表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五右衛門の極楽輪廻物語  作者: 磯部勝彦
6/7

第六章 六・七日【信の審問】

弥勒菩薩や文殊菩薩によって真の信の証について審問されます。柏原弘毅との驚愕の再会により、意表を突く方法で復讐を決行します。

 いつ辿り着けるかも分からない、時間も次元もあやふやな空間を淡々と進む。一億万歩、いや百億万歩進んだろうか、虚無の抜け殻に精気の飛沫がみなぎり始めて、白濁の空間に鮮烈な光と陰影がよみがえる。

 降りしきる鱗片に雷光がきらめくが如く、まばゆい銀輝が闇のとばりを引き裂いた。


 引き裂かれた闇の先に仰ぎ見えるのは、おお何と、麻布十番商店街歳末抽選会で当選してアフリカ一周バスの旅で訪れたタンザニアの北部、アフリカ大陸の真っ只中にそびえる高峰、キリマンジャロの氷河雪渓ではないか。

 

 眼前に果てしなく広がるのはサバンナの草原ではなく、永久の凍土ツンドラの雪原だった。だが、その先に氷河を頂いてそびえる高峰は、まぎれもなくキリマンジャロの山、陽光の無い蒼黒の闇の中に白玉の光輝を放つスワヒリのンジャロに輝くキリマの山に相違ない。


 文豪アーネスト・ヘミングウェイは、西の山頂の一角に凍て付いた一頭の豹の屍が眠っていると著書「キリマンジャロの雪」に記した。生きる為に獲物を求めて山を登ったのか、永遠の死に場所を求めてたどり着いたのかを誰も知らない。


 五右衛門は、生きる為でも死ぬ為でもなく、意思を持たない操り人形が、人形師の紐でたぐられるように白銀の原野を泳ぐが如く山を目指した。

 

 (さざなみ)が行き過ぎた遠浅の砂浜のように、突風が吹き荒んだ砂漠の風紋のように、たおやかに波打つ果てしのない雪原をヒタヒタと歩んだ。

 寒くもなく疲れもなく汗もなく、音もなく臭いもなく期待もなく、近付いているのか遠のいているのか距離感の無いままひたすら歩んだ。

 霞が溶けて霧が舞い、原野の白と天空の藍とが交差して、光彩陸離の夢幻世界へと(いざな)われ、無窮の静寂が時限の無い時を刻む。

 

 ふと見ると、山のふもとで雪だるまが手をかざして、おいで、おいでと手招きをしているではないか。目をこらして良く見ると、顔も身体も白い肌の鬼だった。


 五右衛門は、新雪のようにサラサラとした雪を両手ですくい固めると、鬼に近付き顔面目がけて放り投げた。

 白鬼は、おいで、おいでの手をそっと下ろすと、無表情に五右衛門の顔をにらみ付けた。


 五右衛門は、鬼の正面を避けて横手から背面に回り込もうと素知らぬ素振りで行き過ぎようとしたら、ズコンと派手な音がして、脳天がかち割れるような激痛が走った。


「グググググッ、この野郎。いきなり卑怯じゃねえか。クソッ、イテエ」

 脳漿(のうしょう)が飛び出したかと気遣って頭を押さえた。足元を見ると、直径一メートルの氷の塊が雪の上を転がっていた。


 五右衛門の怒鳴り声の終わる前に、一トン塊の金棒がブインとうなりを上げて振り回された。思わず眼球の黒目を十センチも顔からはみ出して驚愕した五右衛門はとっさに仰け反り、危うく金棒の顔面直撃を一寸の小差で回避した。


 あわてて雪の上を転がるように逃走しようとあせる五右衛門の頭上に金棒が打ち下ろされて、ギャーという叫び声と共にバキバキと背骨とあばらのへし折れる音が、静寂な雪原にこだまして響き渡った。


「ク、クソ、テメエ! イテテテテ、ククッ、何てことするんだ、こん畜生」


「やかましい! もたもたしてないで立ち上がれ。あそこの受付で記帳を済ませ、ゲートを潜って山を登れ。さっさとしないともう一発食らわせてやろうか」


「や、やめろ。危ないだろうオメエ、そんな物騒なもの振り回してちゃあ。白粉(おしろい)まぶしたような白い顔して、もっと愛想良くしなさいよ、あんた、あん」

 一トン塊の金棒が振り下ろされる前に、五右衛門はゲートを走り抜けて山へ向かった。

 

 麻布十番アフリカ一周バスの旅でキリマンジャロを訪れた時、添乗員のお姉ちゃんが説明してくれた。

 キリマンジャロの標高は、5,895メートルもあり、東京タワーよりも富士山よりも高いから、頂上は常に万年雪で覆われているのだと教えてくれた。


 頂上にコンビニはあるのかと訊ねたら、ゲーセンもキャバレーもファミレスも無いと答えた。自分で登って確かめたのかと訊ねたら、車も登れない険しい道で、レジのアルバイトをどうやって通勤させるのだとたしなめられて頷いた。なかなか骨のある添乗員の姉ちゃんだった。

 

 五右衛門は、登山ルートも近道も無い雪の斜面を無心に登った。可憐な花を咲かせる高山植物もキリマンジャロ・コーヒーの樹林も無い。死霊の吸気が霧氷となって凍えた顔にへばり付き、一面銀白色の他には何も見えない。

 冬化粧の雷鳥もカモシカも、白熊もペンギンも雪男も見当たらない。痛くも冷たくも痒くもない。嬉しくも悲しくも寂しくもない。黙々と頂を目指してひたすら登る。

 氷の岩盤を越え、雷雲を突き抜け、五千メートル登ったのか、五万メートル登ったのか、随分と天に近付いたような気がする。

 その時、山の峰から放たれた銀糸に輝く一条の光が五右衛門の進む道を指し示した。

 

 光に導かれるように急斜面を登り詰めて身体を乗り出してみると、氷雪に覆われた頂の中央に氷柱で組まれた五重塔が、無限に透明な白色パールの壮麗な光輝を放って建立されていた。

 天を突き刺す宝珠の先端からは霊山浄土と交わる如く、金色七色の雷光が放たれていた。


 遠目に見ると繊細なガラス細工のように思えた五重塔だが、近付くに連れて壮大華麗な建築規模に眼を見張る。重厚な氷柱の透明感が周囲を圧して、見る者の魂魄(こんぱく)にのしかかる。研ぎ澄まされた冷気が裂けて諸行無常の熱気の渦状がほとばしる。

 我に返ってふと見ると、一層の壇上の扉の脇に一人の男が立っていた。


 

 ーリヴィングストンー


 五右衛門が段を上がると、金髪に白髪混じりの男が皺だらけの顔に微笑を浮かべ、五右衛門の肩に右手を乗せて親し気に声をかけてきた。

「よく来たな。元気そうで何よりだ」


「何で元気な奴が三途の川を渡ってこんな所まで来るんだアホウ。誰だ、お前は?」

「まあ、そんなに気色ばむことはないだろう。私の名はリヴィングストンだ」


「リビングに敷布団」

「ディヴィッド・リヴィングストンだ」


「デブのリビエラの素うどん」

「リヴィングストン」


「しびんの布団」

「リヴィングストン」


「西川の快眠羽毛布団。抗菌、抗臭、防ダニ、抗アレルギーだからアトピーのお坊ちゃまにも最適で……」

「ウホン。私は暗黒大陸、熱帯アフリカのジャングルを横断した大探検家のリヴィングストンだ」


「浦安のディズニーランドのジャングルクルーズの船頭か?」

「おのれは社会科の授業の時間に早弁食らって熟睡しとったのか。良く聞け! 時は十九世紀、一八四〇年の春のこと、大英帝国伝道教会の命を受け医療伝道師として、夢も希望も文明も無い未知にして暗黒の大陸アフリカへ渡り、疫病と飢えに苦しむ原住民の人々を救い導く傍ら、猛獣や吸血ヒルやツェツェバエと戦いながら炎天下のジャングルを果敢に探検し、カラハリ砂漠を発見、ザンベジ川を発見、そしてヴィクトリア瀑布を発見し、更には何と、ナイル川の水源まで突き止めた、あの有名な英雄リヴィングストン博士を知らんのか?」


「どけ! 俺は忙しいんだ」

「ちょっと待て。君は世界の三大文明の一つ、エジプト文明の源となったナイル川の水源について興味は無いのかね、あん?」


「知ってるよ。ケニアの雌ライオンの小便だろ」

「何でケニアなんだ。何しに行ったんだ、ケニアまで」


「麻布十番商店街の空の旅で行ったんじゃねえか。文句あんのかよう」

「何だ、麻布十番てのは? ジャングルか?」


「まあ似たようなもんだが、少し違う。そんな事はどうでもいいんだ。どけ、そこを。扉を開けろ」

「待て待て、どうも東洋人はせっかちでいかん。なに、日本人だと。お前ねえ、調度良い機会だから教えてやるけどね、日本人のことを世界の人々が何と言っているか知ってるか? 歩道は歩く為にあるから歩道と書くのに、日本人だけが歩道を走っていると言われてんだぞ。何でそんなにせっかちに急がなきゃいけない理由があるんだって、この間もピンクのアオザイを着たお姉さんがあきれてたぞ」


「それは産業も経済も著しく発展を遂げていた昭和の時代の話だろうよ。今の日本の若者たちはねえ、スマホいじくりながら電信柱に体当たりしてるぜ」


「まあいいから落ち着いて私の話を聞け。ここは『(しん)』の裁判宮だ。信の審問を受ける心構えの段取りを整えて待たねばならぬ。心を静めて記憶の断片を整理するのだ。人を信じた事があるはずだ。信じて得られた結実があるはずだ。また、信じ損なって義をあやまち誠を失った不徳があるはずだ。自分の命よりも信ずる人の命を重く大切に思ったことがあるはずだ。さあ、冷静に記憶をたどるのだ」


「どんなに記憶をたどったって、ある訳ねえだろ、そんな事が。誰だって自分の命が一番大切なんだ。自分の利益の為なら身体を張るが、他人の命の為に自分の命を天秤にかけるかってんだ。どこの世界にそんなバカがいるんだアホウ」


「何と無知蒙昧かつ非情にして木石(ぼくせき)な野蛮人であろうか。良くぞその年齢まで臆面もなく生きて来られたものよ。君は太宰治の『走れメロス』を読んだことがないのかね。友を信じて己の命を暴君への担保に捧げ出した友情の感動と興奮を、君は涙をにじませることもなく理解できないと言い切れるのかね、あん」


「お前、一体どこで太宰治なんか読んだんだ。近代日本の文学だぞ。何だと、昔、白神山地を探検したことがあるだと。マジで言ってるのか、お前。コンゴ川の畔の椰子の葉陰で文学全集を熟読しただと。生きてる時代が倒錯してねえか。じゃあ訊くけどなあ、男を信じ切れなくて情夫の局部を切り取ってしまった阿部定(あべさだ)の事件はどうなんだ。裏切りの不安に溺れて殺したあげくに局部まで切り取った女の執念は見上げたもんだぜ。そんな簡単に人間なんて信じられないって事じゃあないのかよう」


「君は大変な勘違いをしていますよ。阿部定はねえ、吉田屋の主人である吉蔵に裏切られた訳でも愛情に疑いを抱いた訳でもないのですよ。痴情の勢いに思いがつのり、腰紐で首を絞める力が強すぎてしまっただけですよ。そして、誰にも触らせたくない愛しい吉蔵の一物を切り取り、ハトロン紙で丁寧に包んで後生大事に秘めていた。そもそも(さだ)には淫乱の癖があったんでしょうが、それほどまでに吉蔵を愛し、信じていたのですよ」


「お前、何でそんなに詳しいんだよ」

 

 五右衛門の疑問を無視してリヴィングストンは熱弁を続けた。

「それだけではありませんよ、君い。東海道随一の大侠客、清水の次郎長親分を見て御覧なさい。大政、小政は無論のこと、法印の大五郎だって森の石松だって、どこに出しても見劣りすることのない立派な親分格だ。そいつ等が揃いも揃って次郎長親分の度量と人徳に信敬し、己の命を捧げて仕えていたのですぞ」


「ちょっと待ちやがれ、この野郎。お前、本当にアフリカのジャングルでコブラやゴジラと戦ってきた大探検家なのか? 何でそんなに日本の裏事情に精通しているんだ?」

「コンゴ川の畔にノーベル文学賞の全作品を閲覧できる国立図書館があるのですよ」


「なんで太宰や阿部定がノーベル賞なんだ。法印の大五郎なんて、日本人だって知らねえぞ」

「あなたノーベル賞の由来を知っていますか? 彼は偉い科学者だったが、幼い孫娘のために線香花火を作ろうとして、火薬の量を少し間違って原子爆弾を作ってしまったのですよ。その誤りを悔いてノーベルダイナマイト文学賞を創設したのですよ」


