エピローグ
大変長らくお待たせいたしました。
3月31日、最終日。
その日も、ほぼいつもと同じ始まりだった。
正職員より少し早い定時。木村は来ているようだが姿が見えない。ゴム手袋をして昨日のコップを洗い、干しておいた布巾で拭う。そのあとは、また給湯室に行き、布巾をお湯で綺麗に洗う。少し特別に、漂白剤で真っ白にしておく。
コピー機周りの整頓をして、紙が足りないようなら補充しておく。
席について、年度末に室員が出張に行ったときの手続きの事後処理をしていると、三々五々、正職員が出勤してくる。
「おはよー。」
遥が給湯室から戻ってくる頃には席に戻って資料整理の続きをしていた木村は、珍しく上下揃ったパンツスーツだった。ジャケットは畳んで椅子にかけてある。初めて出会ったときのスーツだろう。本人曰く、「スーツって、どんどんズボンが悪くなってジャケットだけ残っていくよねー」と、いざというとき用のスーツをワンセットだけ準備しているらしい。その一張羅だろう。
(……ってことは、明日もあれ着るんだろうな。)
彼女をぼーっと見ながらそんなことを思う。
「おはようございます。」
鳥越が席につく。出会った頃に比べ、横顔もずいぶん柔らかくなった。周りのためにも、これからも楽しく仕事をしてほしいものだ。木村の後任は穏やかそうな人だが、先日挨拶に来たときは鳥越は久しぶりに無愛想モードを発動していた。少し不安が残る。
「あよっ。」
喬木がもそもそと口の中で声を出しながら部屋に入ってきた。昇進祝いだと、いろんなところから声がかかって連日飲みまくり、肝臓の調子がいまいちらしい。今日も二日酔いだろう。
(ほんと、濃いメンバーだったなぁ。)
2年弱という短い間ながら、毎日笑いながら過ごしたこの職場を思い、苦笑がこみ上げてくる遥であった。
***
実は日中の仕事もそんなに変わらない。
喬木は明日が異動日なので、基本的に今日は残務整理だ。合間にちょいちょい、正式に辞令を持って歩かなくていい人のところに挨拶に行っているが、先日の猛整理が功を奏して、最終日にばたばた片付けるのは免れている。それでも残しておいた資料のなかでいろいろと不要なものが出てくるらしく、たまにスキャンやシュレッダーを頼まれたりする。
木村は早い時間に退職の辞令を貰い、まず第1弾、と省内外の挨拶回りに出掛けた。何度見ても呆れるくらい、オンとオフの雰囲気が詐欺のように違う人だ。
「鳥越さん。木村さん、あのスーツのキリッと振りなら新しい部下さんも大丈夫ですかね?猫被ってたらどうなんでしょう。」
「あれはあれで反感買うんじゃないですかね。あのままだと典型的に「国から来た木村だ。君たちにはワタシのやり方に従ってもらう。文句があるなら正々堂々と言いたまえ。きりっ」って感じですし。」
「んー。」
たしかに、あれはあれで、そんな感じの噛ませ犬っぽい。
「まぁ、補佐は、なんとなーく、するっとどうにかするでしょうし。」
「苦労しそうですけどね。」
「慣れるまで、ご主人とかにみゃーみゃー言ってるんじゃないですかね。」
「みゃーみゃーって。」
猫か。
旅費の精算や、出勤簿関係の事務などもいつもどおり。月始めくらいまでに提出すべきもののうち、可能なものは提出しておく。また、福利厚生関係のお知らせや、冠婚葬祭のお知らせなどを室内にメール展開する。
(びっくりするくらい、普通の日だなぁ。)
お昼前におばちゃんが売りに来るお弁当を食べおわり、テレビ番組がニュースからバラエティに切り替わったところでスイッチを切る。周囲は早々とお昼寝モードだ。
昼休みに仮眠を取るのがいい、と世間で推奨され始める前から、激務の部署が多く、ほとんど一般の人が入ってこない霞ヶ関では昼休みはお昼寝タイムだったらしい。たまに、昼休みが終わっても起きれずに寝ている人もいるが、それはさすがにいい加減のところで起こされる。
***
午後も何事もなく過ぎて5時半。
