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五右衛門の極楽輪廻物語  作者: 磯部勝彦
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第七章 七・七日【四十九日 閻魔の審判】

阿修羅と弁財天によって審問が行われ、最後に閻魔大王の審判が下されます。

 天から突風が吹き付け、地上の微塵が嵐となって吹き荒れた。十色の虹が大鳴門の渦潮のごとく捻じ曲げられて、霞の繭に閉じ込められた五右衛門の魂は、噴流の大気に包含されて虹の雷雲に呑み込まれた。


 獅子の咆哮、いや、鬼の怒号かと思われる唸りが耳の無い鼓膜の奥に轟き震える。やがて全ての音が失われ、果てしなきしじまの彼方に白き道標が示される。

 導かれるままに五右衛門は、指も(くるぶし)も無い足でひたすら歩いた。百万歩、一千万歩も歩いたと思う。と、舞い上がる砂塵の先に大丘陵が現れて、建物らしきものが見えてきた。

 

 おお、あれは何と、サハラ砂漠でジョギングしませんか同好会で訪れた、アルジェリアの大砂丘に違いない。

 紅のオーロラが宙をくねり、砕け散った銀霞の破砕が降りかかる視界の先に、金色(こんじき)の大鳥居が透けて見える。


 近付くにつれて無数の青白い光が意志を持った群生のように揺らめいて、不快に喧噪な霊魂の消長を感じる。まとわりつく蚊柱を振り払うようにして大鳥居を潜り進むと、見事に(いらか)を反らせた二層の楼門が立ち塞がる。


 漂う妖気を感じて目を凝らして見つめると、左右の門柱に恐ろしい顔つきの二体の鬼が、射竦めるような鋭い眼光で立ち尽くしている。これまでの鬼よりよほど(たち)が悪そうに見える。


 五右衛門は慎重に身構えた。ここまで来ればどんな馬鹿でも鬼との関わりに疲弊してくる。慣れるどころか誰だってなるべく関わりたくない。

 鬼の目を眩ませて門の向こうへ行けないものかと周囲を窺ってみたが、楼門から回廊が左右に延々と巡らされて端さえも見えない。これが閻魔庁への入口ならば、どうあっても楼門を潜るしかないのか。

 

 覚悟を決めた五右衛門は、鬼と目を合わせないように俯いて、時速五百キロを目指す新幹線はやぶさ号の勢いで楼門の下を潜り抜けようとした。

 その刹那、右の門柱の鬼の目から火炎がほとばしり出て黒焦げにされた。同時に、左の門柱の鬼の口から突風を浴びせられて窒息し、その場にへたり込んで悶絶した。


「名を名乗れ!」

 朦朧としながら五右衛門は、鬼を見上げて反駁して言った。


「何で鬼に名を名乗らなきゃならねえんだ?」

「鬼ではない。金剛力士だ」


「白鵬と稀勢の里の友達か?」

「力士でも鬼でもない、仁王だ」

 言われてみれば確かに頭上に角が無い。鬼より凄惨な形相をしているが醜悪な下劣さを感じない。鮮やかな藍青(らんせい)条帛(じょうはく)を翻して睥睨する眼光には清廉な気魄を帯びて威圧される。


「これより先は閻魔の結界を越えることになる。不浄なるもの死して四十九日を迎えて最後の審判が行われる。名を名乗り自らの信賞必罰をさらす習いが越境登録の手続きとなる。即答せよ」

 五右衛門を見下ろす仁王の眼光が金色を帯びて鋭い。


「名は五右衛門だ。信賞必罰なんか無いよ」

「また黒焦げになりたいのか」


「やめろよこのバカ。どうやったら目から火が噴き出るんだ。ゴジラだって口からだぞ。信賞といやあ、シルバーシートに席を譲ってお礼に婆さんから飴玉を貰ったことかな。必罰といやあ忘れもしねえ。色っぽい姉ちゃんが太股むき出しで横道へ入って行くから、つられてハンドルをそっちに切ったらパトカーが現れて、一方通行ですよって罰金まで巻き上げられた時は理不尽で納得いかなかったぜ」

「…………」


「まだ何か?」

「行け」


「行ってもいいのか?」

「忙しいんだ、早く行け」


「忙しいったって、誰もいねえじゃねえか」

「見えるだろう、無数の青白い光の群れが。お前と同じ霊魂だが、不浄の者にはお互いの姿が見えないだけだ。煩わしいから早く行け」


 追い立てられて楼門を抜けると闇に包まれ、厳かなる無限の響きに導かれる。冥顕(みょうけん)の狭間をすり抜けているのであろうか、六根罪障(ろっこんざいしょう)禍根(かこん)に脅かされて陰陽(いんよう)の霊気が天地にほとばしり出る。闇の中から白雲が現れさらに黒雲がとぐろを巻き、底無しの濁流となって窈然(ようぜん)と逆巻く。


 やがて混沌とした気流が渦に呑まれて一瞬の蒼穹(そうきゅう)に目を細めると、渾天(こんてん)の彼方に八層円形の楼閣が見える。

 


 ーファラオー


 漆黒の楼閣は窓も無く異様に陰鬱で、近付くほどに重層の巨大さに威圧されるがふと見ると、アーチ型の入口付近に数人の人影があり、そのうちの一人が手招きをしている。

「こちらへ来てひざまずくがよい」


「お前、誰だ? 何でそんなド派手な格好してるんだ。ハロウィーンでもやってるのか?」

「私はファラオ」


「ファララオラ」

「ファラオだ。知らんのか?」


「どこのファラオだ? ツタンカーメンか?」

「あいつはナイル川中流のテーベにある王家の谷に住んでおったが、私の実家はギザのスフィンクスだった」


「いいかげんな出任せ言うなよ。ピラミッドは墓だし、スフィンクスはただの石像じゃねえか。どうやって住むんだ、あんな所に。どうでもいいが、こんな所で何してやがるんだ?」

「私はすべからく霊魂に寄り添って、閻魔宮へと導く重責を担っておる」


「あそこにいる三人は誰なんだ?」

「あっちにいるのは孔子で、そっちはアリストテレスと聖徳太子」


「お前よりあいつらの方が頼りになりそうじゃねえか」

「迷える魂よ、こっちを向いて良く聞け。汝は冥土の楼門を潜り抜けてここに至るまで、懺悔(ざんげ)の瞑想に耽りながら死者の道を歩んできたはずだ。これより閻魔の楼閣に案内するが、中は迷路だ。私の前にひざまずき、共に論じ合って己の煩悩の価値をより分けながら……こら、どこへ行く?」


「やかましい。懺悔も瞑想もしちゃいねえ。迷路がどうした。俺は認知症でも方向音痴でもねえ。どんな山道だって迷った事などねえぞ。どけ、そこを」

「待ちなさい。魂を浄化せずして迷路の謎は解けませんぞ。百万マイルの迷路の壁を透過して、最上階の審判宮までたどり着かねば、優曇華(うどんげ)の花香に呑まれてしまうことになりましょう」


「何だ、それは? 秋の彼岸の七草か?」

「たわけたことを。不浄の魂を堆肥培養の富壌土として、三千年に一度だけ咲く顕冥(けんめい)の花なるぞ。微細な花の実は朽ちて三蜜となり、たちまちのうちに霧消する。聞け、凡人。楼閣の迷路に抜け道は無い。花を見つけても見詰めてはならぬ。放たれる芳香を嗅いではならぬ。如何なる物にも触れてはならぬ。梵鐘怒号の音を聞いてはならぬ。恐れてはならぬ。畏れてもならぬ。決して紫玉の光を見失ってはならぬ。されば此処にひざまずけ。己の煩悩の、あ、こら。勝手に扉を開けてはならぬ。ならぬと言うに、ああ……あ」

 

 ファラオの制止を振り切り重厚な扉を力任せに手前に引いた。一歩中に踏み込んだ途端に扉はぴしゃりと閉じられて、雪白の闇に微粒が立ち込め陽炎となり、銀灰の靄に行く手を封じられて身動きができない。

 いったい何処に迷路があると言うのか、ひたすらもがくだけで埒が明かない。


 清閑倒錯(せいかんとうさく)の静寂に耳を澄ますと、微かに風鈴の鳴るような音が聞こえる。鼓膜をくすぐる微音がにわかに膨らみ、梵鐘の響きとなって耳を塞いだ。

 闇の狭間が連なり七色の光明が彩を放つ。壁の向こうが壁で塞がれ、上下も左右も見境がつかない。羽毛の光彩に壁が重なり、一筋の通路が朝顔の花弁のように覆いかぶさって、ブラックホールの巨大な気流に呑み込まれるように迫り来る。これが迷路の入口か。恐れてはならぬとファラオは言った。


 五右衛門は一塊の魂となって壁の連なる通路を巡った。闇の壁に突き当り通路は左右に分かれ、一方から凄まじいまでの芳香に引きずられるが、優曇華の花香やもしれぬと警戒をして避けた。