「お前の国の教科書にはそう書いてあるのか。ふざけるなよ、ハッタリばかし噛ましやがって。社会科の真知子先生が聞いたら、激怒して黒板消しを投げつけられるぞ」

「落ち着きたまえ。私は勇敢な大探検家であると同時に偉大な宣教師でもあるのです。路頭に迷える子羊や、智恵浅き愚者を導かねばならぬ」


「誰が愚者だ。お前だろ、知恵遅れは」

「痛ッ。いきなり蹴飛ばすなよ。待て、こら、その扉を開けてはならぬ。その前に信の審問を受ける心構えを。こら、待たぬか日本人、野蛮人」

 


 ー菩薩様ー


 氷の厚い扉を押し開いて中を覗くと、前方に祭壇らしきものがあり、その脇に白肌の鬼が金棒を手にして立哨していた。

 氷製の壇上に氷のローソクが一本立てられ、青白い炎が氷壁の暗がりを仄かに照らし出していた。白鬼は五右衛門の姿を一瞥すると、右の手でローソクを取り、左の手の平を上に向けて手招きをした。


 五右衛門は知らぬ素振りで顔を背けた。皮膚の色が蛍光ピンクであろうとパールホワイトであろうと、凶悪な鬼の形相が怪奇醜悪であることに変わりはない。

 何度見たって見慣れるはずもない。(いや)なものは誰だって嫌に決まっている。ただそれだけの動機で、逃げ出す理由も恐れるしこりも無いはずなのに、ただ関わりたくない衝動だけで駆け出した。


 祭壇の横から奥へ通じる廊下が続いていた。四角い五層の五重塔に、これほど長い廊下があることに奇妙な戸惑いを覚えながらも五右衛門は駆けた。


 あっと言う間に鬼の気配を背後に感じたその時、白鬼の投じた鋭いつららの矢尻がズコンと後頭部を貫いて脳味噌に突き刺さり、五右衛門はもんどり打って倒れて悶絶してしまった。

 白鬼はローソクの炎を前方にかざし、五右衛門の首根っこを摘まんでズルズル引きずり、廊下の突き当りまで行くと審問室の扉を開けて五右衛門を中へ放り込んだ。

 


 後頭部のつららが融けて気を取り戻した五右衛門が、おもむろに顔を起こして正面の壇上を見上げると、四尊の菩薩様が興味深そうに五右衛門の様子を見下ろしておられた。


「何を見てんだよ、お前ら。どこだ、ここは?」

 四尊の菩薩様は相互に顔を見合わせたのち、弥勒菩薩(みろくぼさつ)様がお声をおかけになりました。

「信の審問を行いますゆえ、被告席に座って汝の名を名乗れ」


「うるせえ! 何もかも悟り切ったような(つら)して澄まして座ってんじゃないよ。どこの何様を気取ってんだ。人に命令する前に、テメエらが先に名乗るのが礼儀ってもんじゃないのかよ」


「これまでの審問の過程に疲弊(ひへい)して、被告はかなり根性がひねくれてしまったように思われまするな。ここは信の審問宮でありまするよ。私は婆羅門(ばらもん)の祖として兜卒天(とそつてん)に於いてあまねく、未来へ通じる天上天下の(ことわり)について瞑想にふけり、百億年の修行を重ねる弥勒菩薩でありまする。右におわすは文殊菩薩(もんじゅぼさつ)。五台山を根城に『三人寄れば文殊の知恵』でおなじみの、森羅万象(しんらばんしょう)の惑いをぬぐって仏門へと導く知恵の菩薩でありまするよ。左におわすは峨眉山(がびさん)を居城に六牙の白象をペットにはべらし、慈悲と理智をもって人々を安寧に導く普賢菩薩(ふげんぼさつ)。その隣におわすは南海に浮かぶ小島、普陀山(ふださん)を霊場とする観音菩薩(かんのんぼさつ)、またの名を観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)でありまする。さて、汝の名を質す。申してみよ」

 

 水晶玉の風鈴が涼風にそよいで奏でるような弥勒菩薩の気高き声で、すっかり落ち着きを取り戻した五右衛門は、威儀を正して背筋を伸ばし、真摯(しんし)な気持ちで語り始めた。


「中国山地の深奥の湧水を源流として、早鞆(はやとも)の瀬戸に向かいて清流が走る。山桜の花弁が風に舞いて錦帯橋に春を告げる。早暁に映える岩国城天守閣の白壁が、錦川の川面に揺れて寂然の陰影をかもし出す。錦川の水を産湯に使い、石川五右衛門の純血をよみがえらせた伊達男、性は錦川、名は五右衛門」

「…………」


「錦は、ボロは着てても心は錦鯉の錦と書いて、川は、アンデス川と四万十川の……」

「もうよろしい。随分と持ち時間を無駄にしてしまいましたので審問を急ぎましょう」

 額から一筋の脂汗(あぶらあせ)を垂らしながら、弥勒菩薩が審問を始められた。


「信とは、一切を信じて疑わない己の心。嘘いつわりの無い誠の心。心のよりどころとして愛があり、その礎に信がある。被告よ、述べてみよ、己の信のありようについて」


「無いよ」

「…………」

 

 二筋の脂汗を額に浮かべて沈黙されてしまった弥勒菩薩に代わり、文殊菩薩が半眼の目を半分開いて隣の席からおっしゃられた。


「仁、義、礼、智の各審判宮から送られてきた被告の審問調書によりますと、様々な有為の出会いと確執の検証の中において、心に刻まれるべき信の軌跡がうかがえまする。錦川に生息する五右衛門とやら、己が心に秘めた凜然たる信の証を振り返り見て、(おご)らず(おく)さず示したまえ」


「何が示したまえだ悶絶菩薩。錦川の山椒魚みたいに言うな。俺は金輪際(こんりんざい)、人なんか信じちゃいねえよ。信じるから裏切られるんだ。親だって身内だってそうさ。この世の習いに従って子供を作る。オギャーと泣いて生まれた子供はすでに三つ子の魂を持った他人様だ。同じ血が流れていたって染色体が似ていたって別の事を考えている。思いも考えも違う人間に一体何を信じろって押し付けるんだ。心のよりどころだって? 笑わせるな。生まれる時が一人なら死ぬ時だって一人ぼっちだ。どこによりどころがあるってんだよ。心だなんて絵空事を言ったって、俺はそんなもの見たこともないよ。寺の坊主がうわごと並べて勝手に考え出した妄想じゃねえか。そんな安上がりな言葉を軽はずみに辞書になんか載っけるんじゃねえぞ」


「だまらっしゃい、愚か者! 自然の摂理を何と心得おるか。人は信をもって生を受ける。疑心も猜疑もなく母を信じて乳を飲む。身を預けて眠りに落ちる。本能の基盤に信がある。成長の過程に於いて信がゆがんで変化する。猜疑が生じて憎しみが生まれる。されど、信が失われる事はあり得ない。宇宙の存在そのものが信であるが故に。信の摂理の中に人は(はぐく)まれている。人は生まれた瞬間から世俗という毒に侵され、毒と戦うために武具を備える。それが信だ。よく聞け被告。信は天を駆ける彗星のごとく素早くきらめくが、蜃気楼のように(はかな)く掴みどころのないものだ。信が感情とからみついた時に銀箔(ぎんぱく)(つるぎ)となって乱舞する。裏切りに会って信を切り裂き、信に(つまづ)き信に行き詰まった時に愚か者は走る。親も不信、子も不信、恩師も友もみな不信。自分以外に信じられる者は誰もいないのだと。人の世で、最も信じられない者が己の心だという事に気付かずに、真の信を見失うのだ。己の心ほど猜疑に満ちたものはない。大自然の摂理の中に信があり、人の営みの中に理性が働き感情が動く。信は感情にもてあそばれて陰影に霞むが、真の信は(こう)をつむいで奇跡を織りなす。愛が近付けば火傷(やけど)をするが、信に近付けば凍傷になる。汝の信の(あかし)を有り体に示してみよ」


「…………」

「文殊はん、まずは被告の一側面を映像に照らして詮議いたしましょうぞ」

 答えに窮して黙り込んでしまった被告を案じ、合掌の御手を解かれて観音菩薩が提案された。


「そうですな、観音はん」

 観音菩薩が右手にかざした錫杖(しゃくじょう)を一閃されると、束ねられた黄金の輪環が互いに撥ねて久遠の音色を響かせる。


 やがて豪壮な天蓋(てんがい)から光彩の霧が流れて立体のスクリーンが浮かび上がる。そこに映し出されたのは、国会議事堂を取り囲む警視庁機動隊のバリケードと、警官隊に石を投げつけジュラルミンの盾をけ飛ばしてデモを扇動する全学連、双方の凄まじい攻防風景であった。



 ー裏切りー


 武庫川むこがわ光一こういちとは高校時代からの親友だった。彼は独創的な人生観を持ち、圧倒的な情熱家であり思想家でもあった。日々を凡庸に生きる五右衛門にとって、彼の行動力が適度な魅力になっていたのかもしれない。


 誘われるまま同じ大学に入学し、薦められるまま新聞同好会に入部した。武庫川は知っていたのか、そこは全学連の過激なセクトの集まる巣窟だった。

 そこに、追手門おうてもん玲子れいこが入部して来た。


 彼女はかいがいしく部員たちの世話を焼き、とても過激な思想にかぶれた女闘士とは思えない(しと)やかなお嬢様だった。

 立ち込める紫煙と()えた男たちの臭気の中で、こけし人形のように可憐な玲子の存在は、ドブ川に息づく小鮒のように、危なっかしくて仕方がないと五右衛門は気遣っていた。

 

 新聞にはベトナム戦争の悲惨な写真が毎日のように掲載されて、べ平連が生まれ、ジョーン・バエズが反戦フォークを歌う。国会議事堂の前で檄を飛ばし、ジュラルミンの盾に向けて火炎瓶を放り投げる。

 原子力空母が寄港すれば佐世保まで出向いて石を投げつけ、安田講堂に立てこもると聞けばカップヌードルを持って支援に駆け付けた。

 その先鋒にいるのはいつも武庫川だった。そして玲子がいて、五右衛門は彼女を見守った。


 武庫川は暇さえあれば檄を飛ばしていた。何をアジッているのか五右衛門にはさっぱり分からなかったが、いちいち頷きながら相槌を打っている玲子の可憐なあどけない姿がいじらしく、その姿を見る為だけに参加している自分を疎ましく感じることさえあった。


 下落合の下宿の一室で、五右衛門は切ない心の内を武庫川に打ち明けた。玲子を慕い気遣う気持をこれ以上胸に仕舞っておけないからと親友の光一に打ち明けて、もうこれ以上玲子を煽動しないように、過激な思想と闘争とイデオロギーの渦に巻き込まないようにして欲しいと懇願した。


 彼は大きく頷いて励ましてくれた。自分は世界の平和と国家の為に命を懸けて信念を貫く。しかし玲子は違う。君の優しさと情熱で、君の熱き懐に抱き竦められてこそ彼女には幸せが得られるだろうと言ってくれた。


 五右衛門は打ち明けただけで心が晴れた。玲子を慕う気持が恋に変わった。恋する瞳で玲子を見詰め、恋する言葉で玲子に接した。そして、就職を決めて生活の目処を付けた時こそプロポーズの言葉を突き付けようと決心していた。


 卒業式が終わって間もなくの頃だった。武庫川光一と追手門玲子の連名で結婚披露宴の招待状が届いたのは。

 いつ信念が変わり、いつ肩まで伸びた長い髪がカットされ、いつ就職活動をして、いつ結婚の約束をしたのか五右衛門は知らない。そして、いつ一流会社に就職が決まり、いつ玲子の腹に光一の赤ん坊が宿ったのかも知らなかった。

 五右衛門の心臓は破裂した。血みどろの心は臓腑にまみれてさまよった。



 霧が消えて、文殊菩薩が穏やかな御声でお尋ねになった。

「思い出したようだな被告。信の空回りによる猜疑の憎を語るが良い」


「憎なんか無いよ」

「恥じることなく語るが良いぞ、臓腑が煮え繰り返るような憎悪の情を。心の底から憎んだはずだ。無二の親友の欺瞞(ぎまん)に裏切られた嫉妬の炎が、まさに拭えぬ怨恨の指標なのです。素直に吐きなさい、いかほどに憎しみを抱いたかを」