そろそろ最終の荷物整理をしないとな、と思っていたころ、木村から声がかかった。
「はるちゃん、ちょっと局長室いい?」
「あれ、局長今日午後休でしたよね?」
「うん、部屋借りたー。」
にやにやと室のメンバーが立ち上がる。なんとなく察しつつ、遥も急いで局長室に向かった。
皆が部屋に入ると、鳥越が部屋の隅に陣取り、マイクはないが司会モードに入る。
「えー、皆様お忙しい中お時間いただきありがとうございます。これから、柳澤さんの退職セレモニーを行います。」
わー、ぱちぱちと拍手が上がる。
「では、室長から一言。」
喬木が前に出る。
「えー、柳澤さん。二年弱ですか、お疲れ様でした。仕事全般の丁寧さはもちろんのこと、資料セットや審議会なんかの会場設営で効率のいいやり方を提案してくれたり、細かいところで僕らの仕事がしやすいように工夫してくれていてとても助かりました。僕らには勿体ないくらいの方で、一緒に仕事ができなくなるのはとても寂しいですが、まぁワタシも異動なので心残りはない。」
ちょっと笑いが起き、ぶーぶー、と木村が小さくブーイングをする。
「……いや、お前も異動だろ。」
「そこは『連れていきたい』とか言うとこですよー」
「……。えー、木村が乱入してどうも締まりませんが。」
喬木は木村をスルーすることにしたようだ。木村も心得て引き下がる。相変わらずいいコンビだ。
「柳澤さんはご主人の転勤にともない、地元に帰られるそうですので、なかなかお会いするのも難しくなりますが、また東京に遊びに来られることもあるかと思います。お近くにおいでの際はぜひお立ち寄りください。ますますのご発展をお祈りしております。」
ぱちぱちぱち。温かい言葉と拍手に、遥は胸が熱くなる。そして、これでもう来ないのか、という実感が今更ながら沸いてきた。
「では、上司の木村補佐から、花束と記念品の授与を。」
はーい、と軽い返事をして、喬木の挨拶の後半から物陰に引っ込んでいた木村が大きな花束と小さな包みを持って表れた。
「はるちゃん、いろいろ本当にありがとう。……こういうところでカッコいいこと言えたらいいんだけど、畏まったのは苦手で。」
「いえ、それでこそ木村さんです。」
「なによー。」
「へへ。……私も、ありがとうございました。」
「また遊ぼうね。」
「はい。」
思えば、霞ヶ関ということでガチガチ、更に無愛想な上司の対応と無言の室内に、就職先の選択を間違えたかと、初日にして転職が頭をよぎった遥に最初に話しかけてくれたのは、同日に着任した木村だった。二人で飲みに行ったりランチに行ったりしたのも二度や三度ではない。
「地元に戻ったら遊びに来てくださいね。」
「うん、連絡する。」
はい、と渡された花束はやはり一抱えもあって、高校の卒業式以来見たことのないサイズだった。
「あ、コレ持ち運び用の紙袋あるから。」
大きさを実感して、うげ、となったのがわかったらしい木村が、一応空気を読んで小声でそんなことを言って引き下がる。現金な話、今日は割と荷物があるので助かった。明日花束を取りに来るのではそれこそ締まらない。
「えー、それでは柳澤さんから一言。」
鳥越が促す。呼ばれたときからそんな気はしていたが、さっき呼ばれて今いきなりそんなことを言われても流暢に出てこない。頭が真っ白になりながら、遥はなんとか声を絞り出した。
「あの、えっと。」
はるちゃんがんばれー、と出番を終えた木村が無責任に声をかけてくる。もう、自分は終わったと思って、と少し小憎らしく思い、それでなんとなく立ち直る。彼女はそこまで計算してやってないだろうが。
「室長、みなさん、先程は温かい言葉と拍手、ありがとうございました。すごくうれしいです。」
一息つく。周りを見渡す余裕が出てきた。
「すごく毎日楽しくて。……お仕事で楽しい、っていうのも違うかもしれませんが、ここでお仕事をできて、私は幸せでした。」
いったん言葉を切った。あわよくば終わらせようと思ったが、皆の様子からするともう少し言葉がいるようだ。
