第17話 特別な雨の一日
やっと季節が追いついた感じです。
(でもすぐ夏になりますw)
今日も雨だ。
今年は梅雨入りが少し早かったようで、雨の日が続く。地下鉄に入ってしまえば庁舎までは濡れなくて済むが、湿気や濡れた傘は満員電車の不快のもとだし、乗り入れ等の関係か、雨の季節は遅延も多く、この時期の通勤はなかなか不快なのであった。
正職員たちの出勤時間になると、あたりはがやがやしはじめる。傘を廊下の端などの空きスペースに広げて乾かそうとする者、濡れそぼったレインウエアをどうにか干そうとする者。今日のように強い雨だと、ズボンの膝から下や靴下がびしょびしょになり、用意の替えを取り出してくる者もいる。
「うーわー、濡れたぁ~」
部屋の端にあるロッカーの陰から、木村の情けない悲鳴が聞こえた。
「どうしました?」
「今日は私が保育園の送りで、自転車だったからレインコートで来たんだけど、脱いだ拍子にどっかにたまってた水で…」
見るとシャツが派手に濡れている。この分では下着まで染みているだろう。
「着替え、あります?」
「帰宅前にヨガに寄るときがあるから、ウエアがわりに置いてるTシャツなら。」
「大丈夫ですか。」
「あんまオフィス向きじゃないけど、外に出るときはジャケット着ればなんとかなるかな?」
「よかったですね。」
「帰れなくなりそうなときもあるから、靴と着替えは置くようにしてるんだ。ヨガウエア兼用でローリングストック?洗濯的な意味で。」
「私もそうした方がいいかもしれませんね。仕事じゃなくても、これから台風とかいろいろありますもんね。」
「かもかも。あ、あと要らない化粧品とかスキンケアの試供品とかあると安心できるよ。私、忙しいときはドライヤー入れてた。」
「ドライヤーですか・・・」
「そういう時用に、仮眠室とかシャワー室とかあるんだよね。お風呂があるところもあるらしい。」
「そ、そうなんですか。」
「でも、仮眠室は省によっては手続きめんどくさいし、幹部の個室で寝たほうが楽だって人も多いよ。」
「ソファーありますもんね。」
「そうそうー。あれ、下手に肘掛あるより、ロングシートのほうがそういう意味ではいいよね。」
そう言い残してロッカーからTシャツやら下着やらを取り出し、トイレへ向かう木村。スペースに余裕がある部署ならフロアに更衣室があるところもあるらしいが、このフロアにそんな素敵なものはない。
ちなみに、木村のいう「庁舎に置いている靴」は、彼女に限っては基本的にパンプスの方だ。「子供連れて自転車乗ったり買い物行ったりするのに、高いヒールありの靴なんか履いてられない」という理由で、会議や出張などで直行・直帰する予定がなければ、通勤は基本的に黒のスニーカーである。褒められたものではないのだろうが、外向きの対応が必要なときはちゃんと履き替えているため黙認されている。
「はぁー、やっぱり乾いた服はいいわー」
すっきりした顔で木村が戻ってきた。確かに、着ているのはオーバーサイズで若干オフィスには無理のあるTシャツだが、色味は地味なので、何かで外向きの格好をする必要があれば、裾をウエストインしてジャケットを着れば誤魔化せそうだ。
クールビズが始まって早10年以上がたち、男性の服装も含めてかなり文化として定着した感がある。さすがに霞が関では、たまにかりゆしがいるのがそれらしいくらいで、基本的にノータイ、ノージャケットでの執務という程度だ。たまにポロシャツもいるが、やはり一段カジュアルに見える。
女性に関してはかなり緩く、一部ではNGとされるノースリーブやサンダルなども割に見かける。しかし、さすがに、足首の固定されていないカツカツ音がするミュールや、下着と見まがうようなキャミソール、ミニスカートなどは見かけないあたり、微妙なさじ加減が必要である。なお、男女ともにそれなりのところに出るときは、夏でもジャケットを着用することも多い。
「保育園の送りも大変ですね。」