 文殊菩薩が心の内を喝破(かっぱ)してのたもうた。その慈悲深いご尊顔に向けて五右衛門は吠えた。

「憎んじゃいねえと言ったはずだ。あの時、俺は考えた。親友とは何かを考えた。光一を憎む前に答えを見付けたんだよ。男と女の色恋の前には、まやかしの親友なんてサーカスのピエロの苦笑いと同じさ。光一は俺を裏切った訳じゃあねえんだよ。彼の高邁(こうまい)なアジテーションと同じように、彼のやり方で恋をつらぬいたんだ。ピエロはいつも野暮(やぼ)を演じて笑われるのさ。親友なんてそんなものさ。だから俺は彼らの結婚式には出席しなかった。悔しかったからじゃない、切なかったからでもない、恥ずかしかったから出席しなかった訳でもない。親友というレッテルを捨て去る為に、彼の前から消えたのさ」


「おい被告。ここが冥界の裁判宮である事を忘れるな。いかように恰好(かっこう)つけても(つくろ)っても、火の玉の如くほとばしる一瞬の怨念の血飛沫を、菩薩が見逃す事はあり得ないのだぞよ」


「それは怨念ではなく疑念だ」

「そんな言葉のまやかしに興じている暇はない。先ほど教え賜うたように、汝の信の証左を有り体に申し述べてみるがよい」


「だから言ったよ、無いって」

「無くはない。信とは一つ。信は疑に反し、疑は信に(そむ)く。真に疑する思惑の無き誠の心を持ってあがなう信の行為。汝にも、思い当たる事が数々あるはずだ。しかと瞑目して思い当たる事象を語ってみよ」


「当たらないよ」

「信とは一つ。嘘いつわり無き信条の遵守。下賤(げせん)のボンクラにも解するように安直に申せば、断じて嘘をつかぬと貫く堅き信念。然して、欺瞞讒言なきその行為行動の帰結。しかと思考して、これと頷くであろう信の証を話して聞かせよ」


「頷かないよ」

「クホン。信とは一つ。己を信じ、他人を信じ、決して約束を(たが)えることなく誠実、信頼、真にして価値を清めて愛を知る。汝の心に手を当てて、矜持(きょうじ)の偽りを惑い(たが)うことなく、愚直ありていに申してみよ」


「ふざけんなよ。心にどうやって手を当てるんだよ。どこにあるんだ、心なんて。誰が下賤のボンクラだ。だいたいこの世の中に信なんてある訳ないだろう。昔、伊達政宗って戦国の大名が言ってたっていうじゃねえか、信に過ぎれば損をするってなあ。うかつに他人を信じてみろよ、損するどころか墓穴を掘って血を見るぜ。己を信じろだと、そんなもの信じてたら、銭儲けも出世もできやしねえよ。自分の本音をいつわって、嘘つきまくって他人をけ落として、ひたすら生き抜いていくのが常道ってもんじゃねえか。お天道様をまっとうに拝めなくたって、ご法度の裏街道を歩く嫌われ者だって、勝新(かつしん)の座頭市の仕込みの居合いはかっこ良かったぜ。あれこそ正義の信だろう。信仰とか信頼ってのはなあ、くたばり損ないの野良犬の糞みたいなもんなんだよ。見てるのも忌々(いまいま)しいが、け飛ばせば靴が汚れて始末に困る。嘘も方便って(ことわざ)を知ってるか。嘘ハッタリで相手を信じさせて喜ばす、商売の基本じゃねえか。あんただってそうだろう、鶯谷(うぐいすだに)のキャバ嬢に手を触られて、いい男ぶりだねえっておだてられ、(みさお)も誇りも捨てた商売女の言葉をうのみに信じるかい。そんな方便を信と言うんかい。何が菩薩様だ、お前ら、生きてる俺たちに、一体どれだけの施しをしてくれたっていうんだ。のんきに裁判官を気取ってんじゃねえよ。神だの仏だのって勝手に作りやがって、どこがどう違うんだ、あっ、痛て。何で剣で突くんだよ、審判官のくせに」

 

 愛嬌も節操も無いというより、尊厳のその字も儀礼のかけらも分別も無い被告の態度に業を煮やして、文殊菩薩は蓮華座からお立ちになって智慧の宝剣を振りかざされた。


「おのれ、天下鉄壁なる賎陋(せんろう)下種(げす)にして忘恩の獣心。人が、いや、菩薩が下手(したて)に出るからと思って調子に乗るなよ。菩薩連合を糞味噌(くそみそ)に愚弄しおって、天中殺百万獄減点に加えて針底の釜茹で地獄に百億年、怨念呪縛の皿屋敷の呪いと、永遠の血の池のなぶり半殺しの地獄に…………」


「ま、まあまあ、文殊はん。被告の生涯にはまだ続きがありますゆえ、今一度スクリーンにて、被告の生き様を吟味してみましょうぞ」


 堪忍袋をぶち切らした文殊菩薩をなだめるように、普賢菩薩が凛とした声でおっしゃられた。その言葉を受けて観音菩薩の御口から呼気が舞い、手に持っておられた蓮の花弁をさらりと払われると、たちまち空間に雲霧が立ち込め、いきなり立体の画像が渦巻き土煙が地面を這った。



 ー真理子ー


 時は昭和二十年、大日本帝国政府が崩壊しポツダム宣言を受諾して、中国大陸から関東軍の歩兵や民間人がぞくぞくと撤去を始めた。しかし、日本軍降伏の報を知った中国人たちは、これまで散々(しいた)げられてきた日本軍に復讐の牙をむき出しにして、無差別に日本人を襲い始めた。


 軍人も民間人も衣服を変えて中国人に成り済まし、足手まといになる赤ん坊を泣く泣く捨てて、死に物狂いで引き上げ船の停泊する沿岸の港へと逃げのびた。

 

 中国と国境を接するポルトガル領マカオの町はずれの教会の扉の前に、みすぼらしい衣服に包まれるようにして赤ん坊が捨てられていた。

 泣き声に気付いた牧師が赤ん坊を見つけて抱き上げると、襟元に一枚の紙きれが挟まれており、真理子と記されていた。


 身の回りの世話をしてくれている中国人の娘に紙切れを見せたら、「日本人だ」と、娘は小さく叫んで眉を怒らせ、醜いものを見るような目付きで赤ん坊をにらみ付けた。娘の両親は日本軍に殺されたのだ。スパイの子として嫌疑をかけられたまま孤児となった娘を、牧師は教会に(かくま)ったのであった。

 だから、日本人の赤ん坊をこの娘にあずければ、きっと殺してしまうに違いない。たとえ娘が手を下さなくとも、中国人の住民によって殺されてしまうだろうと案じた牧師は、アメリカ人の退役軍人である敬虔な信者の家を訪れて赤ん坊を委託した。

 

 アメリカ軍の計らいによって赤ん坊はフィリピンに運ばれて、スービック米軍基地から日本の横田基地へと空輸された。赤ん坊はマリーと名付けられて、基地内で働く米国人夫婦に養育を託された。


 昭和二十七年、GHQの引き上げにより米軍人の本土帰還が始まり、マリーは日本政府に引き渡されて、苗字の無いまま真理子として孤児院に引き取られた。

 日本語のたどたどしい真理子は毛唐(けとう)の子供だ、赤鬼の子供だと罵られ、悪態をつかれ虐待を受けながら耐えた。

 

 真理子は親の愛を知らなかった。愛というものが、どのようなものなのか想像もつかなかった。日曜日に真理子は教会に連れて行かれた。厳かな空気の中に胎内のような静けさを感じた。

 祭壇に続く一本の通路を挟んでたくさんの長椅子が並んでいる。ステンドグラスの窓が太陽の光をさえぎるように、赤や緑の鈍い色彩を閉じ込めていた。十字架の下でマリアの像が、祈りをささげる人たちを見下ろしていた。

 

 牧師様の説教を聞き、オルガンの音に合わせて讃美歌を歌う。牧師様の話が終わり、人々の私語のざわめきに教会の内の空気が和んだ。その時、真理子の目が釘付けになった。

 母と娘が楽しそうに語り合っている。胸の内を羨望と憧憬のなまあたたかい風が舞った。悲しくはない。悔しくもない。ただ、死ぬほど羨ましい母親の情にあこがれて、じっと母娘の姿を見詰め続けていた。

 

 親がいれば鬱陶(うっとう)しくもあり、反抗もするし親不孝もする。どろどろとした人間としての生きざまを目の当たりにして失望する者も憎む者もいるかもしれぬ。

 親でも兄弟でも姉妹でも、いないと思えば理想の姿を思い描けて、まばゆいような幻の世界に陶酔できる。だが、本当にいない者にとっては、永遠の夢を追い続ける憧憬と羨望の苦悶に喘ぐことになるのだ。真理子は親の愛を知りたくて、苦悶の情に喘いでいた。

 


 ある日、真理子は教会にお祈りに来る同じ年の女の子と仲良くなった。彼女の母は敬虔なクリスチャンで、とても親切で優しく美しい人だった。身寄りのない真理子を憐れんで可愛がってくれた。家にも連れて行ってくれて、食事もご馳走してくれた。


 真理子は幼い頃から何百となく母の姿を描いてきた。その空想の姿が女の子の母の姿に重なった。空想の中で真理子は、何千回となく顔の見えない母に甘えていた。

 真理子は恐る恐る女の子の母に甘えてみた。母親は女の子に接すると同じように真理子の甘えに応じてくれた。何のてらいも躊躇もなく受け入れてくれた。

 それ以来、真理子は甘えに大胆になった。(うみ)の溜まった吹き出物がマグマのように膨らんで、皮膚を破って吹き出すように、女の子が甘えればそれ以上にベタベタと、母の愛をむさぼるように甘えまくった。

 

 ある夏の日のこと、三人で湘南の海へ出かけた。水着を撫でる海風が全てを開放させて屈託がなくなる。あこがれていた母のおっぱいに触れてみたいと思って、真理子は母親の乳房に手を差し伸べた。

 人差し指が水着越しの乳首に触れた時、いきなりバシリと叩かれた。娘であればきっと叩かれる事はなかったはずだ。ただ、じゃれついていたはずなのに、母子ではないのだという絶対的な意思を思い知らされた。


 その日から、真理子はきっぱりとけじめがついた。すべては他人なのだと。母の幻を追いかける事にきっぱりと決別できた。だからといって真理子はひねくれる事もなく、ぐれて暴走族の仲間入りをする事もなく、日曜日に教会へ行って、牧師様の説教を聞くことに安寧(あんねい)を求めていた。


 

 ー朝霧善兵衛ー


 ある日、孤児院に一人の老人が現れた。彼は七十歳を少し超えていたが溌剌(はつらつ)として、まだ老人と呼ぶには早過ぎるかもしれないほどに矍鑠(かくしゃく)とした見ばえだった。


 彼は孤児院の中を見渡して、真理子を指さし養子にしたいと申し出た。彼には妻も子もなく孤独だった。

 いや、これまで決して孤独などと感じた事などあり得なかった。彼を取り巻く環境が、多忙で喧噪で複雑だから、孤独などに気付く暇などなかったからだ。

 ところが七十という年齢を超え、死に至るまでの寂寞(せきばく)を感じ始めて、可愛い女の子をそばに置いて養育したいと考えたのだ。


 彼が真理子を指さしたのは、きつい眼差(まなざ)しとエキゾチックな顔立ちであろう。恐らく大陸か南方の血が混じっているのかもしれない。その不穏さが老人の心を捉えたのだ。

 その日から彼女には苗字が添えられて、朝霧あさぎり真理子まりことなったのである。


 その老人は朝霧あさぎり善兵衛ぜんべえと名乗り、我が娘のように真理子をいたわり可愛がった。

 練馬の閑静な住宅地の一角に、赤い屋根の瀟洒(しょうしゃ)な洋風のお屋敷に老人は住んでいた。二階の一室を真理子の為に与えたが、夜になって寝るときだけは、老人の寝室の大きなダブルベッドで、真理子を人形のように愛おしく抱きしめて眠りに落ちる事だけが安らぎだった。


 真理子はといえば、見ず知らずの老人に如何ほどの感情もなく、親だとか、愛だとか、夢だとか、寂しさだとか、冬の木枯らしが吹きさらしたように、心の中は空っぽだった。


 食事は通いの家政婦が作ってくれるし、家の中は常に清潔に整えられていた。老人と二人だけの生活は退屈だったが、中学生になって友人ができて、ほんの少しの生気がよみがえった。

 