 さらに通路は二手に分岐した一方の、淫靡蠱惑(いんびこわく)の気配にたぐり寄せられ足を踏み込むのだが、これも優曇華のまやかしかもしれぬと葛藤してもがくうちに(くす)ぶる煩悩の気色が失せて、逆の通路に歩みを向けたその時、天地を揺るがす怒号の響きに鼓膜が破れた。

 迷路の壁を走り抜けながら五右衛門の一生が、走馬燈のごとく脳裏を駆けて追想される。


 中国山地を上流とする錦川沿いの山村に生を受けてから、いみじくも怨念呪縛(おんねんじゅばく)の旅路が始まる。

 大盗賊の血を引き継ぎながらも知らされる事なく農家の子倅として志を抱き都会へ巣立ち、不動産会社の悪徳上司に騙されて父も母も先祖代々の農地も失う。

 香港の実業家から怪盗の技量を授かり、闇金上司から奪った借用証書をネタに資金を稼いで自らも起業する過程でさまざまな人間に出会い縁が生じる。

 真夜中に金庫を開ける真理子と遭遇して、母子を助けた縁で夫婦になった。癌になって若い男に捨てられた大崎幸恵。山縣トメと孫の勇介と不良仲間のミキと茂。彼らを九龍城の屋上から突き落とす。中国の広州で香蘭と出会う。劉孔明の計らいでインドネシアの孤島を買ってリゾートを建設、ヨットレースで未亡人となった鰐淵敬子。

 そして老いた朝霧善兵衛と新興宗教の春霞翔子が現れて消えた漆黒の闇に、浄光が清暉(せいき)を浴びて紫玉となった。


 目にも留まらぬ速さで浮遊する紫玉を追って五右衛門は疾駆する。何百キロか何千キロか、たかが八層の楼閣にこれほど長い通路があろうものか。

 やがて紫玉は障壁に突き当たって激しい閃光を発して目がくらむ。



 ー閻魔庁ー


 霞のとばりに妖気がただよい、やがて取り戻した視界に映えるは一面の銀箔、そこに浮かび上がるは巨大な鏡面、さらに威圧を覚えて見上げると、眼光凄まじい鬼面の巨神が大机の上から見下ろしている。

 これが閻魔の大王かと、さすがに五右衛門の霊魂も委縮して身を引いた。


 大机の左右を見渡すと、銀糸の衣を羽織った者たちが無表情な白面で控えている。その中に一人、金色の法衣に朱色の袈裟(けさ)がけをした三面六臂(さんめんろっぴ)の僧がいて、五右衛門を指差して手招きをした。

 

 その僧といえば、顔が前と左右に三面あり、腕が六本もあって化け物の様相ではあるが高潔光輝な気品がみなぎっている。

 合掌の手をほどかれて手招きをされて仰せになった。

「汝、被告が死して四十九日、これより最後の審判を行ったのちに、閻魔大王さまによって判決が言い渡される。審問に対してすべからく正直に答えますように。よろしいか」


「あんた誰だい?」

「私は阿修羅(あしゅら)


「どの顔が本物なんだ?」

「みな本物だ」


「閻魔の子分かい?」

「口を引き裂いてやろうか。真摯(しんし)に聞け、被告。仁は慈悲を尽くした思いやりの心、義は正道、礼は謙譲謙虚の規範の儀、智は明晰な判断の知恵にして、信は自他ともに信頼する誠実の心。ところが人間の心は(よこし)まにして煩悩に惑わされ、すべからく背反して裏腹に不浄の欲をあわせ持つ。無知蒙昧(むちもうまい)にして非情に傲慢(ごうまん)な私欲が激しく絡みし故に、邪念妄執猜疑じゃねんもうしゅうさいぎ、背徳の裏切り、怨憎(おんぞう)による復讐の行為が生まれる所以(ゆえん)となる。五常の徳に合わせて被告の欲による所業の審問により、最後の審判が下されて、天国か地獄か冥境の果てか、その行く先を定められる。煩悩と行為の正邪をはかり、不浄な霊魂は地獄へ堕ちて浄化されねばなりませぬ。汝はすでに天中命殺二百獄点に一を超えて審判を終えているが、比較裁量の余地を含むべき事象は無いかを改めて検証するのだ。分かりましたか愚かなる魂」


「たったの一を超えたからどうだってんだよ。俺は人に感謝されても恨まれるような悪行はしちゃあいねえよ。前科も無いし、蟻だって踏みつぶした事はないよ。だから天国に行くのが当然だろうよ」


「一を甘く見るなよ被告人。汝の後ろを見よ。黄金、銀無垢、翡翠、真紅、朱、紫紺に黒檀と七つの扉が見えるであろう。ここで裁かれた霊魂はいずれかの扉に導かれることになるのだが、天中命殺二百獄点を超えた汝には、黄金から紫紺までの扉が開かれることは無いのだが、四十九日の回向として下界に寄り集まる汝の奇特のありようによっては、恩赦と慈悲が合わせて判じられる。耳を澄まして聞くが良い。娑婆の閑静な住宅地の瀟洒な屋敷の大広間で、親戚知人が集まり被告の生前の噂を懐かしんでおる。悪態については容赦されるが、奇特な善行は浄として加味される」


「七つ目の黒檀の扉てのは何だ?」

渺茫無限(びょうぼうむげん)の地獄だ」


「何だ、びょうぼうむげんてのは? 地獄になんか行きたくないよ。黄金の扉の先には何があるんだ?」

「お前には無縁だが教えてやろう。黄金と銀無垢の扉はいずれも無へと通じる」


「何だ、無てのは?」

「分からぬのか?」


「分からねえから聞いてるんだろバカタレ。スマホで検索したって無は無だろうよ。顔三つも貼り付けやがって、どのツラでこっちを見てやがる。腐った政治家の二枚舌みたいに、意味もねえ言葉ならべて偉そうにはぐらかすなよ。俺は天国に行くと決めてるんだ。どの扉だ、それは?」


「口を慎めよ凡人。金と銀の扉は無限の激。生死の狭間で微に至るまで真にすべからく他人の慚愧を己の悔恨と葛藤して天命を尽くした者にのみ開かれる扉。百億人に一人も(まれ)だ。翠と紅は煩悩の無。生きて自他の隔てなく安寧(あんねい)を悟りし魂にて、億人に一人も稀であろう。朱は地獄を覗き見て浄土へたどり、紫紺の扉は輪廻の宿命を帯びて煩悶の地獄へと通じる。そして黒檀の扉こそが、(とが)の罪科を背負いて魑魅魍魎の地獄の果てへと落ちて行く。怨念をまといし亡者となりて、苦集滅道(くじゅうめつどう)の冥府をさまようことになる。せめて紫紺の扉が開かれるよう、神妙に裁きを受けるが良かろうぞ」


「やかましい。お前らなんかに裁かれてたまるか。俺は翡翠が気に入った」

 叫ぶと五右衛門は振り返り、翡翠の扉を目指して脱兎の如く駆け出した。扉に把手が無いので蹴飛ばして、思い切り体当たりしていると突然一トン塊の棍棒が振り下ろされて、悶絶したままズルズルと赤面の鬼に引きずられて被告席まで戻された。


「閻魔さま、コンクリート詰めにして血の池地獄に突き落とし、窒息百万年の刑に致しましょうか」

 あきれ返って投げやりに阿修羅が進言すると。閻魔大王がぼそりとつぶやいた。


「つい先日も同じようなバカがおったな」

「悟空と申しました。どこから持ち込んだか如意棒とやらで、黄金の扉があやうく破壊されるところでございました」

 阿修羅が閻魔を見上げて嘆息した。


 悶絶躃地(もんぜつびゃくじ)で虫の息の五右衛門は、果敢にも閻魔を見上げて減らず口を叩いた。

「猿の化け物と一緒にするな。その猿は黒檀の扉を潜ったのか、それとも紫紺か。俺は地獄には行かねえよ」


 五右衛門を見下ろして閻魔大王は、机の左右に侍る僧たちに問いかけられた。

「わずか一の減点にして黒檀の扉を開くには早計に過ぎてむずがゆい。何ぞ審議すべき事例は無いものか」


 言葉を受けて銀糸の衣を羽織った一人の僧が、手にしていた巻物を紐解いて進言をした。

「一獄点をぬぐえるやもしれぬ一例が、仁智の行為にて見られまする」


「その一件、審議してみよう」

 閻魔の声に応じて阿修羅が僧から巻物を取り上げて、浄玻璃(じょうはり)の鏡にさらすとたちまち大水晶の鏡面に、幼い女の子がうずくまっている姿が映し出された。


「五右衛門、鏡を見よ。ここが何処か覚えておるか。嘘をつけば鏡はひび割れる。その瞬間に審判は終わり、己の魂は粉々に砕けて黒檀の扉に放り込まれる事になる。心して詳しく経緯を述懐してみるがよい」