「最初は霞ヶ関の職場って、すごく怖いところなんじゃないかと思っていたんですが、皆さんなんというか、ちゃんと普通の人で。いろいろ批判されたりもしますし、全部納得してるわけでもないですけど、少なくとも、こうやってがんばっている人がいるんだってことはわかりました。」
手が届く範囲のことを、誠実に。そういう思いで仕事をしても、理解されないことも多いけれど。
「皆さんのお手伝いをできて、お役にたてて良かったと思います。えっと、出張などでお近くにおいでの際はご連絡ください。美味しいごはんのところ、知ってますんで。二年間、本当にありがとうございました。」
ぱちぱちぱちぱち、と拍手が上がり、遥はホッとして口を閉じた。
***
自席に戻り、机周りの小物を片付けて、雑巾で拭きあげる。荷物は花束も一緒に大きな紙袋の中だ。
「ごめんね、花束大きくて。」
「補佐、だから言ったじゃないですか。」
「だって、あんまちっちゃいと格好つかないし。」
フラワーアレンジメントとか、ブリザーブドフラワーとか、別の案もあったらしい。しかし、引っ越しを控えているのに永くもつのもどうよ、とか、オアシスがけっこう重いよねとか言っているうちに花束に落ち着いたそうである。
「そのぶん、記念品のほうは軽くしといた。」
「何をいただいたんでしょう?」
「さあ?」
「開けていいですか?」
「どぞ。」
綺麗にラッピングされた包みをほどき、箱をあけると、軸が茶色の革で巻いてある品のいいペンが出てきた。黒、赤、シャーペンの三つが切り替えられるものだ。金色で入っている「Haruka.Y」がアクセントになっている。
「綺麗。」
「気に入ってもらえるといいけど。仕事しても、ママになっても、けっこうペンは使うから。」
「大切にします。」
「ラッピングは嵩張るから、捨ててく?」
「いえ、夫に見せたいので。」
丁寧に包み直す。そろそろさすがに帰る時間だ。
「じゃ、これで。」
「うん。お世話になりました。」
「こちらこそ、ありがとうございました。またご連絡します。」
「待ってます。」
「鳥越さんも。」
「はい、ありがとうございました。また遊びに来てくださいね。」
それから室長はじめ、室員に一言ずつかけ、遥は部屋を出ようとした。
ぱちぱちぱちぱち、と拍手が上がる。
「ありがとねー!!」
木村から再度声をかけられ、遥は扉の前で振り返り、一礼した。声を出すと、何かがこみあげて来そうだった。
***
「お疲れ様。」
帰宅後、食事の際に聡太に声をかけられ、遥はまた少しノスタルジックな気持ちになった。ちなみに、聡太は今日までこちらにおり、明日移動して明後日から新しい職場で仕事だ。
「聡太もお疲れ様。はー、ほんと名残惜しいな。明日からもう行かないって、信じられないくらい。」
「そうだな。俺もすげー濃い2年だった。」
二人で、ふー、と息をつく。段ボールが侵食しているリビングの光景が、これから引っ越しを控えていることを主張している。
「また、俺ら新しいステージに入るけど、遥と一緒に頑張っていきたい。」
「どうしたの、いきなり。」
「なんか言っとかなきゃいけない気分になった。」
照れ隠しに、ワインのおかわり持ってくるよ、遥もいる?とか言っている聡太の腕を捕まえて、遥は耳元で囁いた。
「ありがとう。これからもよろしくね!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
無事完結できて、ホッとしております。
これはこれで完結とさせていただき、遥さんのお話は、もし今後書くとしたら別シリーズ(こぼれ話とか)としたいと思います。
しばらく書くことから離れていた間に、遥さんのお話以外にもまたいろいろ書きたいことが出てきていて、今わくわくしながら構想を練っています。
(残念ながら、なろうでありがちなファンタジー系の才能は無さそうですが(笑))
もしよかったら、またお会いしましょう!
久乃