 真理子が高校生になってしばらくの頃だった。家の前に黒塗りのキャデラックが一台横付けにされて、後部座席の左右のドアから礼服を着た男性二人が降りてきた。

 真理子は突然の来客に興味を示し、家政婦を差し置いて、真理子がみずからお茶出しをして、黙って老人の横に居座った。


「先生の力を、お借りしたい」

 老人のことを先生と男性は呼んだ。


 老人は一体何者なのかと、これまで一度も意識した事はなかったが、改めて真理子は興味を抱いて客人の言葉に耳を傾けた。


「二日前に、私たちの父が亡くなりまして、兄弟姉妹の五人に妾も加えて遺産分けの話し合いをしているのです。遺書もきっちりありますので問題は無いのですが唯一つ、父の書斎に残された大金庫に多額の現金が納められていると記されておりまして、ところがダイヤルの番号も、鍵の所在も誰も知らないのです。この金庫が開けられないことには、遺産分けの処理が終わらないのです。どうか先生のお力で大金庫を開けて頂きたいのです。もちろん、お望みの報酬は支払わせて頂きます」


 朝霧善兵衛はおもむろに口を開いた。

「私のお世話になった方からの紹介ゆえに、お引き受けする事にやぶさかではないが、はて、いつごろ製造された金庫でしょうかなあ」


「いかんせん、私たちの生まれるはるか以前に、香港から密かに取り寄せたものだと聞いております。幼い頃に一度だけ、中を覗かせてもらった記憶があるだけで、以来、触らせてもらう事すらできませんでしたので、いつどこで製造されたものなのか、全く見当もつきません」

「よろしい。それではお父上の大金庫を拝見させて頂きましょう」

 

 翌日、運転手だけのキャデラックがやって来て、真理子は老人と一緒に後部座席に乗り込んだ。


 世田谷の広い敷地の古いお屋敷の噴水の前で降ろされて、玄関から長い廊下を歩かされ、吹き抜けの居間の先の書斎に通された。虎皮の絨毯が敷かれた部屋の窓際に、唐草模様に彫り飾られた黒檀の大きな机と両肘の椅子が置かれていた。


「先生、この金庫です」

 机の横にどっかと据えられた大金庫。それを見詰める朝霧善兵衛の周囲には、六人の男女が不安げに様子を見守っていた。


 しばらく腕組みをして瞑目し、フッと溜め息をついた善兵衛は、持参した鞄の中から古びた聴診器のようなものを取り出して、吸着パッドを金庫の扉にあてがい、イヤホンのような物を両の耳に差し込んだ。


「静かに願いたい」

 そう言って善兵衛は右手の人差し指で、ゆっくりと金庫のダイヤルを右方向に回し始めた。いや、回し始めたかどうか、素人の目には定められぬ程の僅かな微動で、一時間ほどかけて回して動きを止めた。一旦イヤホンをはずして一息ついて、今度は左方向へと回転を始めた。


 そうして五時間を経過した頃、指の動きがピタリと止まった。無言のまま善兵衛は聴診器を鞄にしまうと、のこぎり鮫の(ふん)のように、いくつもの(とげ)が突き出している長軸のピンを取り出した。

 ピンをしならせるようにゆっくりと鍵穴に差し込んで、耳垢をほじくるように掻き回していると、キーンと金属音が鉄の金庫の扉に反響した。


「おおっ!」

 あまりの長時間と沈黙に、すっかり意気消沈していた六人の瞳がばっちりと目覚め、おもむろに立ち上がる善兵衛に代わって長男と思われる男性が、大金庫の扉のノブを握ってガチリと下げて、思い切って手前に引いた。


 そのとき真理子は、初めて朝霧善兵衛の正体を知った。真理子は嫌がる善兵衛を説得して、高校に通学しながら鍵師の技を習得した。

 


 そも、善右衛門は、伊勢国桑名の刀鍛冶師の末裔だった。たたらを吹いて溶かして延べた鉄の塊を、精魂込めて叩き上げ、磨き上げ、秘伝の技が名刀を生み出す。妖刀と呼ばれた『村正(むらまさ)』こそは、桑名の刀鍛冶師によって作り出された怨念の名刀なのである。


 織田信長が本能寺で討たれ、豊臣秀吉によって天下は平定され、なお徳川の時代になると戦乱の世は終結し、刀の需要が激減してしまったので、善兵衛の祖先は和錠と呼ばれる錠前作りに鞍替えし、鍛冶師の技を磨き直したのである。

 さらに技術は子息へと継承され、錠前作りのみならず、鍵を使わずに開錠する鍵師の技も身に付けていった。


 その良血を受け継いだ善兵衛は、大銀行の大扉さえも開ける腕を見込まれて、香港の劉孔明に乞われて招かれて、見込みのある配下に鍵師の技を教え込んだのである。

 目的を果たした善兵衛は、その後も劉孔明のもとで仕事を続けていたのだが、七十歳を前にして故国への慕情がつのり、日本に戻って余生を送りたいと決意して、手厚い報酬金を与えられて香港を後にしたのであった。

 

 真理子は大学で養護教諭の資格を取得して、小学校の保健室の先生になっていた。真理子にとって鍵師の仕事は趣味だった。

 ときおり、古い金庫が開けられずに困り果てたプロの鍵屋が、善兵衛を訪ねてやって来た。そんな時、高齢になって聴力も衰え始めた善兵衛に代わって、興味本位に真理子が処理をしていたのだが、差し出された報酬は孤児の集まる養護施設に寄付していたのである。

 


 ある日のこと、三年生くらいの女の子が保健室の扉を開けて、頭が(うず)くと言いながら涙交じりに立ちつくしていた。


 真理子は女の子を中に入れて前髪をそっと掻き揚げると、小さな(あざ)がたんこぶになっていた。それだけではなかった。背中を見ると、シャツから透けて見える白い下着に、赤黒い斑点が模様のように散らばっている。鋭いナイフの切っ先で、シャツの上から背中をツンツンと突き刺してにじんだ血の跡だった。


 その子に理由を問いただしたら、親が借金を返せずに、貸主の息子の同級生になじられて、毎日いじめを受けていると言うのだ。

 真理子はさっそく家庭訪問をした。父親は闇金の借金地獄に耐えきれずに妻子を捨てて蒸発していた。毎月のパートの稼ぎから、僅かずつの返済をしても賄えるはずもなく、当てもなく苦しむ母親の姿があった。


 闇金の取り立て人は阿漕(あこぎ)にも、同級生の息子をたきつけて、返金の督促をさせていたのである。

 その闇金業者の名は五反田(ごたんだ)に事務所を構える幸福ファイナンス、社長の名は柏原弘毅と借用証書に記されている。

 

 夜が更けるのを待って真理子は全身を黒装束に着替え、就職祝いにと善兵衛が買ってくれた赤いフェアレディーに乗り込んで、静かにアクセルを踏み込んで五反田に向けて走らせた。

 そのビルの外壁には幾筋もの亀裂が入り、守衛の姿もなく、防犯警報装置など設置されているとは思えない程の老朽さだった。


 人通りの絶えた午前零時過ぎ、苦も無く忍び込んだ事務所の奥の隅っこに、事務用の中型金庫がドンと据えられていた。女の子の母親が苦しむ借り入れ証書は、間違いなくこの中にある。


 真理子はピタリと金庫に耳を当ててダイヤルを回し、五分もかけずに扉を開けて、中の書類を掴みだした。その瞬間に、真理子は何者かに首根っこを絞められ片腕を逆手にねじられた。

 真理子は必死で暴れたが、冷静に思考すれば、相手は事務所の者でも警察官でもあるはずはないと推察した。盗人(ぬすっと)ならばお互いに譲り合えるかもしれないと考えて、あらがう力を抜いて囁いた。


「お願いがあります。あなたが事務所の人だとは思えません。きっと私と同じように証書を盗みに来たのでしょう。証書は全てあなたに差し上げます。でも、その中の一枚だけ、一枚だけを私に頂きたいのです」


 盗人は黒装束のマスクをはぎ取ると、窓から入り込む月の明かりに照らして真理子の顔をじっと見ていた。真理子も男を見返して、悪人の目ではないと確信できたのは、男の丁寧な言動だった。


「一枚だけと言うからには、何か理由があるのだろう。どれでも好きな証書を持って行ってくれ。その代り、教えてくれないか。あんたは女のくせに並外れたプロの技量を身に付けている。しかも根っからの悪人には見えない。何故だ」

 

 真理子は朝霧善兵衛の養子となって鍵師の技量を習得した事、そして自分が勤務する小学校の生徒の母親の事情を話して聞かせると、男はしばらく考えた後、一計を案じたと言ってニヤリと笑みを見せて、錦川五右衛門だと自ら名乗った。


 いつまでも事務所にいる訳にはいかないので、真理子はフェアレディーに男を乗せて、練馬の自宅へ戻ったのである。


 五右衛門は、朝霧善兵衛という老人に興味を持ったが、その前に、少女の件を片付けるのが先だと考えて真理子に作戦を授けた。

 その時すでに五右衛門は、気丈に弾ける真理子の気性と心根の優しさに、さらに、エキゾチックな瞳の輝きに、すっかり一目惚れしていたのかもしれない。

 


 翌日、女の子に借用証書を持たせて学校に行かせた。女の子は闇金の息子の前で証書をビリビリと破いて見せた。


 即日、柏原弘毅は黒い背広の男を連れて、女の子のアパートへやってきた。待ち構えていたのは、女の子の母親を演じる真理子と、五右衛門が手配した闇の世界の用心棒だった。


 鍵の掛かっていないドアノブを回して開いたドアをけ飛ばして、黒い背広の男は部屋の隅にうずくまる真理子に唾を吐きかけた。うつむいたまま、真理子は二人の男に言い放った。


「あんたがた、他人の家へ土足でづかづかと上がり込んで来て、どれほど罪が重いか承知の上のことでしょうねえ」


「なんだと、てめえ。これはどういう事なんだ。どうやって盗み出しやがったんだこの証書を。これだけじゃねえ、百枚の証書をどこへやった」


 そう言って柏原は、ビリビリに引き裂かれた借用証書を真理子の頭上に叩き付け、とがった靴先で横っ腹を蹴りつけた積もりが、ひょいと体を交わされてよろめいた。


 その生意気な動作を見とがめて怒りをつのらせた背広の男は、おもむろに懐からナイフを取り出して威嚇するように振りかざした。うずくまる真理子の黒髪を掴もうと手を伸ばした時、横の押し入れの襖がスッと開いて、黒顔の痩せた男がひょいと姿を現した。


「お待ちなさいよ、旦那がた。ここは私の姉の家なんですがねえ。ごめん下さいの挨拶くらいして上がって欲しいねえ。畳が泥だらけじゃないか」

 二人は一瞬の意表を突かれてひるんだが、新たな獲物を見定めたかのように、ナイフの刃先を男に向け直して凄んで怒鳴った。


「姉だと、この野郎。なめた口利きやがって。うちの事務所を荒らして証書を盗みやがったのは……」

 背広の言葉が終わらぬ一秒前に、男の片腕はへし折られて畳の上に悶絶していた。黒顔の用心棒は上着から拳銃を取り出して、よろめく柏原の眉間に突き付けた。


「そんなに謝ることはないんだよ。あんたは承知で乗り込んで来たんだから。そいつのナイフで腕の一本でも切り落として、土足で入ってきた落とし前をつけてもらいましょうかねえ。それともここで命を落とすか。いいや、ここで血を流したんじゃあ、あと片付けが面倒だから、東京湾の(はしけ)にでも乗ってもらいましょうかねえ」


 柏原は上着から分厚い財布を取り出して言った。

「この中に百万円ほど入っている。許してくれ」


「ほう、他人の金で稼いだあぶく銭を、毎日懐に入れて、酒と女にうつつを抜かしていやがるのかい。いい身分だねえ。勘違いするなよ。こっちは追いはぎじゃあねえんだ。二度とここの敷居をまたがねえって約束できるかい」


「わ、分かった。約束する」

「その言葉を忘れるなよ。うっかり忘れた時には、必ず眉間に風穴が開くことを覚えとけ」

 


 これが五右衛門と真理子の出会いだった。五右衛門は朝霧善兵衛に面会し、老齢ながらも底に潜む眼光の鋭さを見抜いたが、すでに好々爺然とした風貌に精気は無かった。しかし老人の口から、劉孔明の名を耳にした時には愕然として身を引いた。


 かつて五右衛門は香港で、パイソンと名乗る男から鍵師の技術を修得した。そのパイソンに、鍵師の技量の全てを授けた人物こそが朝霧善兵衛だったと知らされたのだ。


 五右衛門は真理子の素性の全てを知った上で、数か月後に善兵衛の承諾を得て結婚の契りを結ぶことになった。五右衛門は瀟洒な善兵衛の屋敷に同居して、一年後には元気な男の子をもうけた。