 有無を許さぬ閻魔大王の威圧に気圧(けお)されて、五右衛門は眉をひそめて語り始めた。

「あの子の事は良く覚えているよ。なじみの客に頼まれて古い物件を値踏みに行った帰りの事だった」

 


 ー小夜ー


 五右衛門の話は次の通りだった。


 客と一杯引っ掛けた後だから、夜半の九時を回った頃だったなあ。客と別れて西日暮里(にしにっぽり)の駅へ向かう途中、三軒続きの二階建てのアパートの階段下の隅っこで、赤茶けた服を着た小さな女の子がうずくまっていたんだよ。


 遊んでいるとも思えないし、俺は気になって近付いてみたら、両手で顔を被ったままじっと動かないんだ。どうしたんだって声をかけたら驚いたように振り向いて、俺の顔をまじまじと見詰めてた。その眼の縁は黒ずんで、どう見たって涙の乾いた(あと)だった。


 ひいき目に見たって可愛いという顔ではなかったが、眼のクリッとした愛嬌のある娘だった。お母さんに叱られたのかと聞いたら左右に首を振る。飯は食ったのかと聞いたら同じように首を振る。


 近くの中華店に連れて行って炒飯と餃子を食べさせながら話を聞いたら、昨夜から何も食っていないと言う。もうすぐ小学校へ上がる歳だというのに、ランドセルや筆箱すらも買ってもらえず、何処の学校へ行けるのかすらも知らない。


 幼い頃に父親は死んで顔も覚えていない。一年前に母親は再婚して義父がアパートに転がり込んで来たんだが、その娘の存在が気に入らないのか酒を飲むたびに殴る蹴るの虐待だ。


 お袋はお前をかばってくれないのかと聞いたら、いじらしい事を言うじゃあねえか、私をかばえばお母さんも殴られるから、義父が酔っ払って眠りにつくまで家の外に出て待っている。自分が我慢すれば済むことだから、夜が更けるまでここにいるんだとよ、健気(けなげ)じゃねえか。その子の名を聞いたら小夜(さよ)と答えた。


 かわいそうだとは思ったが、他人の家庭の事情に首を突っ込む訳にはいかねえから、小夜をアパートまで送り届けて俺は帰った。

 だけど、どうしてもその娘のことが頭から離れなくてなあ。一週間後にまた行ってみたんだ。その子はアパートの隅の暗がりで、小さくなって(うずくま)っていた。


「小夜」って声をかけたらな、涙に濡れた顔をひょいと上げて、黙って俺の顔を見詰めてた。おでんを食いに行こうと言ったら、ひ弱に首を横に振って動こうとしない。


 どうしたんだって聞いたら「死にたい」って言うんだよ。「死んだら何処へ行くの?」ってあどけない顔をして涙をこぼしながら聞くんだよ。「どうして人は生まれてくるの?」って、俺だって知らない事をしゃくり上げて聞くんだよ。

 昨日も一昨日(おととい)も水ばかり飲んで空腹を満たしてた。義父もお袋も働きに出た後に、義父が食べ残してゴミ袋に捨てた豚の脂身をしゃぶってたって言うんだよ。

 冷蔵庫に何か食い物くらいあるだろうって言ったら、お袋が勤め帰りに出来合いの惣菜を買って帰るだけだから、小さな冷蔵庫には醤油とソースしか入っていない。水に醤油を溶かして飲んでみたけど塩っぱいだけで、腹の足しにはならなかったと泣いていた。

 

 翌日、俺は荒川(あらかわ)区役所に行って事情を話したら、王子(おうじ)の児童相談所を紹介された。夕方の六時過ぎ、児童委員と一緒に小夜のアパートを訪ねたら、勤めから帰ったばかりの母親が訝しげにドアから顔を出した。

 来意を告げると六畳一間の部屋の隅で俯いている小夜を見詰めてうろたえた。母親が狼狽(ろうばい)しながらも児童委員と押し問答をしているうちに義父が帰って来て、小夜は眉を引きつるように吊り上げて立ち上がった。


 児童委員は改めて義父に来意を告げた。話を聞き終える前に義父の形相は一変し、履いていた靴を脱いで小夜の顔を目がけて投げつけた。

「このガキ、こいつ等に何を言い付けやがったんだ。下らねえ事をしゃべりやがって我慢が出来ねえ、テメエぶっ殺してやる」と、怒鳴り付けて部屋の隅に駆け寄り、テーブルの上に並べられた箸を掴んで小夜の眼を突き刺そうとした。


 土間に立ち尽くしていた児童委員は慌てて履物を脱ぎ捨てて、六畳の部屋に飛び込み小夜をかばうように分け入った。

「何だ、貴様。他人の家に勝手に上り込みやがって、余計な手出しをするんじゃねえぞ。どけ、この野郎。こいつをどうしようが俺の勝手だ、どきやがれ」


「そうは行きませんよ、お義父さん。児童虐待法によって子供は大人の虐待から守られているのですよ。たとえ親でも法を破れば罰せられます。子供たちは国の未来を背負っているのですよ。私たちは幼い子供を虐待から保護する為に、家庭を観察する義務を負っているのです」


「うるせえ。下らねえ法律を盾に取って俺をなめやがって好い気になるなよこの野郎。どけ、こんちくしょう」

 眉間(みけん)に十文字の血管が浮き出た義父の手が、テーブルの上の灰皿を掴んで殴り掛かろうとしたその瞬間に、「待て」と怒声で一発、真赤に血走った狐目の義父を見据えて俺は言ってやったのさ。


「お兄さんよう、そんなにその子が目ざわりならば、俺に売ってくれないか」ってな。

 振りかざした灰皿を畳に落として、ナイフのような狐の目玉が妙にゆがんで俺を見詰めた。


「娘を買うと抜かしやがったな。あんたが何者だか知らねえが、俺をからかったら承知しねえぞ。買うと言ったよなあ、今確かに。ええおい。いくらで買ってくれるのか聞こうじゃねえか。冗談でしたじゃ済まされねえぞ、こら」


 俺は商売道具の不動産売買契約書の用紙を出して言ってやったよ。ここに好きだけの金額を書き入れろってな。そんな書類が法の型にならねえ事は分かってる。だけど、俺と奴との(ちぎ)りにはなる。

 俺はその場で小夜を引き取り、翌日現金を渡してやった。

 


 その二ヵ月後の事だ。奴は俺の事務所にやって来た。可愛い娘の顔を見たくなったと言って来やがった。あの娘が百万円ポッキリじゃあ安過ぎるだろうと言いやがった。契約書を見せたらフフンと鼻で笑いやがった。


 俺は奴に五十万円を渡した。事務所で暴れてもらったんじゃあ他の客に迷惑だからなあ。奴は下卑た笑いを浮かべて、また来るぜと言い残して出て行った。

 奴は俺を甘く見過ぎていた。その五十万円はねえ、奴の前歯を利息代わりに、その日のうちに俺の手元に戻って来たよ。


 俺は女房に訳を話して、その娘を養子にして育てることにしたんだよ。同じ年頃の息子とも直ぐに仲良くなって、本当の兄妹のように育ててやった。そもそも気立ての優しい子だったから、女房も娘が出来たと言って喜んでいた。

 

 小夜は一生懸命勉強をして、都立の高等学校へ進学したぜ。そして、大学の教育学部に行って小学校の先生になるんだと夢を見ていた。

 そうしてたくさんの友達もできて、高校二年の乙女の春を謳歌している頃だった。突然小夜の母親が娘を訪ねてやって来た。


 一年前に肝硬変で亭主を亡くし、それ以来娘の小夜を思う切ない気持が日に日につのり、どうしても会いたくなって訪ねて来た。虫の良い話だけれど、小夜を返して欲しいと言って来たんだ。


 女房は激怒して母親を追い返した。それでも母親は訪ねて来た。ある日の朝、玄関を出て学校へ向かう小夜の姿を、家の前の公園の木陰から母親が見詰めていた。すっかり成長して大人びた小夜の姿に涙をこぼした。そして、授業を終えて下校する小夜の前に突然母が立ちはだかった。


 小夜の心臓は硬直し、混沌とした感情が入り乱れて手足がすくんだ。だが、いつかこの日が来ることを、心のどこかで小夜は予感していたに違いないのだ。母と娘の苦悶の涙が路傍にはじけて、桜吹雪が蒼天高く舞い散った。

 

 俺は女房をなだめて言ったんだ。小夜の運命は小夜に決めさせようじゃないかってなあ。俺たちに小夜の運命をもてあそぶ権利はねえ。出会いが縁なら別離も縁だ。人の宿命は天の定め、吉凶の(くじ)は小夜に引かせるのが筋じゃねえかって言ったのさ。


