番外編1 鳥越昌樹の憂鬱
鳥越昌樹、36歳。
東京じゃない関東の出身。スクールカーストなんて言葉のない時代だったが、高校までは運動、勉強、生活ともにごく普通だったと思う。自宅から通えることを重視して選んだ大学では、当時流行っていた福祉関係の学部を選択。ストレートで就職したのは全く学問と関係ない小さな商社で、人間関係に疲れ9ヶ月で退職。その後、公務員試験を受け、約一年のブランクを経て翌年10月に某省に就職。
10年を少し過ぎた役所での仕事には、もう何も感じないことにした。感情的な叱責に加えて法令集やシャープペンが飛んできたことも、明け方までかかって作った資料を一瞬でゴミ箱に投げ入れられたことも両手の指の数では足りない。加えて、裁判での原告との対立や、言いがかりとしか思えないようなクレームへの対応。当初持っていた、国のため社会のため国民のため、なんていう思いが消えてなくなったのはもう何年前だろうか。
仕事は稼ぐため。自分を出せるのはプライベートだけ。そう決めて、サークルや合コンには力を注いだ。サークルの仲間が仕事中の自分を見ても、似た顔の別人だと思うだろう。サークルでは弾けた笑顔ではしゃぎ回る自分が、灰色の机に張り付くように背を丸め、しょぼくれた顔をしてぼそぼそと喋る。そんな自分は好きではなかったが、一生懸命やっても結果がついてこない仕事を本気でやるには、もうトウが立ちすぎていた。
***
あとから考えれば運命の、というべき7月1日は、そんな中、普通の顔をして訪れた。
今日から採用された非常勤の柳澤遥は、正職員より先に出勤しており、ドキドキとワクワクが混じった顔で挨拶してくる。
(まぁ、すぐ分かるんだけどな。そんな期待するような職場じゃないってことは。)
昌樹は、白けた気持ちで最低限の挨拶と指示をすると、すぐ自分の仕事に戻った。今の職場は、静かだし、パワハラするような上司もいない。平和なことはいいことだ、と昌樹はそれなりに満足している。
それに、3年前に合コンで出会い、一目惚れして口説き落とした美人の妻と、全体としては彼女にそっくりで、そして自分の要素も間違いなく混ざっている一歳半の娘が家で待っているのだ。サークルも頻度こそ落としたが、娘が一歳になるのを機に再開した。職場に使う余計なリソースはない。さっさとやるべきことを終わらせて帰宅するに限る。
「こんにちはー。今度来た木村です。…あれ?どこかでお会いしました?」
よく昔ナンパで使ったようなセリフを口にしながら、少し年下と思われるスーツの女性が顔を覗き込む。
ちなみに、ナンパは学生のころはよくやっていたが、公務員になってからは卒業していた。ナンパより、合コンで公務員を名乗っての出会いの方が効率的だったからだ。
(顔ちけーよ。ってか、忘れてんなよ)
昌樹は若干ムッとしながら少し顔を引き、「部下になります鳥越です。補佐とは昔、2ヶ月ほど同じ課にいました。補佐はPTのお仕事でほとんど席におられませんでしたが。」と、可能な限り素っ気なく返答した。実際、木村は当時席だけ残して資料もパソコンもPTの部屋に引っ越しており、その間数回しか課に顔を出していない。こちらが覚えていたのも、そう多くはない女性総合職だからというだけで、40人近くいた課員の全員をたかだかいち係長にすぎない彼女が覚えていないのは実のところ不思議ではなかった。
「うわ、ごめんなさい。」
それでも木村は「やばっ」という顔で謝った。
「いえ、特に。」
昌樹はその反応を意外に思ったが、あえて素っ気なく答え、仕事に戻る。職場の人とは心は通わせない。そう決めたのだ。
***
(どうしてこうなった…)
1ヶ月後、昌樹は内心、頭を抱えていた。
目の前では木村と柳澤、二人のアラサー女性と、室長の喬木が、カラオケで最初に唄う曲は何が至高か、という議題できゃいきゃいと盛り上がっている。
(く、くだらん…)
だいたい、喬木は木村と柳澤が来るまでむっつりと1日黙りこんで仕事をするのが常で、いかつい顔立ちもあって、口の悪い係員などからは「ブルドック」とか「獅子舞」とか影で言われていたはずなのだ。
(キャラ変わりすぎだろ…)
昌樹は内心喬木に毒づく。もともとこういうノリは嫌いではないのだ。あっさりアラサー二人のノリに順応した喬木に、嫉妬も羨望もないはずだが、何かがモヤモヤする。
それでも。
「えー?そうですか?鳥越さんもそう思います?」
声をかけられると、反射的に顔を強張らせ、ぼそぼそと素っ気なく返事する。
「カラオケは、行きませんので。」
(…負けるもんか。)
何の勝ち負けか分からないが、とにかくあの二人に巻き込まれたら負けな気がして、昌樹は極力、仏頂面の維持に努めるのだった。
***
朝夕に涼風が立ち、少し陽射しが和らいできた、秋の始まりのある金曜の午後。
室長も、上司である木村も、それぞれ別の会議に出ており外している。
気候的にも仕事的にも少し息をつける、そんなタイミング。きっと、昌樹は気が弛んだに違いない。
スライドショーで待ち受けに設定している家族の写真がふと目に入り、
「柳澤さん。新婚旅行、どこに行ったんですか?」
そんな言葉が口をついて出てきたのだから。
「え?」
柳澤は驚いた顔をしていたが、言い出したらもう後には引けなかった。
「新婚旅行です。」
柳澤に誘い水を向けられて自分のことを語りだすと、彼女の相槌の打ち方も絶妙で止まらない。語りながら、昌樹は、何かが自分の中でほどけていくのを感じていた。
最後の方、微妙に遥さんバージョンとセリフが違うのは、それぞれ覚えていることが違うということで。
鳥越さんは、それでももうしばらくは木村さんに対して、上司に対する遠慮とかタイミング逃した感とかでしばらく葛藤したのだと思われます。