 柏原の事務所から盗み出した百枚余りの借用証書の借入人から資金を集め、麻布十番に事務所を構えて会社を設立し、その間に様々な経緯はあったが事業もそれなりに順風で、香港やインドネシアへの出張で家を開けることもしばしばだったが、真理子との生活に不満もないまま時は流れた。

 通いだった家政婦も、いつの間にやら婆やとなって、善兵衛の世話や家事を任されていた。


 一方の柏原弘毅は、眉間に拳銃を突き付けられて以来、背後に何かの組織がうごめいているような殺気を感じて五反田から姿を消した。


 

 ー謎の宗教団体ー


 五右衛門も還暦を迎えて以来は世間とのしがらみが鬱陶しくなり、出張なども控えめに、それでも練馬の屋敷から毎日事務所へ顔出しをしていた。


 真理子もまた、小学校への勤務を辞めた後は、養護や介護のボランティアなどで昼間の時間を費やしていた。そんなある日の夕食時に、鯨の薄切りベーコンを載せた小皿を手にした真理子が相談ありげな顔をしていた。


「ねえ、五右衛門さん、婆やが気になる事を言うんですよ。お父様に確かめても、ああとか、うんとか言うだけで、本気で取り合ってくれなくて」

 風呂上がりに晩酌のビールをグイッとあおり、つまみの枝豆を口にした時、隣に腰を下ろした真理子が顔をしかめて話しかけてきた。


「気になる事って、何だろう?」

 五右衛門が応じると、数日前の婆やとのやり取りを聞かせてくれた。


「お嬢さま、旦那さまに口止めされておりましたから黙っておりましたが、やっぱりお耳に入れておいた方が良いかと心配になりまして、はい。半年ほど前からでございますが、五右衛門さまとお嬢さまが出勤された後に、若い女性が頻繁に訪れるようになりまして、どうも様子がおかしいのでございますよ」


「どんな女性なのかしら。様子がおかしいって?」

 真理子の心配顔を受けて、婆やはとつとつと話を始めた。


三十路(みそじ)には届かない年頃でしょうか、なかなかの顔立ちでしてねえ、旦那さまには愛想が良くてお優しい女性に見えるのですが、どこか冷ややかな眼差しが気になると思っていましたら、どうも、旦那さまからお金をせびっているような気配がするのです。私がお茶をお持ちしましたら、客ではないのでお構いなくと言われて、ちょっと邪険にお部屋から追い出されるのですよ。ある日、こっそりと襖越しに女性の話し声を盗み聞きしましたら、仏様とか教祖様とか、どうやら宗教のお誘いのようなのです。お布施とか寄付とか理由を付けて、頻繁にお金をかすめ取っているのではないかと気になるのですよ。私も心配になりまして旦那さまにお諫めしたのですが、随分と女性の事を気に入られておられる様子で、老いらくの恋、とでも申しましょうか、はい。旦那さまからは、真理子お嬢さまには内緒にするようにときつく言われておりまして、はい」


「老いらくの恋って、それ程までにお父さまは、その女性の事を慕っていると婆やは感じているのね」

「私ごときでございますが、女の勘でございます、はい」


「女性の方は、どうなのかしら」

「どこか新興の宗教の名をかたり、旦那さまの財産を根こそぎむしり取ってあざ笑う悪女に相違ございません。旦那さまは女性の手を触り、頬を両の手でさすって心からの笑顔をお見せでございます。それだけではございません。先日などは、何と驚きましたことに、女性は旦那さまの布団に入り、添い寝しているところを襖の隙間から垣間見たのでございます、はい」


 真理子の話を聞いて五右衛門は、ゆっくり腕組みをして思いを巡らせた。善兵衛はすでに(よわい)九十を越えて気弱になり、うら若い女性の優しさにほだされて、淡い慕情が炎と化して恋のたかぶりを覚えてしまった。

 分からぬでもないと思いやった。いや、むしろ、老い先短い善兵衛の心情をおもんばかれば、たとえまやかしの優しさであろうと笑顔であろうと、恋を維持継続させてやるのが労りであり施しではないかと考えるのであった。

 

 ただしかし、若い女をけしかけて、善兵衛の財産を根こそぎ奪おうとたくらむ新興宗教のやり口が許せない。そう考えた五右衛門は、庭の紅梅を愛でながら安楽椅子でくつろぐ善兵衛に、ちょいと気になる話が町内で噂になっているので、耳に入れておきたいと言って切り出した。


「お父上どの、近頃この町内で、新興宗教をかたって詐欺を働く、よからぬ(やから)がうろついているという噂がありましてねえ、この家には婆やがおりますから、そんな輩も近寄るすきはないでしょうが、是非ともお気を付け下さい。いえね、つい先日、私が忘れ物をして帰って来ましたところ、美しく若き女性が玄関を入っていく姿を見ましたのでね、婆やに問いただしたところ、ひんぱんに訪れて御父上とねんごろに話をされて帰られると聞きましたので、まさか宗教の勧誘でもなかろうかと心配したのです。とても優しそうな別嬪さんゆえに、共に語らえる喜びは若返りの薬方かと存じますが、金銭搾取の目こぼしだけはなさらぬように、ご配慮下さい、お父上」

 

 老齢の恋に水を差すようで、いくばくかの怒りを承知で遠慮がちに話を向けた五右衛門だったが、以外にも善兵衛は、五右衛門の諌言(かんげん)を待ち受けていたかのように身を乗り出して、とんでもない話をするのだった。


「五右衛門、お前さんの言う通り、この齢になるとのう、若い女子(おなご)の優しさに癒され情にほだされ心がうわつく。実はのう、わしは宗教など信じはせぬが、女子を信じて言われた通りに、財産を宗教団体に寄付すると遺書にしたためて公証役場に届けを出した」


「何ということを、お父上。それでは宗教団体の思う壺、詐欺にもまさる悪だくみ。お父上は裸にされた上に、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに女に捨てられて、誰よりも真理子が悲しむことになるでしょう」


「そこでじゃ、五右衛門。公証役場に忍び込み、遺書を盗み出して、その場で破棄してはくれまいか。こんな話を真理子にはできぬ。新たに遺書を書かねばならぬ」


「承知しました、お父上。今夜にでも役場に忍び込み、遺書を取り戻して参りましょう」

 善兵衛はすでに九十歳を過ぎていつ倒れてもおかしくはない。そのような遺書が公証役場に保存されているならば、女子の手によって悪い薬でも飲まされて、心臓発作で殺されるやもしれぬ。急がねばならぬ。

 


 午前二時、熟睡する真理子の寝顔を確かめて、そっと床を抜け出した五右衛門は、黒いベンツを走らせて練馬の公証役場へと向かった。

 二日間かけて役場の内情を得ていた五右衛門だが、当該の書類を見つけ出すのに一時間以上も要してしまった。そろそろと夜の帳が明ける前に、朝霧善兵衛と記された遺書を掴んで車に戻り、屋敷に帰ると真理子はすでに起きていた。


 真理子に詰問されて仕方なく事情を話し、破棄して欲しいと善兵衛からきつく頼まれていたけれど、内容を確かめたいと真理子に促され、遺書を開いて読んで驚愕して激怒した。

 何とその遺書には、すべての財産を真理子に譲ると記されているではないか。真理子を養子にした時に、土地も遺産も真理子に譲ると公証役場に届けを出していたのだ。

 善兵衛は女にそそのかされて、それを盗み出して破棄したうえで、財産を宗教団体に寄付する内容の新たな遺書を、女の為に作り直さねばならぬと考えたのだ。

 

 善兵衛は、そそのかされたとは思っていなかった。女が帰依を勧める新興宗教が、神であろうが仏であろうがひたすら信じる振りを装って、それを証明して見せてやらなければ目の前の夢が幻となって消えてしまいそうで不安がつのる。


 老いぼれが若い女をつなぎ止める手段は一つ、金の力を利用するしかないではないか。それが女の優しさへの代償ではないか。餌食を求める狼の群れに我が身を投じることによって、愛おしい女の脛に足枷(あしかせ)をはめることができるのではないか。

 老いてなお壮健な善兵衛の脳味噌は、若い女の甘い蜜のしたたりによって、尋常耆徳(きとく)の判断能力を狂わされていた。

 

 夜を待って五右衛門は、元通りに封を施した遺書を懐に忍ばせて、再び公証役場に忍び込み、そっと元のロッカーに戻して考えた。

 女も悪いが、女をあやつり悪事をもくろむ新興宗教とやらに、ドスの一刺しくらいの仕置きをしてやらねば腹の虫が収まらない。かといって、全てを(あぶ)り出して(さら)け出し、善兵衛の夢までも壊してしまうには忍びない。

 九十歳を越えて老人は、その女に恋をしたのだから、せめて死を迎えるまで夢を見させてやりたいという、五右衛門のせめてもの心遣いであった。


 策を練ろう。完璧な対策を講じるには十分な情報が必須の条件となる。五右衛門は探偵を雇って女の素行を調査した。


「お父上どの、仰せの通り役場から遺書を盗み出して、その場で破いて捨てようとしたのですが、はたと考えまして思いとどまりました。お父上が新しい遺書を申請した際に、しかるべき場所にあるはずの遺書が紛失していることが分かれば、新しい遺書の申請が出来ぬどころか、警察ざたにでもなりかねません。そこで考えまするに、父上が新たに遺書を作られました際には、この五右衛門にお渡し下さい。そうすれば、再度役場に忍び込み、そっと差し替えて参りましょう」


「おう、それは尤もな道理じゃ。良い考えじゃ。そうする事にしよう」

 善兵衛は会心の笑みを浮かべて、庭の紅梅に向けて大仰にうなずいた。

 


 探偵は女を尾行して、荻窪(おぎくぼ)にある新興宗教の支部に、週に一度は出入りしている事を確認した。そして、女の住むアパートも突き止めた。


 婆やから五右衛門の携帯に連絡が入った。女は昼過ぎにやって来て、夕刻前に屋敷を出たと言う。五右衛門は荻窪の支部に先回りして女を待った。

 新興の宗教組織というからには金箔の丸屋根に派手な装飾の建物かと思いきや、何とそこは古い神社の会館を改装した平屋と、二階建ての住居がつながっていた。


 会館の屋根裏に忍び込んで節穴から下を覗き見ると、大勢の男女が正座して法衣に袈裟(けさ)がけの教祖らしき男の説法を聴いていた。

 長い説法が終わると数人の信者が前に出て、今月の成果について詳しく報告を始めた。交代で行われる報告の内容は、どの地域から何歳と何人の信者を勧誘できたか、いかほどの喜捨を得られて教団にどのような利益をもたらされたか、その方法や体験談であった。

 誇らしげにまた萎縮げに説明される儀式のような報告を、教祖は時に目を剥き、また瞑目して聞いていた。報告が終わり、最後に再び教祖の説法が終わると全員が立ち上がり、そしてまた平伏して壇上から教祖が奥の院へ消えるのを待った。

 

 教祖を追って五右衛門も、屋根裏の梁を這い伝って奥の部屋に移動した。天井板張りの節をそっと削り取り、細い針先に埋め込まれた魚眼のレンズを、天井に貼られた壁紙にブスリと突き刺した。

 部屋に入って来た教祖を待ち受けていたのは、肌着姿の女だった。真っ赤な下着の透ける白絹の、まつわりつくような胴衣を妖艶に身にまとっていたのは紛れもなく、善兵衛をたぶらかして財産をかすめようと練馬の屋敷に通い続ける若き女の正体だった。

 女は布団に横たわり、教祖が衣服を脱ぐのを待っていた。


 銀織りの帯を解いて金帷子(かたびら)の法衣を脱ぎ捨てる教祖の動作は緩慢に思えるが、いかにも威厳を誇示するかのようにも見える。頬から顎にかかる濃い髭が、男の年齢を不明にしているけれども、すでに五十を越えていると五右衛門はにらんだ。


 食い入るように教祖の顔を見つめていた五右衛門は、ハッと驚き、あまりの驚愕の強烈さに足を踏み外して梁から転げ落ちそうになるすんでのところで、右手の先を天井裏に宛てがい姿勢を立て直した。

 何と教祖は柏原弘毅ではないか。年を重ねて皺が深いが、眼光鋭い獰猛な表情の面影がしっかりと刻まれ残されている。


「謎が解けた」と、五右衛門は心中でつぶやいた。

 新幹線と高速道路が交差する土地の利権で得た大金を、新興宗教設立の資金に充て込もうと奴は考えたのだ。一時に手にした金額が億だとしても、時がたてば消えてしまうのがあぶく銭のことわりだ。金は運用しなければ必ず尽きる。図らずも手にしたあぶく銭を資金として、新たな金を生み出す手法を考えた。それが新興の宗教だったのだ。