 女房の口から小夜に伝えた。自分の将来をしっかりと見据えて、決して後悔をしないように考慮して答えを出せって伝えたのさ。

 小夜は一晩寝ずに考えた。そして俺たちの前に正座して言った。大変長い間お世話になりましたって、目に涙を一杯溜めて言ったんだ。母娘の情は抜き差しならねえほど強かったんだよ。


 俺は何も言わずに頷いた。そして、大学を卒業するまでに必要な学費と当面の生活費を充分に持たせて、家を出て行く小夜を見送った。


 それから先は、風の便りに耳にした話だけどなあ、母親が肺の病に犯されて、学費も生活費も全て治療代に当てちまったが、二年と持たずに死んじまった。天涯孤独になってしまった小夜は、西日暮里の飲み屋でしばらくの間働いていたそうだが、それから何処へ流れて行ったか誰も知らねえ。



 話を終えた五右衛門に阿修羅が問うた。

「被告に問う。この話のいずこかに仁智の証左があると思えるか?」


「言うまでもない事じゃねえか。俺は幼気(いたいけ)で不幸な娘を慈悲の心を持って救ったんだぜ。これを仁智と言わずして何と呼ぶんだ」


「中途半端で無責任な慰みは、気まぐれの慈悲か気晴らしに過ぎぬ。一炊(いっすい)の夢を見させた結果、新たな不幸を呼び込んでしまったのではないか」


「それは娘が背負った宿命というもんじゃねえか。俺には人の命の定めまで見通す力なんてねえよ。それとも虐待の犠牲になっていたあの娘を、誰かが助けたとでも言うのかい。俺の金と力が無ければ、誰も救い出す事はできなかっただろうよ」


「汝は金という俗物を用いて慈悲を装い、他人を救済するという虚飾によって己の欺瞞(ぎまん)をつくろったのではないのか。偽善による慢心は、枯れ木にまとう糞尿曼荼羅と然して変わりはないぞ。真に救済すべきは母であり、義父の心ではなかったのか?」


「馬鹿なことを言うもんじゃあねえよ。母親はともかく、何で義父に慈悲が必要なんだ。世の中には善と悪があってだなあ、あいつの根性は救いようのない性悪(しょうわる)だったんだよ。そんな極悪の非道野郎は殺されたって構わねえんだ。そんな野郎に百万円もくれてやったんだぞ。すげえ人徳じゃねえか」


「善と仁智と百万円を、同じどんぶりに入れて掻き混ぜるなよ凡人。善と悪は万人の心に潜んでいるものゆえ、一時の行為をもっては決め付けられぬ。金権の善行は眉唾(まゆつば)の慈悲、気まぐれの慈悲や気晴らしの偽善は真の仁とは程遠い。身命の犠牲を賭して潔く、茫漠(ぼうばく)たる澎湃(ほうはい)の聖水に心をさらし、寛闊(かんかつ)として条理を極め哲理を超えた慈愛の情こそ真の智であり仁となす。得心(とくしん)が行ったか?」


「行く訳ねえだろうバカタレ。何語でしゃべってんだお前。六本の手で指差すな俺の目を。やい閻魔、こいつが言う通り、俺のやった行為が間違ってるか? 虚飾も欺瞞も偽善もねえよ。俺は凡人かもしれねえが、極悪非道の悪じゃねえ」


 

 ー弁財天の追及ー


 じっと浄玻璃(じょうはり)の鏡を見つめていた閻魔大王が顔を上げて、額に皺を寄せたまま命じるように、阿修羅と左右の僧を見渡して不満そうにつぶやいた声が響いて天蓋を震わせた。


「被告の述懐に嘘は見られぬ。常軌を逸した加虐のかたよりは認められるが、天中命殺獄点の二百を一つ超えた煩悩凶悪の輩とは思えぬが、他に審問阻却の事由はあるか」


 後方から弁財天と名乗る煌びやかな銀装束の女僧が、銀鈴のはじけるような甲高くも涼やかな声で献言された。

「はい、閻魔さま。義にして義にあらず、礼にも信にも失した由々(ゆゆ)しき事例がございます」


 女僧はそそと前に進み出て朱色の巻物をぱらりと開き、浄玻璃の鏡にさらすと水晶の光覚に映えて、青空の広がるその下で、喉を掻きむしりながらのた打ち回って悶え苦しむ一人の男子が映し出された。


「被告、憶えていましょう、あの男の子が何故(なにゆえ)に苦しんでいるのかを」

 弁才天の声は芳しくも三味を奏でるが如くに響き渡り、誘い込まれるように五右衛門は答えた。


「俺が悪いんじゃない。あいつが酷い事をしたからさ。だから制裁を加えてやったんだ。あいつが悪いんだよ」

「責めてもおらぬに、なぜ悪くないと抗弁するのやら。そも、言い訳は悪事のつくろい。やましい心があったのではないか?」


「無いよ」

「無いはずはないでしょう。良いか悪いかなどは非命の理。憎しみは煩憂(ぼんゆう)のはけ口。汝は義に反して邪念を(あら)わに憎しみから復讐の行為に及んだ。復讐こそが正義と勘違いしたに相違なかろう。閻魔庁の審問をなめなさんなよ」


「おい姉ちゃん、澄ました顔して理不尽な事を言うんじゃないぜ。人はなあ、どんなに薄ぼんやり生きてたって、憎む時には憎むだけの理由があるんだ。良いか悪いかは非命の理だと? どういう意味だそりゃあ。事の良し悪しがあるから恨みも憎しみもあるんじゃねえか。泣き寝入りが正義だとでも言うのかよう、あん?」

「お黙りなさい、小賢しくも生意気な。仁智義礼をわきまえて信の誠を正しなさい。己が被告であることを忘れるでないぞよ」


「うるせえなあ。だから女は面倒臭くてイラつくんだよ」

「何ですって。アンタねえ……」


「まあまあまあ、弁天さん。ここはひとつ冷静になって、浄玻璃の鏡で検証してみることにしては如何でしょうか」

 阿修羅が弁財天に口をはさんで閻魔大王がうなずいた。水晶の鏡は光明を発して巻物から風景があぶり出された。

 


 紅葉に染まった中国山地の山肌をなめるように(とんび)がピューヒョロロと鳴いて弧を描く。その村の小学校は山裾の役場の向かいにあった。

 山間の農家に生まれ育った五右衛門は、ふもとの小学校まで一里の道のりを一時間かけて通学していた。


 いつの時代にも、どこの学校にも程度の差こそあれ、いじめっ子がいて(うと)まれた。しかし、程度の差こそが問題なのである。

 いじめる側に痛痒(つうよう)は無いので、果てしもなく倒錯した優越感に快楽を求める。その快感の度合いと執拗さが、いじめられる側の苦悶の度合いと重なり憎しみの指標となる。


 毎日着て行く継ぎ接ぎの半ズボンとポケットのほころびた上着を、五右衛門は決して恥ずかしいとは思わなかった。山間のけもの道を近道にして一里の山道を歩いて通学すれば、草木の茨で裾も傷付き靴も汚れる。


 奴は、信用金庫の理事長の息子だった。食い物に恵まれていたせいか身体もでかく腕力もあった。恵まれないのは顔の醜さで、クラスの女子はもちろん、学校中の女の子から敬遠されていた。その反動がいら立ちとなり、むさ苦しい姿の田舎者の五右衛門が、奴のいじめの餌食となった。


 鉛筆を削れば芯を折られ、教科書を広げれば唾を吐き掛けられ、目と目が合えば引っぱたかれて、わざと目を合わされてど突かれた。手にも足にも痣が出来て、それでも五右衛門は我慢した。

 奴を憎んだけれども手が出せない。やり返してやりたいけれども敵わない。学校からもこの世からも消えてしまえば良いと願った。この苦しみを知っていたからこそ、息子がいじめにあっていると知った時には、裏の組織の用心棒を付けて制裁を加えてやったのだ。

 

 秋の運動会での事だった。たわわに実る柿の木や、葉っぱの枯れた桜の木々に囲まれた運動場で、生徒や父兄の声援のどよめきが村中に響き渡るうちに、最後の地区対抗リレーとなって午前中の競技を終えた。

 生徒たちはグラウンドの周囲に陣取る各々の家族の席へと散らばり、おにぎりや御煮しめや玉子焼きやらを摘まんで話がはずんだ。

 その片隅で五右衛門は一人、お袋が作ってくれた麦飯と梅干と沢庵の弁当を開いて箸をいれた。


 食べようと思った目の前に、きっちり折り目の入った純白の半パンと、そこからむき出した脂太りの脚が立ちふさがった。

「おい、みんな見ろよ、こいつの弁当を。今日は運動会だっていうのに何を食っているんだお前は。誰かこいつの弁当に、食い残しの魚の骨でも恵んでやれよ。フハハハハ」


 うつむいたまま五右衛門は、箸で摘まんだ麦飯を黙って口に運ぼうとした。その瞬間、目の前の足が蹴り出されて、五右衛門の持っていた弁当箱がグラウンドの前にはじけ飛んだ。