「うーん、迎えから寝かしつけの方が大変かな?今日は私が遅い方だから、旦那が大変。ごはんは作ってきたけど。」
「そういう分担できるといいですよねー」
木村の同年代でも、夫か、祖父母世代が協力的なら比較的楽にワーキングマザーがしやすいが、ほぼ一人で担うワンオペママはかなり追い込まれていると聞いたことがある。専業主婦(夫)ありのバリバリ働くタイプから、完全に軸足を家庭に移した人間まで、子持ちの総合職といってもいろいろな人間がいるそうな。しかし、
「もっと上の先輩によれば、10年かせいぜい15年程度でたいした違いはなくなるから、ある程度の仕事をこなしてさえいれば焦らなくていいって。うちもだいぶ手が離れてきたし。」
とは、本人も小学生持ちの前嶋の言である。
10年といえばけっこうある気もするが、そのあたりは流石年の功、というところだろうか。
ほかに、木村などは掃除を中心に家事代行も一定ペースで入れており、そういったあれこれを活用してどうにか生活の質をキープしているというのが、小さい子を抱えた総合職の共通したところのようだ。
柳澤家では夫が激務で、基本的に定時上がりの遥が家事を担っている。二人暮らしの間はそれで構わないが、おそらく、子供が産まれたとしてもそれは変わらないものと思われ、基本的に定時帰りだった間に相当ストレスを貯めこんでいた木村を見ていると、それで生活が回るのか、遥は今から心配になってくるのだった。
***
雨は午後に入ってどんどん強くなってきた。
「このまま雨が続くと河川の氾濫等の可能性もあるため、危機管理系の業務を担う職員を除いて、適宜時間休を取って帰宅するように、だそうです。」
総務課から来たメールを転送すると同時に、室員に口頭でも伝える。
「うわ、マジ?私帰ろうかなぁ。鳥越さんもはるちゃんも、帰れそうなら帰ってね。」
「あれ、今日はお前が遅い方じゃなかったのか。」
「特に終業後何かある訳じゃないですし、国会も落ち着いてますし。旦那の方がばたばたしてるようで、定時ギリギリまで動けないらしいので。」
喬木が若干渋い顔をしたのに対し、木村がにこやかに、しかし地味に強硬に主張する。真面目モードだ。
「お迎えが延長効かないのと、こういうときは早めにお迎えをと事前に言われてまして。すみません。」
「まぁ、俺の方は特にないけどな。16時からの『審議官レク』ってのはどうするんだ?」
譲らない木村を見てあきらめたのか、共有のスケジューラを見て仕事の確認に入る喬木。
「これは総務課の早山企画官のお付きで入るので、私が居なくても早山さん一人で行けます。」
「早山さん、一人で心細いんじゃないか。審議官と合わないんだろ。」
先日の騒動については、報告程度に喬木にも入れてある。
「リスケしてもいいですし、その辺は説明します。てか、うちの子も大雨の中最後の一人ってのは相当心細いはずなので、大人より子供優先でいきたいです。申し訳ないですが。」
「なら、そこはちゃんと早山さんに説明してくれ。あとはいいぞ。」
「すみません、ありがとうございます。」
再度頭を下げてから、総務課に向かう木村。結局彼女が帰宅できたのは、定時の退庁時間から一時間ほど前のことであった。
***
『やっぱり電車遅れてるし、めっちゃ混んでるー。てか潰されそう。まぁ早めに出てよかったよ、はるちゃんも無理しないでねー』
20分ほど前に出ていった木村からメッセージが入り、適当に返信をしてから遥は考え込んだ。生活費のなかで住居費にかなりの配分を割いてけっこう近いところに住んでいる木村に比べ、遥の住まいは夫の勤務地の関係もあって、ここから電車で一時間以上かかる。遅延していつ着くか分からない中、ぎゅう詰めの電車で帰るのはなかなか酷だ。
(まぁ、子供がいるわけでもないから、最悪この辺でホテルとって泊まるでもいいし。)
そう思い、夫にメッセージを送り了解を取る。夫は夫で職場のメンバーとやけくその飲み会とのことで、特に問題はなさそうだ。