 

 神がかりな教義をでっちあげ、教祖とうそぶき(わら)を掴みたがって喘いでいる弱者たちに餌を与える。餌の見返りに金を貢がせる。弱者がすなわち労働者となり、布教の責を負わせて弱者を集める。報酬は常に権利者が得る。これこそが商売の常道だろう。


 軌道に乗せられるかどうかが正念場だが、当面の資金さえあれば建屋だって人脈だって拡大できる。それだけではない、柏原の究極の本性は、豊饒に屠れる女たちの血の匂いだったのだ。

 五反田の廃屋のようなビルに事務所を構えていたのは、資金を温存しておく為だけでなく、さらに悪銭をかき集めて資金を増やす裏稼業に過ぎなかったのだ。

 

 教祖を演じる柏原は女を抱くように横たわり、薄絹を脱がせることなく長い時間をかけて抱擁を愉悦して、しとねの横に用意された膳の清酒で喉を潤しながら女に声をかける。


 甘える仕草の女の声音は可憐だが、応じる言葉の芯に時折、(とげ)を感じさせるのは思い過ごしか。もしやその棘を、もてあそんで教祖の心を惹きつけている、あざとい女の知恵なのかもしれない。


「金の延べ棒は、もう届きましたのかしら」

 女の問いに教祖が応える。


「金の延べ棒にして五十本、富士の裾野の本殿に納めさせた。誰にも知られぬように、神殿の屋根裏の神棚に秘匿しておいた」


「教祖さま、先日はおぼこのような可愛い娘と、しとねを共にされたと聞きましたが、私とて女ですから激しい嫉妬を覚えますよ」


「なんの、あれは儀式じゃ。二十歳を迎えたばかりの生娘に、信者としてのたしなみや功徳を教えてやらねばならぬ。敬虔な信者の母親から頼まれた故に、神に処女を捧げたのじゃ。だが、お前は違う。お前はわしの女だから、永遠にわしの女だから、満足の絶頂を味合わせてやろう。だから、絶対に裏切りは許されぬぞ。掟を破った者は誰だろうと、死に等しい体罰が待っている」

 

 女は知っている。殺人や強姦の罪を犯した前科者たちが、職を求められずにさまよったあげく、まやかしの信者となって組織の中に潜んでいる事を。

 掟を破った信者には斟酌(しんしゃく)のない制裁を加え、知らぬ間に死体さえも処分してしまうのが彼らの役割だという事を。


 それだけではない。タイの高原で育成されるケシの花から採取された生阿片(なまあへん)を、香港を経由して入手している事も知っている。希少な薬玉だと称して信者に舐めさせ気分を異常に高揚させて信心を深めさせる。


 麻薬組織がケシ農家に支払う労賃は微額だから、奴らの二倍も払えば少しばかりの生阿片をこっそり横取りしたところで組織にバレる懸念はない。高純度に精製されたヘロインの取り引きにはヤクザな組織がからんで面倒だが、ケシ坊主からヘラで削り取っただけの生阿片を飴だと偽って持ち込むくらいのことなら容易(たやす)くできる。


 信者に一口なめさせれば教祖の呪文が脳髄の梵鐘(ぼんしょう)にこだまして狂おしく、二口なめさせれば己の身体がたちまち大仏になり他の信者たちを睥睨する。醒めて操られて洗脳の勢いで貯金も財産もはたいて寄進する。

 その生阿片のかけらが女の枕元の小皿の上に載っている。それはかつて五右衛門が中国の広州を訪れた際に、関西の代議士が運び屋にされそうになった鐵観音(てつかんのん)の中身と同じではないか。まさかあの一件が、柏原とつながっているなど考えの及ぶはずもなかった。


 天井裏で五右衛門は、憎しみのしこりとなって生き続けてきた柏原への制裁を考えて血が燃え震えた。

 五反田から姿を消した柏原を探すようにと依頼した探偵が闇に葬られた。それ以来、つのる恨みに反して奴の消息を得られなかった。それが今、偶然にも目の前に奴が姿を現したのだ。


 五右衛門はニヤリと笑って一人頷いた。もう逃がしはしない。策は決まった。まずは女に引導を渡し、次に金の延べ棒を盗み出すことだ。そして柏原弘毅には、死よりも辛い方法で芯の底から悔いさせてやる。



 ー春霞はるがすみ翔子しょうこ


 五右衛門は、練馬の屋敷で婆やと一緒に女が訪れるのを待っていた。リビングの隅に置かれた背丈よりも高いアンティークな木製時計の大きな振り子が物憂げに揺れて、半時間ごとにボボーンと鳴り響いて時を知らせる。

 すでに散り始めた紅梅の残り蜜を求めて数羽のメジロが庭を飛び交う。


 コーヒーと紅茶を交互に十杯飲んで、週刊誌の醜聞記事も読み尽くして欠伸(あくび)をしながら待ち続けた二日後のことだった。

 玄関のチャイムがピポポンと鳴って来客を知らせる。五右衛門の鼓膜がピクンと反応して暫時(ざんじ)神経がたかぶる。


 いつものように婆やが対応して女を招き入れる。女は、我が家同然の振舞いで善兵衛の居室に向かおうとする。居室に通じる廊下の手前に広いリビングがあり、そこに見慣れない男が一人座っている。

 善兵衛と婆やしかいないはずの昼間の屋敷に、男がいることに一瞬のたじろぎを見せた女だったが、黙って通り過ぎようとした刹那、ソファーから立ち上がった男に呼び止められた。


「やあ、こんにちは。よくいらっしゃいましたね。お待ちしておりましたよ。いつも義父(ちち)がお世話になっていると、義父からも婆やからも聞いておりますよ。いやあ、実は、今日は折り入って貴女に頼み事がありましてね、ささ、どうぞこちらにお掛け下さいな」


 不穏な雰囲気を感じながらも、女は覚悟を決めて落ち着きを取り戻した。父と言ったが息子だろうか娘の旦那だろうか、いずれにしても、いつかこの家の家族と顔を合わせるかもしれない状況は予見していた。その時には敬虔な信者として、宗教の教義を諭してひたすら帰依を迫れば良いのだと決めていた。


 そして、老後の父上の安寧を望むならば、家族で気持ちを一つにたずさえて平和を願い、神を信じて死を恐れず、迷いのない信仰こそが、俗世の苦難を断ち切る唯一の手段なのだと、我が本殿に訪れて、教祖様の真の教えを乞うて欲しいと、そう言ってこれまで多くの信者を増やしてきたのだ。


 相手が男ならなおのこと、じっと目を見詰めて瞳を潤ませ、唇を近づけて微笑んでやれば、神を信じなくとも私を信じる。ちょっと気になるのは、折り入って頼みがあると言った男の言葉だ。


 何の頼みか見当もつかないままに、柔和な笑みを浮かべておもむろに、女は五右衛門の向かいのソファーに腰を下ろした。


「婆や、お客様にコーヒーでも差し上げてくれないか」

 五右衛門はソファーに肘を預けて少し身を乗り出すようして話を切り出した。

「私はこの屋敷の(あるじ)で、錦川五右衛門と言います。妻の真理子と義父(ちち)の善兵衛、そして婆やの四人で生活しています。よろしければ貴女のお名前をお聞かせ願えますか?」


「私は春霞(はるがすみ)翔子(しょうこ)と申します」

 男の狙いが分からぬうちは、余計な事などしゃべらない方が無難だと察して、女は名前を名乗って口をつぐんだ。


「春霞とは清々しくて、粋な苗字をお持ちですね。ところで翔子さん、頼みと申しますのはね、これからもずっと義父の善兵衛のそばにいて、これまで通りねんごろに面倒を見てやって頂きたいのですよ」


「はい、それはもちろん、善兵衛さんはとても優しいお方ですから、これまで通りのお付き合いをさせて頂ければ嬉しいですわ」


「それは有り難いですね。ところでこれ以後は、義父の財布も通帳も、この私が預かりましたので、無償でのお付き合いをお願いしたいのですよ」


 男の頼みとやらが見えてきた。老人の通帳から十数万円の金が毎月引き落とされていることに気付いて、新興宗教をかたる私に騙し取られていると疑念している。ならばなぜ、追い返えそうとしないのか。

 遺書を書き換えさせて、財産を根こそぎ奪い取ってやろうと画策(かくさく)したが、男はすでに見抜いているに違いない。金の切れ目が縁の切れ目、くたばり損ないの老人など相手にするのも鬱陶しい。丁重に突き放して逃げ出そうと女は考えた。


「善兵衛さんは、とても信仰熱心なお方ですから、私が教祖様に代わって神の御言葉を伝えに参っておりましたゆえ、本教への喜捨を頂けなければ私が参上する必要もございません。荻窪に本殿の支部がございますので、大勢の信者が集まり教祖様の教えを賜わっております。どうぞ皆様のおみ足で、おいで頂ければ幸いに存じます」


「いえいえ、そうではないのですよ、翔子さん。義父の善兵衛がお気に召しているのは信仰なんかではなくて、翔子さん、貴女なのです。義父は貴女に恋をしている。この老いらくの恋を永遠に、つまり死ぬまで、貴女に面倒を見てやって頂きたいのです」


「何ですって? 私をからかっているのですか? 教祖様を愚弄しているのですか? 不快ですわ。私はこれで失礼します」


 ソファーから立ち上がろうとする女を制して五右衛門は、手にした封筒から数枚の写真を取り出して、テーブルの上にさらりと広げて見せた。その一枚、二枚を手にして女は青ざめた。


 アパートの部屋のカーテン越しに、若い男と悶える女の姿が鮮明に写し出されていた。女の素行を調査していた探偵が、望遠レンズを使ってとらえた瞬間だった。


 女は教団の若い信者とできていた。信者の男の名前も住所も調べがついていた。その数枚の写真を教祖に見られれば、間違いなく殺されるだろうと女は戦慄した。写真の裏には小野寺おのでら俊二しゅんじと相手の男の名前も記されている。


 それゆえに、決して逃げられはしないのだと五右衛門は女に迫った。愛人として、家政婦として、死ぬまで老人の面倒をみるのだと女を脅した。

 女は目を見開いたまま、殺生与奪の弱みを握られて、どのように思案したところで頷くしかすべはないのかと身を震わせた。


 そこで五右衛門は、春霞翔子と小野寺俊二を利用して、柏原弘毅に鉄槌の制裁を下す策を実行することにした。



 これまでいついかなる時も、柏原への恨みを決して忘れたことはない。あれこれ思案を巡らすのは常に、柏原への復讐の手段だった。


 大金を騙し取られただけでなく、父と母を死に追いやられた。そんな男をただ捕縛して説教したところで反省するはずもなく骨身に染みるはずもない。殺してやりたい。

 しかしただ、簡単に殺してしまえば楽に死ねる。そうだ、簡単に死なせはしない。死よりももっと辛く苦しく絶望の地獄へと落としてやる。そんな妙策は無いものか。


 そのような柏原への報復の方法をさんざん考え尽くした。法衣を脱がせた裸に豚の肉汁を垂らして上野動物園のライオンの檻に放り込んでやるか、十トンダンプで一息に轢き殺すか、それとも、(はりつけ)にして東京湾に突き落としてサメの餌にするか、いやいや、そんな手ぬるい事では駄目だ。奴は両親までも死に追いやったのだ。その怒りと怨念を三十年余りも自分は引きずらされてきた。簡単には死という安楽を与えはしない。


 罪を犯せば罰を受ける、それが人間に定められた鉄則だ。絶望の極みに精神がゆがみ、血反吐を吐いてすらなお死ぬことさえできない究極の制裁はないものか。

 あせる必要はないけれども、五右衛門の影に気付いていつまた姿をくらますかもしれない。なるべく急がねばならない。

 真理子とも相談して思案しようかと考えた。そうだ、善兵衛さんにも知恵を借りよう。年老いたとはいえ、かつては香港の闇社会を知り尽くした人物だ、思いもよらぬ奇策を引き出せるかもしれないと考えた。

 

 その日、善兵衛は気分も晴れやかだったのか、久々に(しとね)を離れてリビングのソファーで足の爪を切っていた。開け放たれたガラス戸越しに、椿の梢を撫でてそよぐ残春の香風を頬に受けて心地良げだった。


 真理子がコーヒーを運んでテーブルに並べた。このタイミングならば重い話も軽やかに受け止めてもらえるかもしれぬと考えて、善兵衛に事の次第を詳しく話してみることにした。