「フハハハハ、おい見ろよ。梅干があんな所まで飛んでっちまったよ。フハハ、フハハ」


 グラウンドの砂にまみれた麦飯が、奴の新品の運動靴の裏側でグシャリ、グシャリと踏みつけられた。朝早くから起きて病気のお袋が作ってくれた麦飯と梅干と沢庵の弁当が、奴の靴で踏みにじられた。

 五右衛門は、ぶち切れそうな堪忍袋に封印をして、怒りを恨みに変えて家に帰った。

 


 翌日の昼休み、いつものように奴は五右衛門の弁当箱を覗きに来た。ほくそ笑みながら意地の悪い目付きで近付いて来た。

「おい、早く弁当箱のふたを開けなよ。みんなが見せて欲しいって待っているんだぜ。どうしたんだよ、おい」


 五右衛門は左手を弁当の底に置き、右手でふたを掴んでパッと開いた。いつもの麦飯とは違う純白の飯が、弁当箱一杯に詰められていた。

「あれえ、どうしたんだ。いつもの弁当と違うじゃないか」


 けげんな表情で覗き込む奴の顔面に弁当箱を押し付けた。同時に奴の首根っこを右の腕で引き寄せて、鼻と口を覆いかぶせるようにして呼吸を奪った。

 一瞬に視力と呼吸を奪われた奴の身体がブルンと悶え、全力でおさえ込む五右衛門の身体を振り回した。


 五右衛門の身体が突き放たれて弁当箱が宙を舞い、呼吸を取り戻した勢いで口中の白飯を、いや農薬の白い粉末を思い切り喉に吸い込んだ。間髪を入れずに足をすくって()ぎ倒した奴の口に水筒の水を流し込んだ。

 

 五右衛門の両親は駐在に呼び出されて厳しく叱責を受けたのち、五右衛門を連れて奴の自宅へ詫びに行った。

 信用金庫の理事長を務める親父とPTAを牛耳る母親に罵詈雑言を浴びせられ、両親は玄関の土間口で這いつくばるように土下座をして謝った。その時初めて五右衛門は、奴を恨み、憎んでいた事への誤りに気が付いた。


 人間に上下の差を作るのは貧富の差だと。奴は冨の側にいたから貧をいじめることができたのだ。憎むべきは金権なのだ。奴はただ、金権の蚊帳(かや)の温もりの内側で、まやかしの稚気に戯れていたに過ぎないのだと悟った。


 奴は救急車で運ばれた後、三日間学校を休んだ。四日目に登校してきた奴に、五右衛門は正面から(がん)を飛ばした。眼を伏せたまま着席した奴の耳元に五右衛門は(ささや)いた。

「弁当は美味しかったか?」


 奴はギロリと鋭い眼光で五右衛門を見詰めた。その目玉を見据えて五右衛門は言った。

「何だ、まだ元気があるじゃないか。死んだかと思ったぜ。今度はもっと美味しい弁当を食わしてやろうか。お前の親父は俺の両親を土下座させる事はできるけど、死んでしまったお前の命まで生き返らせる事はできないだろうぜ」

 それ以来奴は怖気(おじけ)づいたのか、五右衛門をまともに正視することも近寄ることも出来なかった。


 浄瑠璃の鏡から光が失せて画面が消えると即座に弁財天が切り出した。

「怨と憎、さらに加えて金権俗物への嫉妬。煩悩の極点と申せましょう。被告に問います。小学生とは思えぬ凄惨な仕打ち、怒りから復讐に至るまでの憤怒の過程と憎しみの重みを述べてみよ」


「重みなんか無えよ。恨んでも憎んでもいねえし。奴の誤った行動に制裁を加えてやっただけだ。これが正義の義てえもんじゃあないのかよ」


「お黙りなさい。卑俗下界に生息する全ての魂は、不平等の平等によって正則正義が保たれている。慢心には瓦解あり、怨念には包容をもって許容とすべし。和解、温情、信義をもって苦難を分かつ。これにより天中命殺獄点の正否が審判されて、汝は一を超えたのです。得心したか?」


「するか、バカ。知った風な口を利くんじゃねえぞ。確かに俺は貧乏を憎み、いじめっ子を憎み、裏切り者を憎み、権力を憎み、差別を憎み、不公平を憎み、世の中の何もかもを憎んだよ。散々憎んで分かったんだよ、憎む事がいかに愚かしく無駄だってことがな。だから俺は決めたんだよ、いじめられる側からいじめる側に回ってやろうってなあ。裏切られて憎むよりも、騙して蹴飛ばして笑ってやれってなあ。差別に泣いて権力に(おのの)く弱者から、金持ちになって自由と権力と贅沢をつかみ取ってやろうってなあ。だから、怨恨(えんこん)だの怨念(おんねん)だのって感情はとっくの昔に消えて無くなってしまったんだよ。だからさっきも言ったろう、息子がいじめを受けてる事を知った時、相手に制裁を加えてやったんだ」


「話して見なさい、その一件について聞きましょう」


「あれは、息子が中学生の時だった。何日も登校を拒否して女房を困らせた。俺はおびえて渋る息子の口を無理やり割らせて事情を聞いた。話を聞いて驚いた。それはガキの仕業(しわざ)とは思えねえほど大層ないじめだった。息子がトイレに入れば排泄したウンチを食べろと言われて無理やり食わされた。太腿には何本もの釘の刺し傷が黒子(ほくろ)のように黒ずんで、背中にはたくさんの(あざ)が赤黒く染みついていた。百万円盗んで来なければ小指を一本切り落とせと脅されてドスを鞘ごと渡された。死に物狂いで家に逃げ帰って登校拒否だ。先生もPTAも知らぬ素振りの逃げ腰で、たいがいの親なら(ほぞ)を噛みながらの泣き寝入りか、悔し涙の転校だ。ところが俺は引かなかったぜ。息子に必殺の用心棒を密かにつけて学校へ行かせてやったのさ」


「話の真偽を浄玻璃の鏡にて再現したうえで、審議の根拠と致しましょう」

 弁財天が手にした琵琶をボロンと鳴らすと、鏡はたちまち光明を得て俗の光景を映し出した。


 住宅地から少しはずれた空き地に沈む夕刻の太陽はまんじりとして、子供たちの姿も浮浪者の姿も無かった。そこに学生服の胸ボタンをはだけた少年たちが三人と、伏し目におびえる仕草の少年が一人現れた。


「おい錦川、百万円はどうしたんだ。早く寄越せよ俺たちに。まさか、ありませんなんて冗談はないよなあ。小指が一本無くなるんだからよ」

 リーダー格は頭髪を金色に染めた少年だった。大柄で目つきの鋭い典型的な悪顔だった。他の二人はリーダーに媚びて、命じられるままに動く金魚の(ふん)だった。


 リーダーの目配せを受けて少年の一人が、学生服の背中に隠し持っていたドスを出して鞘から刃先を引き抜いた。刃渡り六寸の鋭い切っ先を突き付けられてズリズリと少年は後ずさった。

 そのとき一台のメルセデスが、空き地のそばにスーッと止まった。


「あれ、お坊ちゃまではありませんか。おや、お友達も一緒ですか。もう日も暮れることですから、さあ、家へ帰りましょう」

 そう言って運転席からやせ細った男が出て来て錦川少年に近付いた。


「おい、おっさん、今オレたちは大切な相談をしているんだ。邪魔をしないでとっとと消えろよ」

 金髪少年の威嚇をさらりと受け流して運転手は言い放った。


「お坊ちゃまはねえ、お前ら寝小便たれの玩具(おもちゃ)じゃないんだよ。ガキはガキ同士でつるんで飯事(ままごと)遊びでもやってりゃいいんだよ。何だその髪の毛は、毛唐の真似してバカじゃねえのか。二度とお坊ちゃまに近付くんじゃねえぞボケ」


 怒りに目をむいた金髪の鉄拳が運転手の顔面を突いた。金髪の記憶はそこで中断し、意識を取り戻したのはアパートの自宅の居間だった。

 

 自分は居間に横たわり、周囲を見回すと父親と運転手が対峙して、窓際に母親が寄りかかり、入口に錦川少年がおびえる様子で突っ立っている。

 腕も背中もへし折れたような痛みが走っているのは、自分の拳がよけられて一瞬にして運転手の男に打ちのめされたからだ。


「うちのお坊ちゃまがやられた(いじ)めの数々を、お宅の息子さんに再現させてもらいますよ。まずは五寸釘で太腿に穴を開けさせてもらいましょうか」


「なめるなよ。できるものならやってみやがれ。その前に、うちの息子をこんな目にあわせてくれたお礼をしてやるぜ」


 ようやく金髪は情況を悟った。運転手の男が何者だか分からないが、錦川少年に熾烈(しれつ)ないじめを続けてきた自分を制裁するために現れたのだ。だけど、そんな事などできるはずがない。親父は元ボクサーだったから、誰が来たって倒せるはずがない。必ず自分を守ってくれる。そう信じてうすら笑っていたのも束の間だった。


