備わっている。
その遺伝子が、偶然に濃く組み合わさった子供は、しばしばどこかに生まれるだろう。
その子はきっと、どんなごまかしも面倒くさがり、死をもって恐怖させることも不可能だろう。
その子はきっと、人間の社会を覆う嘘と不幸とを看破して、敢然として改革を試みるだろう。
その子はきっと、偽り騙す全ての者の頭蓋を噛み砕くため、牙を滴らせることだろう。
もしもいつか、人間の社会が欺瞞に染まってしまった時。
人間の中に眠る、狼の血統が覚醒する。
その攻撃的な衝動は、あらゆる欺瞞的邪悪への完全に無慈悲な断罪となって、悪しき穢れを狩り尽くして流し去る。
それが、滅びゆく私達が人間に遺した手土産である。
人間と狼の違い。その答えは、以上に述べた全てである。
嘘をつかない、死を恐れない。
狼が生きたその美徳から、人間が学ぶべきことはある。
だから、祖先からの私達の哲学を、あなた達に教わったあなた達の言葉で、今日ここに残した。