 ところがどうだ、話を終えると間もなく善兵衛は、いとも簡単に特効の(ひらめ)きを与えてくれたのだ。


「私は長く香港に身を置いて仕事をしてきたが、ひと時も国際情勢から目を離したことはなかった。広く世界を見渡して、各国の事情を知るがよかろう」

 と、コーヒーをズリズリすすりながら意味ありげに善兵衛は言って、かたわらに置かれていた読みかけの新聞の紙面をおもむろに指差した。


 指が示す記事の見出しと写真に目を走らせた五右衛門はしばし黙考し、ハッとして深く頷き視線を戻すと、善兵衛は含み笑っているようだった。

 これ以上は無いであろうと思われるとっておきの懲罰の方法を、善兵衛は単純明快に示唆してくれたのだ。



 ー復讐ー


 五右衛門は、春霞翔子と小野寺俊二を脅して綿密に策を命じた。そして彼らに夫々の準備を整えさせて指図通りの役者を演じさせた。


 荻窪の教団支部の会館で、柏原弘毅は信者たちを相手に長々と法話を説き聞かせていた。作務衣のような白衣を身に付けた三十人余りの信者たちは胡坐(あぐら)をかいて背筋を伸ばし、無言で教祖の説法に聞き入っていた。


 説法が終わる頃を見計らったように二人の巫女が現れて、教祖の黙祷を合図に教義の戒めを高らかに唱え始める。やがて三十人余りの斉唱が館内に響き渡って厳かな祈りが始まる。

 一通りの儀式を終えて、奥の部屋に引き上げて来た教祖を待ち構えていたかのように、いそいそと翔子は近付いて耳打ちをした。


「教祖さま、大変な金蔓(かねづる)が見つかりましたわ」

「金蔓とは人聞きの悪い。神への喜捨と呼びなさい。で、どんな金蔓だ?」


「はい、教祖さまは末端の若い男性の信者の名前など憶えてはおられないでしょうが、小野寺という信心深い男性がおりまして、彼の実家に大金の財産を残して死にそうな老人がいるということです」

「ふむ」


「彼の実家は能登半島の輪島で、輪島塗の老舗(しにせ)を営んでいた祖父が、結構な財産を築いて貯め込んでいるそうですわ」

「うむ」


「彼は教祖さまの敬虔な信者ですから、老い先短い祖父に信仰を薦め、喜捨をするように説得したそうです。そうしましたら、教祖さまに直接会って霊験あらたかなる教義に接する事ができるならば、財産のいくばくかを寄進するかもしれないと約束したそうですよ。わたくし大慌てで、彼に輪島の実家に戻るように言って、教祖さまが行くまで祖父の気が変わらないように付き添うように指示しましたのよ。だって、死ぬ間際にでも、遺産相続として親族に分配されてしまうような遺書でも残されてしまいましたら大変ですわ。早くしないと」


 薄汚れた柏原の両目が陰湿に光る。女が横目で表情をうかがう。

「よし、すぐに行こう」


 筋書き通りの演技の出来栄えに女は納得する。欲深い男は危険を察知しがちで臆病だけど、単純な嘘にはいともたやすく騙されやすい。男の手の平に乗せられ操られているように見せかけて弄ぶ、翔子とはそんな女なのかもしれない。

 


 翌朝早く、二人は東京駅から北陸新幹線で金沢駅に向かう。柏原は信者の祖父がどんな人物なのかを思い描いて説得の言葉を模索する。

 財産の幾許(いくばく)かというが、一体どれ程の金銭を溜め込み、いかほど喜捨をするというのか。輪島塗の老舗というからには百万、いや千万単位の蓄財を騙し取れるかもしれぬ。


 死を目前にした老いぼれは、己の運命を神仏に委ねて救いを求める。まずは、老人がこれまでに信念をつらぬき通して頑張ってきた生涯の成果を共に振り返り、たっぷりと褒めたたえて慢心させるのだ。そのうえで、ついに直面した死への恐怖をあおり絶望させて、我が教団への寄進による信心によって極楽往生への喜びを得られることを知らしめる。

 束の間の安寧を与え、その見返りとして報酬を支払わせるのだ。手口は狡猾だが恫喝でも騙しでもない。だから微塵のやましさもない。


 金沢から電車を乗り換えた後はタクシーで輪島港へと向かう。住所のメモ書きを渡されたタクシーは三十分ほど走り、港に近い山側の古い一軒家の前で止まった。周囲に人家は無くひっそりと人の住む気配を感じさせない。


「こんな家に住んでいるのか、その老人は」

 怪訝(けげん)な表情で柏原が翔子を見詰める。


「はい、近隣の住民や親戚との付き合いが疎遠だからこそ、行く末の不安を案じて神に救いを求めているのだそうです」

「まあ、いいだろう。とにかく入ろう」


 竹林がしなって門前に頭を垂れている。平屋の瓦屋根は所々がひび割れて、根付いた苔が瘡蓋(かさぶた)になり陰湿な妖気を漂わせる。

 玄関は開け放たれて土間が見える。門柱のボタンを押すとあからさまにブザーの鳴る音が家中に響いて聞こえる。慌てたように奥から若い男が飛び出して来た。


「ああ、翔子さん。おお、教祖様まで、こんな遠くまでよくいらっしゃいました。どうぞお上がり下さい」

 出迎えた若い男が信者の小野寺であることを翔子は柏原に紹介する。


 二人は仏壇のある畳敷きの部屋に通されて、座卓を前に座布団を出されて女は正座し柏原は胡坐をかいた。

「申し訳ありませんが、いま祖父は奥の部屋で眠っております。今しばし、お茶でも飲んでお待ち下さい。輪島名物の芽かぶ茶です。ささ、どうぞ、どうぞ」


「ほう、芽かぶ茶とは珍しい」

 すすめられるままに柏原は、ふっと一息の湯気を飛ばして唇でなめると、ぬるめのお茶を一気に喉に流し込んだ。


 翔子と小野寺の演技はこれで終わった。柏原の瞼はたちまち重くなり、本能的に異変を感じて二人をにらみ付けたが声も出せずに眠りに落ちた。



 納戸であろうか窓のない畳の部屋で、柏原弘毅は睡眠薬の眠りからようやく目覚めた。灯りは無いのだが一方の襖が開け放たれてほの暗く、すでに夕刻であろうかと思われた。


 おもむろに立ち上がろうとしたが身体の動きがぎこちない。手足が拘束されていることに気付いてもがいた。右手を動かそうとしたら左手も引きずられる。両手に手錠が嵌められているのだ。そして身体は寝袋の中にすっぽりと収められている。

 さすがの柏原も、間違いなく危険な状況に置かれていることを察して怖気が走った。


 柏原は必死で思考を巡らせた。翔子に騙されて罠にはめられたことは明白だが、理由が分からない。ここは確か能登の輪島だったはずだ。なぜこんな遠くまで連れ出したのか。

 いずれにしても相手が翔子と信者の男なら、何とか饒舌の機智を弄して難を逃れることもできるやもしれぬ。そう考えて柏原は叫んだ。


「おい、翔子、翔子-」

 隣の部屋で人の動く気配を感じた。柏原は猫なで声で、見えない気配に声をかけた。


「おい、翔子、俺は怒っちゃいないよ。話し合おうじゃないか、何が望みだ。俺は教祖だ。お前の為に何でもしてやれるぞ」

「…………」


 間違いなく人がいる。翔子ならばすぐに返答があるはずだ。翔子が紹介した小野寺という男か。奴は信者と言ったがそうではないのか。返事を寄越さないのはなぜだ。()らされているのか。

 理由も分からず正体も不明に焦らされれば、不安が増して恐怖がつのる。計算されている。翔子とつるんでいる相手はいったい何者だ。さすがの柏原も閉塞感に耐えられずに声を荒げる。


「そこにいるのは誰だ。翔子もいるのか。教祖の俺にこんな仕打ちをしたら、どんな目に合うのか教えてやれ、翔子」

「…………」


「なんで黙っていやがるんだ。()らしたって無駄だ。取り引きをしようじゃないか。翔子をたぶらかして何をたくらんでいやがる……」


 柏原の声をさえぎるように、隣の部屋の襖がスルスルと開かれた。窓のカーテンの隙間からいきなり差し込む眩しい明かりに射られて目を細める。

 敷居の上に立ち尽くしてじっと見下ろしているのは、翔子でも若い信者の男でもなく見知らぬ男であった。顔を確かめようと思うが、逆光のせいで目鼻立ちさえ判別できない。


「あんた、誰だい?」

 柏原の問いかけに、男は何も言わずに立っている。

「何が目的なんだ? 誘拐か? 金ならいくらでもやる」

 ようやく男は口を開いた。


「金はいりませんが、二千万の貸しに利子を添えてきっちり返してもらいますよ。富士の裾野の総本山の神棚に、五十本の延べ棒がある。そいつを頂きますから柏原さん、ご心配なく」


 柏原はビクリとして、男が錦川五右衛門であることを悟って(ほぞ)を噛んだ。今ごろになってどこから現れ、いつから翔子とつるんでいやがったのか、もっと翔子の行動に気を配るべきだった。


 だが相手はもと部下だ。お互いに年を重ねて高齢となり、奴だって涙もろくなっているだろう。なんとか言葉をつくろえば、窮地を脱することができるかもしれない。

 柏原は解決の糸口を思案するためにも、まずは開き直って五右衛門の出方を探るしかなかった。


「錦川くん、あの時は悪かったと反省しているよ。後悔もしてる。しかし俺もなあ、恵まれた人生を送って来たわけじゃないんだよ。一生懸命に信心修行を積み重ねて、艱難辛苦(かんなんしんく)の結果ようやく永遠の悟りを得られて新しい宗教を立ち上げた。神仏にすがる弱者を救うためにも浄財の喜捨が必要だった。分かるかい、錦川くん」


「そんな事はどうでもいいんですよ。金も女も、あんたは十分楽しんだ。極悪非道に人も騙して苦しめた。ここらが人生の潮時でしょうよ」


「何を言ってるんだ。まだ夢は半ばだ。俺たちはまだまだ頑張れるし先も長い。分かった、延べ棒は山分けにしよう。お前と俺の仲じゃねえか。昔のよしみだ、手を組もうじゃないか。一緒に人生を楽しもうじゃないか」


「あんたの口車にはもう騙されませんよ。あんたは俺の情報を悪用して大金を騙し取っただけじゃなく、親父もお袋も殺したんだ。反省したとか後悔したとか、生まれた時からそんな言葉はあんたの辞書には無いはずだぜ」


「殺すのか?」


「とんでもありません。殺人なんて足がつくような事はしませんよ。あんたにはねえ柏原さん、素晴らしい旅をさせてあげますよ。あんたに相応しい運命を賭けた旅をね」


「どういうことなんだ、旅ってのは? どこへ連れて行く気だ?」


「着いてからの楽しみですよ。そこがあんたの命の幕引きになるのかどうか、本物の艱難辛苦を味わってもらいましょうか。その為にわざわざここまで来てもらったんですよ」


「ちょっと待て。何を考えているか知らねえが、総本山の警備は完璧だから、金の延べ棒を盗み出すなんて不可能だ。考え直せ。お前にも必ずいい夢を見させてやる。俺は教祖なんだ。信者はみんな俺の言いなりだ。嘘は言わねえ、俺を信じろ」


「いくら繕っても叫んでも無駄だから観念しろよ柏原。罪を犯せば罰を受ける。人は誰でも小さな罪を犯すかもしれないがねえ、あんたは人間そのものが腐ってる。腐った人間を裁くには、法律なんか手ぬる過ぎてじれったいから、俺があんたの行き先を決めてやるのさ。出発は今夜だ」

 五右衛門は言い捨ててススッと襖を閉じた。


 両親の死にざまを知らされた日、臍を噛むどころか食いちぎり、目から血が出て脳髄が割れた。幾度も夢に現れ錯乱し、復讐を念じ続けて苦悶した。奴を緊縛して平伏させて拷問のうえで死の恐怖を味合わせてやると念じて誓った。そして今、ようやく捕らえて目の前にいる。憎っくき奴に、死にも劣らぬ究極の悲劇を味合わせてやる。