 父親の放ったストレートは空を切り、サソリが瞬時に毒を刺すがごとく男の動きは俊敏だった。父親は声も出せずにうずくまり、激しい苦悶の表情が金髪少年を恐怖におとしいれた。

 自分のいじめの後ろ盾は、校長も補導の先生さえも口出しできない父親の凶暴な強さだった。その父がいともたやすく打ちのめされた。何度も打ちのめされてすでに闘志を失っている。


 男はナイフで金髪の着ている服を胸元から切り裂いた。両親の目の前でズボンも切り裂きパンツを脱がせた。

「さあ坊や、ウンチをしろ。そのウンチをお前が食べるんだ。とっとと座ってウンチをするんだ」


 金髪はゆっくり立ち上がると見せかけて入口に向かって駆け出した。逃げようとするが男の動きの方が早い。足蹴にされ蹴飛ばされて絶望的だと知った時におびえが走る。

 少年は初めて悪魔の存在を知る。そして自分が悪魔だったことを知る。血だらけになって恥辱にまみれて逃げ場のない恐怖を知る。金髪の姿がおぼろになってスクリーンが消えた。



「それ以来、息子の登校拒否も無くなり笑顔が戻ったよ。それどころか学園内に噂が広がり、悪い仲間が萎縮したのか、すっかりいじめが無くなったと校長先生も喜んでいた。これが大義ってえもんじゃあないのかい姉ちゃん」

 いきがる五右衛門を弁財天が一喝されてのたもうた。


「姉ちゃんとか言うな。新宿歌舞伎町のお姉さんと一緒にするでない。私は聖なる天上から天女として降臨を得た美しき女神、弁財天です。良く聞きなさいよ、ゴロツキまがいの唐変木。汝にひそむ宿命微塵の憎念が歪められたカタルシスへとおちいり、正義をまがい懺悔悔悛(ざんげかいしゅん)の意志も無く危殆(きたい)な醜漢として開き直る。被告の屁理屈などどうでも良いわ。これは証左の一片に過ぎませぬ。すべからくは閻魔さまの判断に委ねられましょう」


「なんだカタルシスってのは、肩なんか凝ってねえぞ。屁理屈はお前の方だろ。何でも閻魔に振って逃げんじゃねえよ」


「このバカ魂を我が白蛇の餌にして、ヘドロの地獄に流しましょうか」

 弁財天の手に支えられた琵琶の弦がボロンボロロンと爪弾かれると、錦糸の羽衣がふわりと舞って閻魔大王の鼻先をかすめて麗しい香華が放たれた。

 

 閻魔は右手に持った黄金の(しゃく)を額に当てて両目を見開き、口ごもるようなつぶやきの声で庁の天蓋を響き渡らせた。


「人間の欲は多様にして判断を見誤り、強欲にくらみ拙策に溺れて人の道を踏みはずす。欲が根源となり精神を高揚させて腐敗したエネルギーを生み出す。ゆがめられた欲が偏見と猜疑に染まって狂気をはぐくむ。愛の中に憎しみが生まれ、憎悪の中に殺意が巣食う。欲は多岐なれども潔癖な欲などありはしない。一滴の墨汁が清水に落ちてたちまち凌駕して黒ずむように、己にひそむ悪霊のささやきに惑わされて醜く膨らんでいく。だが、被告の心には醜悪に澱んだ邪悪な欲望のかげりが見えぬ。昇華されない欲望の情念になお合点がいかぬ」


 閻魔の言葉を受けて阿修羅が五右衛門に語りかけた。

「汝の胸の内をかすめた一抹の疑念に答えておこう。法を蹂躙(じゅうりん)する裏の組織の人間を使って息子の窮地を救った行為に過失は無いかと汝は省みたであろう。己の浮気の代償に妻の浮気を看過したとしても罪は無いかと戸惑ったであろう。いずれも倫理に正せば重罪となる。ただしこの法廷は正義を裁く宮ではないし、正義のあり方について討議する場でもない。煩悩最後の審判ゆえにあらためて問う。義をもって礼を尽くし万人に愛を捧げたか?」

 

 邪悪な欲望が見えぬと閻魔が言っているのに、なんで愛とか持ち出して混乱させやがるんだとイラつきながらも阿修羅に応じた。


「親だって友だって大切にしたぜ。だけど万人は愛せねえ」

「なにゆえに、愛せぬか」


「馬鹿なことを聞くねえあんたも。万人といやあ赤の他人も身内も一緒じゃねえか。他人の不幸を喜ぶ奴はいたって、愛する奴なんかいやしねえよ」


「ならば訊ねるが、友とは何ぞや。はたまた縁とは何と心得るか。友と縁にいかような仕切りがあろうや。親兄弟を縁と言うならば、単に血縁が濃いだけのこと。村民の同胞を縁と言うならば、単に地縁が狭いだけのこと。共に県民であり、共に国民であり、共に地球人であるならば、全ての人間が縁者とは言えないか。赤の他人というものは存在しないのだ」


「旦那、そんなに物を大雑把(おおざっぱ)に考えちゃいけねえよ。いいかい、毎朝の事を考えて見れば分かるじゃねえか。新聞の一面をながめて、テレビの朝のニュースを観て、いつもとは違うひときわ大きな事件が報じられていたとすりゃあ、何があったんだろうと思って目を血走らせて覗き込む。旅客機が滑走路を突破して海に突っ込んで爆発したとか、大嵐で巨大豪華客船がひっくり返って一万人が死んだとか、天災だろうが人災だろうがマスコミが煽れば煽るほど好奇の心が狂気に躍る。気の毒な事だとか可哀そうだとか眉をひそめながらも悲劇の広がり深みに期待を込めて、死者の数を勘定してワクワクしている。そうだろう。俺ら人間は皆、他人の不幸を(いしずえ)にして己の不満を支えているんだ。その非情さ派手さに邪道な安らぎを得る。他人が死んで流す涙と愛する者が死んで流す涙は別物さ。仮初(かりそ)めの貰い泣きなんて、ゴキブリのよだれほどの毒気も味気もありゃしねえ。他人の不幸は両国の花火大会の尺玉だ。赤青十色の火花が真っ暗な夜空を大輪に染める。その華々しさがそのまま他人の不幸の華燭(かしょく)(うたげ)さ。いつも(うつ)ろな幸せの実を、その一時だけ確信できる。みんな本当は知っているくせに気が付かない振りをしている。そんな他人同士をお互いが愛せる訳なんてないじゃねえか、ねえ、そうだろう旦那」

 

 五右衛門の主張を聞き終えた阿修羅は、三つの顔で天蓋を仰ぎ見ながら仰せになった。

「世の中の出来事は常に悲惨で不幸な事件ばかりではないであろう。日本人のチャンピオンがストレートパンチを決めるたびに、大リーグでクリーンヒットを飛ばすたびに汝は歓喜しておったではないのか。彼らは汝にとって他人ではないのか。他人の栄光栄華を祈ってエールを送っていたのではないのか。汝の思考に矛盾はないのか」


「神さまのくせに例えが俗だねえ。どうでもいいけど視点をずらせば同じじゃねえか。望遠レンズだってどこにピントを合わせるかで画像が変わるんだ。オリンピックの選手だって同じだよ。俺たちの国家を代表するヒーローだと思っているから、彼らの活躍が報じられるたびに外国という他人を敵視して感動して優越感に浸るんだ。外国選手の金メダル候補が思わず転倒して日本選手が優勝にでもなれば、腹の中ではざまあ見やがれと嘲笑っている。その時俺たちは、日本選手という俺たち自身を応援しているのさ。彼らが何億円の年俸を貰ったって羨ましいとも思わねえし妬みもしねえ。生きてる世界が違うんだから。アホでもまぐれで東大に入学できるかもしれねえが、凡骨な遺伝子がどんなに努力したってオリンピックで金銀なんか取れねえんだよ」

 

 あきれたように阿修羅は六臂の腕を大きく広げ、三面六眼の瞳を見開いて仰せになった。

「ソ連の宇宙船が初めて大気圏を超えて、ガガーリン少佐が「地球は青かった」と伝えた時、米国のアポロ十一号が月面着陸をして、アームストロング船長が「人類にとっては偉大な一歩だ」とメッセージを送った時、世界の科学の進歩に誰もが国籍を忘れて胸を奮わせた。アインシュタインやナイチンゲールに敬意を表し、ビートルズやマリリンモンローに陶酔してうつつを抜かした。西部劇に憧れて荷車(リヤカー)を幌馬車に見立てて崖から転がり落ちたのは誰であったか。その時、汝は世界のすべての同胞を友とする地球人ではなかったのか。そもそも人間という血縁があり、地球という地縁がある。愛の中に人間があり、愛するがゆえに存在がある。愛の混沌におちいり陳腐(ちんぷ)な矛盾が沈溺(ちんでき)する。汝は友の愛と不幸を見そこない、真の愛を数えそこなって生涯を終えてしまったのか」