鳥越に伝えると、自宅がかなり遠い鳥越も持久戦の構えとのことだった。
「僕のほうは、嫁が自宅にいるので急いで帰る必要もありませんし。」
桝谷と鳥越を除く室員は定時後すぐに帰宅する。特に災害対応もない部署でもあり、そのあたりは自由である。
急にがらんとした室内を見て、遥は今朝の木村のセリフを思い出した。
「鳥越さん、私、念のために泊り用の化粧品とか、いろいろ買ってきます。なにかついでに買ってきましょうか?」
「大丈夫です。僕も持ってるので。食べるものもそれなりにありますし。それに、たぶんもう何もありませんよ。」
「…え。」
「早い者勝ちなので。」
「…間に合うことを祈って、一応行ってきます。」
急いでエレベーターホールに向かい、地下にあるコンビニまで下りる。気ばかり焦るが、こういう時に限って帰宅する人などで各駅停車だ。やっと地階につき、コンビニまで走るが、カップ麺やおにぎりをはじめとした食べ物や飲み物はもちろん、いつも「何のためにあるんだろう?」と思っていた、妙に充実したお泊りグッズや替えの下着のコーナーもすっからかんだった。
(うわー、缶詰とネクタイしか残ってない。)
がっかりしながら、ないよりましとフルーツの缶詰を手に取って再度周囲を見回すが、スタッフの数も心なしか少ない。
「鳥越さん、ありませんでした・・・」
戻って報告すると、鳥越は苦笑した。
「こういうときは早くなくなっちゃうんです。近隣のホテルとかももうほぼ満室じゃないかな。ちなみに、庁舎にあるシャワーは、ボイラーがついてるのが定刻内だけなので、もし使いたいならもうあとは明日の9時くらいからしか使えません。」
「えっ。」
「使えるだけマシですけどね。でも、女性は髪が長いから、どうなんでしょう。」
「あ、木村さんがドライヤー昔持ってたっていうのは・・・」
「シャワー使ってたんでしょうね、間違いなく。補佐はバイタリティーすごいですよね。」
なんだかんだ突っ込んだり尻拭いしたりしながらも、年下の上司に対する評価は揺るがない鳥越を見ていると、この二人は結構いいコンビなんだよなぁ、と思う。
『結局電車が遅れてお迎え最後になったけど、今無事に子供と家につきましたー。そっちは大丈夫?』
鳥越や枡谷としばらく話をしていると、木村からメッセージが入った。
『もう少し様子を見てから帰ることにします。もし帰宅が難しそうなら、ここに泊まります。今、鳥越さんと枡谷さんがいます。』
『了解、何度も言うけど無理はしないでね。家まで帰るのがきついならうちに来てもいいし。』
『大丈夫です。』
『もし万一泊まることになったら、明日行くときにタオルとドライヤーと化粧品は持っていくから言って。じゃ、幸運を祈るー』
木村もばたばたしているだろうが、こちらを気遣う余裕があるのであれば大丈夫そうだ。
「…ですって。」
「柳澤さん、愛されてますねぇ…」
「子供さん小さいのに、なかなか呼べませんよね。」
特にやることもなくとりあえず暇なので、三人で鳥越がキープしていたおやつをつまみながらいろいろなことを話す。枡谷の同棲生活のこと、鳥越や遥の生活の話や、それぞれのパートナーや子供の写真の見せあいなど。
「…鳥越さん、娘さんまた可愛らしくなってませんか。」
「そうなんです。ますます美人に。」
「これは親ばかとは言えないレベル…」
「今、式場を探していて。」
「あれ楽しいですよね!」
「「…どこが?!」」
そんなことを話している間に、雨足はだいぶ収まってきたようだ。
電車の混雑もピークを過ぎたとのインターネットのニュースを見て、遥たちは腰を上げた。
「じゃ、帰りますか。」
「はい、お疲れさまでした。」
夜10時過ぎの地下鉄に揺られながら、遥は、なんとなく暖かな気持ちで家路につくのだった。
はるちゃんおうちに帰れてよかったね!ですが、本気で泊りが多いと寝袋持ち込んで床で寝てる人もいたりします。民間も変わらないかもしれませんが。