「あのねえ旦那、仏面して綺麗ごと並べたって通用しねえよ。他人という決定的な概念があるから戦争だって起きるんじゃねえか。喧嘩だって詐欺だって(いじ)めだって依怙贔屓(えこひいき)だって、他人の側にいる奴が憎しみの対象だ。それでも自分が敗者になりそうだと感じたら、仲間を巻き添えにして引きずり下ろす。サラ金地獄の火達磨(ひだるま)となり自己破産も許されずに逃げまどう。会社から馘首されて妻に逃げられ子供に愛想を尽かされ公園の隅で残飯を食らいながら(わら)(むしろ)で夜露をしのぐ。やけになってそそのかされて人を(あざむ)き罪を犯す。それが人間の本性だ。嘘だなんて言わせねえよ。そんな奴等の一体どこに愛があるって言うんだい」


「被告の負いたる宿命には憎の処断が試されております。微塵(みじん)の憎念が積弊(せきへい)の恨みとなって逆襲という所業をもって浄化をまがい、歪曲して反駁して膨張して醜漢として開き直る。危殆(きたい)な憎悪があっけらかんと昇華するも理不尽不屈の業を(はぐく)んだその心には反省の意志も誠意も見られませぬ。ここは減点……」


「やい、この、野蛮人みたいな顔しやがって、飯事遊びで減点ごっこをやってる場合じゃねえだろう。何で他人を愛せなかったら減点なんだ。他人にはなあ、天皇陛下から極悪非道の殺人犯までいるんだぜ。指の数より前科の多い悪の権化みたいな常習犯から、嬰児(えいじ)殺しの変態野郎までいやがるんだぞ。俺の親父を殺した村の性悪の男まで愛せと言うのかい。そいつ等の為にお袋まで首を吊って死んでしまった。そんな男まで愛せと言うのか。矛盾だか夢精だか村の順子だか知らねえが、そんな屁みたいな理屈が通るのか。(けだもの)だってそうじゃねえか、ちゃんと自分の縄張りをわきまえている。テリトリーを犯した奴には命をかけて威嚇(いかく)する。赤の他人とか知り合いとか身内とか友人とかいっさい関係ないんだよ」


「他人の所業は鏡に映された己の姿だ。愛も憎も所作の心理は不変。本質的な曲解は生命の綾。(こう)を経た精魂の(しるべ)に歪みが生じて真実が揺らぐ。理非曲直の修行が足りぬ」


「何おう」


 

 ー最後の審判ー


 この時、大王の(しゃく)が机上に叩き付けられ、閻魔庁をゆるがす大音が響き渡った。左右の者はすべからく(こうべ)を垂れて閻魔大王の審判を待った。


「百億年もの宇宙の歴史の中で、人の一生は髪の毛の百億分の一ほどに過ぎない。時間が流れているように見えるのは錯覚で、全ては一瞬の挿絵のようにはかないものなのだ。人は病んだ心から救われるために都合のよい土着の信仰を創造したが、虫けらたちにそんなものなどありはせん。その瞬間だけを押し付けられているのは人も虫けらも同じなのだ。人は脳味噌が発達し余計なことを考えるから、生きる瞬間が不安になり煩悩が生まれる。脳が機能を失えば虫けらと同じなのだ。自分自身の姿は鏡に映してしか見えないもどかしさから、真実の自分を知ることもできない。生きているのか幻想なのか、その理由さえ分からないからこそ、生と死に向き合う意味も無く、今を精一杯になぞるだけ。栄光も快楽も絶望も苦痛も全ては鏡の中の他人の姿を見ているだけに過ぎぬ」


 閻魔大王は七つの扉を指差して、いよいよ最後の審判の裁定を告げられる。

三毒五蓋(さんどくごがい)の煩悩をいささかも残して金銀翡翠の扉を潜らせるわけにはいかぬ。真紅の扉を開くには(よこしま)な欲望が仁義礼智信のいずれの萌発(ほうはつ)をも妨げておる。さて、朱か紫紺か黒檀か、朱は顕冥(けんめい)の狭間にて地獄に触れそぼり覗き見て浄土へとたどる。紫紺と黒檀はいずれも地獄へと導かれる扉ゆえに、怨憎(おんぞう)の不徳を仁善(じんぜん)の愛が補い、(けが)れはあれども純朴にして嘘がない被告を朱の扉へと判定するも、天中命殺二百獄点を一でも超えれば地獄の沙汰なる定めなれば朱への道は閉ざされねばならぬ。閻魔の掟に温情は無いし特例も無い。さりとて黒檀の扉に吸い込まれれば永遠の怨念をまといし亡者となって魑魅魍魎(ちみもうりょう)の闇に閉じ込められる。いささか罰が重過ぎよう。紫紺の扉を(くぐ)りて煩悶の地獄にまみれ、魂の浄化に百年の地獄刑を科すが妥当であろう」

 

 閻魔大王は、七つの扉の前に待機してたたずむ鬼に命じた。

「紫紺の扉を開け。被告に百年の地獄刑を命ずる。生を受けて死に至るまで、運命の機軸と時の座標は不変にして真如(しんにょ)。己の一生は森羅万象(しんらばんしょう)の一事に過ぎぬ。(とが)の獄に時をまみえて霊の昇華を図るがために、浩然(こうぜん)()を養い清廉純化の闇を破せよ」


 五右衛門は百年と聞いてたじろいだ。地獄と聞いて怖気が走った。

「ちょっと待ってくれ。俺もちょっと言い過ぎたが、地獄に百年は酷だろう。しかも、ここには時間が無いはずだ。なんで百年という時間が存在するんだ。地獄には何があるんだ、血の池地獄か、針の山か、教えてくれよ」


「血の池も針もある。時間は空間と重なり次元の集積によって維持される。魂は宿命を帯びて煩悩と対峙する。艱難苦悶(かんなんくもん)嫉妬怨憎(しっとおんぞう)憂戚慟哭(ゆうせきどうこく)、欲望と絶望、すべからく煩悩にまみれ菩提(ぼだい)にすがるも逃避が叶わず。耐えて乗り越えて解脱(げだつ)する。そこに地獄の意義がある」

 

 そのとき浄玻璃の鏡に光明が差し、練馬の閑静な住宅地の瀟洒な屋敷の大広間が映し出された。五右衛門の四十九日の法要で、親戚知人が集まり被告の生前の姿を噂に懐かしんでいる。座卓にはビールや寿司や天婦羅などが並べられ、本金箔の仏壇には五右衛門の写真が黒縁の額に収められて飾られていた。


「今ごろ五右衛門さんは、天国から私たちを見下ろしているのでしょうか」

 それは五右衛門の妻、真理子の声だった。

「五右衛門さんが不審死だからって、警察が富士の裾野の新興宗教の総本山を捜索したところ、金の延べ棒が五十本見つかって、事件として取り調べを受けるのが(わずら)わしいと思った幹部たちが、孤児院に寄付するための信者からの喜捨なのだって言い逃れをしたんですよ。五右衛門さんの思惑通りに、延べ棒は換金されて善財として、たくさんの孤児院に配られて感謝されましたよ。それ以来、春霞翔子さんも心を入れ替えて教団と縁を切り、善兵衛お父さんを甲斐甲斐(かいがい)しく面倒見てくれていますよ」


「おい、五右衛門」

 かすれ声は朝霧善兵衛だった。

「劉孔明を覚えておるな。彼の恩人の娘、趙香蘭ちゃんがわざわざ香港から今日の法要の為に来てくれたぞ。懐かしいであろう」


「五右衛門さん、あれから兄は改心して、父の農作業を手伝うかたわら勉学に励み、今では桂林で小さな会社を経営して、みんなから慕われています。五右衛門さんのお陰ですわ」

 鏡に映される香蘭の顔は、すでに四十の半ばを超えているであろうが、国際都市香港のキャリアウーマンとして艶々と輝いていた。


 その横には、ゴエモンアイランド・リゾートシティのホテルマネジャーを務める鰐淵敬子が黒いスーツに身を包み、上品な化粧に物憂げな風情で佇んでいる。

「五右衛門さんの訃報が流れてリゾート内に南洋マフィアが忍び込んで一時騒然となりましたが、息子さんの五郎太さんが経営を引き継いで治安もしっかり回復しました。安心して往生して下さいね」


「おい、五右衛門、わしもとっくに卒寿を越えて、もうすぐ冥土へ旅立つことになるじゃろう。お前もわしも、生き方は違ったが思い通りの人生を謳歌した。今日はお前の四十九日のお祝いじゃ。さあ、お前もビールを飲むがよかろう」


 朝霧善兵衛は手に持っていたコップのビールを、黒縁の額に収められた五右衛門の顔を目がけて思い切りの勢いでぶっかけた。

 浄玻璃の鏡からいきなり琥珀のビールが飛沫となって飛び散った。


「おおっ」

 と、慌てて阿修羅が体を交わしてのけぞった。とまどう阿修羅をそしりに弁財天が被告の釈明を申し立てた。


「娑婆からの声が飛沫の涙となって届けられました。四十九日の賑わいは人望無窮なる功徳(くどく)の証し。減刑に値するものかと思われまする」

 

 加えて阿修羅が進言する。

「四十九日の法要に集まった親族一同の声に耳を傾ければ、被告の善性を存分に讃えられておりますゆえ、二百獄点を超えたといえども百年の地獄刑にては、(つど)う人たちの意に背くことになりましょう。しかれども復讐という怨念がまとわりついて(ただ)れた妄執に犯されている宿命を勘案すれば、逃れ得ぬ煩悩の地獄のなかで葛藤苦悶の刑罰を処して魂を洗浄せしめる法も極楽輪廻の厳しき沙汰となりえましょう」


 閻魔が応じて嘆息まじりに眉をしかめる。

「生き物は全て、宇宙として仕組まれた架空のからくりの世界に生きている。虫も獣もすべからく生命は本能に基づいて長くも短くも生き抜き消滅するに、人間だけがぞろぞろと閻魔庁へと送られてくる。善も悪も紙一重であるにかかわらず定められた運命に逆らい流され裁かれる。無に帰すべき魂を、やおら地獄へと導く掟こそが煩わしい。人魂の精根を裁くはたやすいが、本質を質すには種の根源に触れねばならぬ。ワシは飽きて疲れた、どうでも良いわ」


「お待ちください閻魔さま、人魂とは誠に愛しいものでございます。さすれば不毛なれども地獄へと導かれる魂こそが、功徳の裁定にふさわしい天罰と申せましょう。被告に開かれる扉と、扉の先に定められし運命の定めと可能性をどうかお導き下さい」


 閻魔大王は頷いて、閻魔帳への記帳を命じるように指図した。そして、前言をひるがえして新たな審判を下された。

「百年から三十年の減刑を認めて七十年とする。被告を紫紺の扉へと導くがよい。これにて審判を終える」

 

 

 閻魔大王が黄金の(しゃく)を一閃すると、五右衛門は瞬時に一塊無垢(いっかいむく)の魂となり、音も無く厳かに開け放たれた紫紺の地獄門へと吸い寄せられる。


 たちまち扉は閉じられて闇となり、いきなり一万階層の摩天楼から突き落とされたかのように重苦しい気流が疾駆する。暗闇の中で悶える生命の凄まじい苦渋を感じる。光が血となり引き裂かれし魂が闇となり、無限の営みがゴトゴトと多々良(たたら)を踏む。


 瑜伽三蜜(ゆがさんみつ)顕冥(けんめい)を破する無明の闇を突き抜けて、メトロノームがコツンコツンと永遠の時を刻むかのように、現実も記憶も消されて無為となり本質を失う。漆黒の川は未曾有の流星にもてあそばれ、時限を失った胡乱(うろん)の空間が虚ろに(きし)む。

 やがて胎水の転生が細胞と化して本能を悟り、滅びてまた再生する天地の叫びを(いまし)めに、遥か数百万年の時の流れを夢幻の本懐として一瞬にして知見する。


 数千数億年の過去に生まれた一個の微細胞が分裂し、一塊の生命体に至るまでの過程を走馬灯の一巡にして活写する。白濁の闇が微生物から動物植物に至るまでの経緯を物語る。原始動物から人間に進化するまでの物語が生命の流れに乗って回想される。(みそぎ)が終わり、魂の記憶の蘇生が始まる。胎内に生を受けてから十月十日の生命追憶の後、()なる魂が新たな命の鼓動を始める。

 密閉された真空のとばりにさらさらと水が流れる。やがて羊水の川となり海となり、限りなき抱擁(ほうよう)安寧(あんねい)にほだされるも、安らぎを覚える間もなく一気に濁流となってほとばしり出る。



 二〇二〇年十二月、南インド洋沖合で発生した熱帯低気圧が巨大なサイクロンとなって北上し、風速五十メートルを超える暴風がベンガル湾を渦潮に変えてデカン高原に進路を向けた。

 高原を蛇行してベンガル湾に注ぐクリシュナ川も、普段の流れに逆らって激しく濁流となり荒れ狂った。水域の深緑は激しい暴風に(あお)られて、ちぎられた小枝や葉っぱが宙に舞い、水田地帯の古びた農家の雨戸(あまど)は大粒の雨滴に叩かれて悲鳴を上げる。


 そんな嵐のなか、強風も豪雨もびくともしないマハラジャの豪壮な宮殿の一室で、けたたましい産声(うぶごえ)が泣き渡った。サイクロンでさえも一瞬たじろいで雲の流れを変えたかと思わせるほどに、オギャギャーと凄まじい鳴き声がお屋敷の重き空気を震わせた。


 母体から胎児を取り出し両足を掴み上げた産科の医師は、雷鳴にもまさる産声に驚いて思わず赤子を床に落としてしまった。

 若きマハラジャの夫も医師も看護婦も周囲の者も、信じ難き事態に呼吸が止まった。マハラジャの瞼は張り裂け医師は死を覚悟した。


 ところがなんと、生まれたばかりの赤子は分厚いペルシャ絨毯の床に脳天から落ちる瞬間、柔らの受け身のごとく体をひねって床をはたいた。見えるはずのない目を見開いて、天井のシャンデリアに向けて微笑んだ。

 部屋の窓ガラスには凄まじい雨滴がビシビシと音を立てて打ちつけているのだが、誰の耳にも聞こえてはいなかった。


「おお、なんと(たくま)しく凛々(りり)しい男児であろうか。我がマハラジャの後継にふさわしく、赤子にして勇猛なふてぶてしい面構(つらがま)え」

 慌てて医師が抱き上げた赤子を衣に巻いて受け取ったマハラジャの夫は、感嘆の声を上げて繁々(しげしげ)と我が子を見詰めた。


「さて、この子の名を何としようか。近年になく凄絶な猛威をふるうサイクロンのさなかに、暴風雨をものともせず強き運命を護持(ごじ)して生まれしはヒンズーの偉大なる神の定めであろうか、深き信仰の思いを託してイマーンと名付けようか。それとも偉大な魂を秘めて宿したマハトマがふさわしいか。いやいや、そんな尋常な言葉にはまって収まる器量とは思えぬ。そうだ、ゴーエモンと名付けよう。名にお仕着せの意味など不要だ。力強く語呂が良ければこそ、いずれマハラジャの誉れとなるであろう」


 この日から、新たに輪廻の生命を授かった五右衛門の魂は、深重罪業の葛藤に悶えて苦しむことになるのか、はたまた恩恵の功徳に恵まれるのか、遥かなる煩悶(はんもん)の世に煩悩(ぼんのう)の宿命を帯びて、決して逃げ出すことのできない七十年の地獄の刑が始まった。


 誕生と破壊を繰り返す大宇宙の中の、小さな銀河の微細な星で、ちっぽけな細胞の(かたまり)が進化して生死を繰り返す。

 人は生まれてなぜ生き続けるのか。生きる先が見えぬから、無理やり目的を求めて希望を当てはめるのか。生きることに退屈しても不安になっても、死の先が見えぬから怯えるだけで死ぬ勇気が湧かないのか。それを勇気というのか。生きる希望が地獄なのか。希望が失せれば絶望か。絶望の先に何があるのか。決して何も無いから、絶望が死の恐怖を凌駕(りょうが)する。絶望とは、神から与えられる最後の恩恵なのだろうか。


 人は生き物を(ほふ)って生きている。屠られる側に自由はない。人間は誰に屠られる。宇宙という時間に操られ、あやなす運命に生を託し、巨大な化身に屠られている。


 はたして宇宙に輪廻があるのでしょうか。幾多の銀河が滅びたのちに、再び星たちは転生するのでしょうか。人間が腹を抱えて笑うように、宇宙も笑っているのでしょうか。


 転生した五右衛門の魂は、ムンバイのキャバクラでハルちゃんに会えるのでしょうか。ハイデラバードの小学校の保健室で千代子先生に会えるのでしょうか。

 逃れられない地獄の時間の道連れに、煩悩という試練と夢にはぐくまれて(うめ)き声の咆哮(ほうこう)となる。

                               

                          終わり


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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