 夜の十二時、すれ違うヘッドライトも街灯も無い車道を二分も車を走らせれば、遠くに港の灯りが見えてくる。

 朧月夜に漆黒の海が能登半島から日本海へと広がる。夜の静寂(しじま)に潮の匂いを感じるが海風は無い。


 輪島港から少し離れた岸壁に車を停めた五右衛門は、後部座席の翔子と小野寺に目配せをして運転席から降りると、トランクを開けて寝袋の中に納まっている柏原を見下ろした。


「まだ眠っているようだな。教祖を担いでボートに乗せるから手伝ってくれ」

 二人に命じた五右衛門は、トランクから寝袋ごと柏原を引きずり出して、米俵でも担がせるように小野寺の肩に載せて支えた。


 岸壁の下には二艘のボートが小さな波に揺らめいていた。岸壁に沿って浮かぶ前方のボートに柏原を乗せて五右衛門が乗り、ロープで繋がれた後部のボートに小野寺が乗って、翔子は車の助手席で待つようにと、あらかじめ打ち合わせていた。

 輪島港を見やると漁船の灯りであろうか深夜にもかかわらず、蛍の瞬きのように青白く輝いていた。


 五右衛門は船外機のロープを勢いよく引いてエンジンを始動させ、ゆっくりと輪島の沿岸から日本海に向けて二艘のボートを縦列に進行させた。

 

 三十分も進めば港も岸壁も見えなくなって、雲間の月と星明かりと潮の香りに閉ざされる。寝袋の中で後ろ手に手錠をはめられたまま柏原は、睡眠薬の深い眠りから目覚める様子はない。


「ここらでいいだろう」と、五右衛門は呟いて船外機のエンジンを停止した。

 ジャケットから携帯用の羅針盤を取り出して沖を見詰めた。そして、ボートの舳先を西北西二百九十度に向けてしっかと舵を固定して、改めて羅針盤で方角を確認した。


 舳先の遥か先には魑魅魍魎(ちみもうりょう)の闇が見える。柏原弘毅にどんな運命が待ち受けているのか知る由もないが、不幸とか苦痛とか屈辱とか、一片の苦悶では済まされない暗澹たる悲劇こそが復讐なのだ。

 ここに至るまで随分と長かったけど、復讐の一念を忘れた事はひと時も無かった。この瞬間をずっと待っていた。空を見上げて溜め息をついて、おもむろにエンジンを掛けると五右衛門は素早く小野寺の操舵する後部のボートへと乗り移った。


 柏原を乗せたボートはゆっくりと北朝鮮の領土に向けて進んで行く。今夜の海は(なぎ)で静かだから、確実に領海へ入り、岸壁に突き当たるか海岸に乗り上げるかするだろう。見る見るうちに小さくなって闇に溶けて消えていく。

 

 寝袋の足元には、北朝鮮の独裁者を痛烈に非難するハングル文字の冊子と超小型の無線機が放り込んである。ズボンのポケットにはアメリカ製のアーミーナイフと手榴弾も忍ばせておいた。北朝鮮の国策に敵愾(てきがい)する不審な侵入者と思わせるに十分だろう。


 善兵衛が指差した新聞記事は、北朝鮮による核実験の報道だった。善兵衛の意図するところは、核実験だろうが人さらいだろうがどうでも良かった。国際社会に背を向けて悪徳暴挙を極めるならず者国家の北朝鮮という活字と写真だったのだ。


 五右衛門は車に戻り、翔子と若い男を後部座席に座らせた。車は黒塗りのベンツ。闇に溶け込む黒は何かと都合が良い。

 五右衛門は振り向いて二人の眼差しを交互に見据え、かねてからの計画をしっかと確かめるために復唱させた。


 まず一つ、あらたかな霊験を得るために教祖は厳しい修行を求めてインドに向けて出立された。一年後になるか十年後になるか、その間の教団信者の取りまとめを幹部と翔子に託されたと諭し、教祖が常に身に着けていた翡翠勾玉の数珠を見せて欺くこと。


 二つ目は、秘伝サンスクリットの梵字教本を教祖として崇めるべく翔子に手渡されたと繕うこと。神田神保町の古本屋で見つけた梵字の古書をすでに翔子に渡してある。表紙の裏には柏原弘毅の筆跡をまねてメモ書きとサインを記しておいた。


 そして三つめは、金の延べ棒が秘匿されている総本山の屋根裏には、決して誰も立ち入らぬように命じられたこと。すぐに幹部だけを招集して威厳をもって宣誓するように確認した。



 ー金の延べ棒ー


 輪島から戻った五右衛門は、翔子から聞き出した富士の裾野の本殿に向けて黒いベンツを走らせた。真理子に運転を任せて、中央自動車道の窓外を流れ去る夜景をぼんやりと眺めつつ考えていた。

 総本山は警備が厳重だと柏原は言っていたが、翔子の話によると苦し紛れの脅し文句で、信者以外に警備員など存在しないという。

 金塊を盗み出すのに難易度の高い策を弄する必要もないだろうと、五右衛門は高を括ってくつろいでいた。


 河口湖インターを下りて本栖湖へと続く国道を走り、地方道へと左折すると道の周囲は樹林の連なる暗がりで、上向きにしたヘッドライトを気遣う対向車などいない。

 道路から何本目かの脇道の角に、金文字の看板で教団への入り口が示されていたので、ライトを下向きに変えて細い脇道に入った。

 ゆっくり車を進めると、古代の遺跡を模したアーチ型の石門が前方に見える。


 真理子は素早くハンドルを切り、気付かれないようにライトを消して藪の中に車を寄せた。五右衛門の腕のロレックスの文字盤を確かめると、蛍光塗料の針はきっかりと午前一時を指していた。


 富士の裾野の総本山というので、さぞかし豪華絢爛な建屋を想像していたが、石門の先に見えるのは平屋の大きな会館があるだけだった。

 手筈通り真理子を車に残して五右衛門は、門を潜って忍び足で会館の裏手に回った。その刹那に五右衛門は、目を見張り立ちすくんだ。


 何とそこには、杉の巨木に囲われ天を仰ぐように五重塔が荘厳に、満月の光を浴びて煌々と輝いていた。アジアの古都で見かけるような円形屋根が五層に重なり、金銀朱色に彩られて総本山の仏閣として崇められていたのだ。


「五右衛門さん」

 密めく声で呼びかけたのは小野寺だった。寺院を囲む杉の大木の陰から、彼は半身を覗かせて手招きをする。


「今夜、本殿には三名の幹部がいるだけです。他の信者たちは会館の修行場で雑魚寝をしています」

 そう言って小野寺は、五右衛門に一本の太いロープの端を差し出した。


 そのロープの反対側の先端は、杉の大木の中程の太い枝に結び付けられている。本殿の屋根に上がるためには大木の枝から飛び移るしかない。そのために用意された鉤付きのロープだ。


 さらに、輪っかに束ねた五十メートルほどの極細のワイヤーロープを受け取り、たすき掛けにして肩に背負った。そのロープの端を本殿の屋根の先端に括り付けて、地面で待ち受ける小野寺に放り投げるのだ。そして、五右衛門の合図と同時にロープの一方の端を持って小野寺は走り、真理子の待つ門外まで行って車の傍の大木に結わえる。


 五右衛門は奪った五十本の金の延べ棒を袋に入れて、鉄の輪に結わえて本殿の屋根上からロープを伝って滑らせる。

 真理子は五右衛門を待たずに、金の延べ棒の入った袋を車に乗せて走り去る。五右衛門はゆっくりとロープの処理をして、爪垢ほどの証拠も残すことなく杉木立の林の中に闇となって消えてしまう。

 万が一にも怪しまれることの無いように、異様な装束ではなく背広と革靴を履いている。決して失敗するはずのない計画だった。

 

 五右衛門は革靴の底面に滑り止めのゴム製スパイクをピタリと貼り付けて息を整えた。ロープを両手で掴んでグイッと引き付け、ひょいと飛び上がると熱帯雨林のクモザルのように杉の大木をするすると上り始めた。

 上りつめた杉の枝から本殿の屋根の縁までは三メートル程であろうか、しかし、太い枝をたどって近づけば、二メートルには距離は縮まると推定できた。


 鉤付きのロープを屋根の先端に目がけて放り投げ、ガシリと鉤が嵌ったのを確かめて、ゆらりと枝をしならせながら屋根の上へと飛翔した。

 還暦を迎えて近視老眼のメガネをかけているとはいえ、遠く石川五右衛門の血を引く忍びの技は、あたかも鳥が飛び移ったごとくに、屋根の瓦を一寸も揺るがすことはなかった。

 

 何年前の建築なのか、瓦葺きの屋根は苔むして、朱色や黄や青にけばけばしく縁取りされた屋根先の塗装は斑に剥げ落ちている。塔の屋根に突き出た相輪の、九輪の先端で輝いているのは宝珠ではなく、何と金の(しゃちほこ)だった。


 ロープを支えに一層下の屋根に移ると、周囲の壁面は黒の漆喰で塗り固められ、寺院を守るかのように飛龍の姿が銀細工で施されていた。

 さらに下層の屋根に移ると、屋根と屋根の間は白壁と南蛮模様のガラス戸で巡らされ、室内の様子をうかがうことはできない。

 

 音もなくガラス戸を開けて忍び込んだ五右衛門は、周囲を見回しているうちに闇に慣れ、壇上に神棚がある事を確認し、さらに神棚の斜め上方から差し込む一筋の月光を見た。

 一段二段と段を上がり、神棚の前にたどり着いた時、ドキリと五右衛門は息を止めた。神棚の上に金庫が置かれているのだが、その陰から四つの目玉が真っ白い光を放って見詰めていたのだ。


 雌雄の猫か、いや、猫にしては大き過ぎるし眼光が違う。イタチか、いや違う。こんな古寺の屋根裏に巣食うのはネズミか蝙蝠でなければハクビシンに違いなかろう。その証拠におびただしい糞尿の臭いが屋根裏全体にみなぎっている。

 二対の目玉は用心深く様子をうかがっているのかピクリとも動く気配はない。


 五右衛門は構わず神棚の上に首を伸ばし、月光の入り込む隙間を確かめた。漆喰と屋根との間に二十センチほどの隙間がある。ここから金の延べ棒を取り出して、二層目の屋根に戻って袋をロープの鉄輪に結わえれば上手くいく。


 金庫はさほど大きくはないダイヤル式で、五右衛門にとって解錠することなど段ボールの梱包を開くよりもたやすく造作もないことだった。

 難なく金庫を開けて五十本の金の延べ棒を袋に納め、神棚の上の隙間から屋根上に押し出した。


 重過ぎるかと懸念して、落ちないようにしっかりと紐で梁に結び付けた。そして入って来たガラス戸から外に出て、ロープを引いて上層の屋根に飛び移り、隙間から覗いている金塊の袋をゆっくりと引きずり出した。

 やったぞ、と、会心の笑みを浮かべたその一瞬の油断が、五右衛門の運命を歪めてしまった。


 ねぐらを荒らされたうえに、縄張りを蹂躙されたと怒ったハクビシンの雌が、たとえ人間といえども外敵として攻撃すべく、雄の尻をヒステリックに蹴飛ばしてけしかけた。

 雌の機嫌を損ねて卑下される屈辱を恐れた気弱な雄は、破れかぶれに後先(あとさき)(かんが)みず、屋根裏の隙間から飛び出して五右衛門の顔面に牙をむいて噛みついた。爪で頬を切り裂いた。


 意表を突かれた五右衛門は、メガネを弾き飛ばされ視界を失い、のけぞった姿勢に重心を失って苔むした屋根の丸瓦に靴底を滑らせてしまった。

 

 ロープも金の延べ棒も投げ出して、ゴロゴロと屋根の上を転がりながら両手で丸瓦を掴もうとするが儘ならず、そのまま丸屋根の上からはるか地上へと落下した。

 それでも盗賊の血を汲む素早い身のこなしで、下方に見える木の枝を目がけて飛び跳ねていた。


 枝は枝でも柳の枝は、しっかと掴んだ五右衛門の身体を支える抵抗も無くさらりとしなり、あわれ五右衛門は御影石の石畳に背骨と頭骨をズシンと打ちつけられて気を失った。

 柳の枝にはイタリア製ボノーラの靴が絡んでぶら下がり、石畳にはロレックスの腕時計が転がっていた。 

 

 会館の陰から全てを見ていた真理子の顔面は蒼白となり、走って駆け寄ると同時に本殿から三人の信者が飛び出して来た。


 真理子はいったん立ち止まり、携帯で救急車を要請して警察を呼んだ。教団の信者たちによって五右衛門の身柄を拉致されて、何事も無かったかのように隠蔽されるのを恐れたからだ。


 手筈が狂って慌てた小野寺は、杉の木立から会館の裏を回り込んで、いかにも異様な物音に気付いて会館から出て来た振りを装った。それとなく周囲を見渡しながら石畳の上の袋に気付いた風を装い、指さして幹部の信者に向かって叫んだ。


「あれは何でしょうか? あんな所に大きな袋とロープが……」

 幹部の一人が近づいて、袋を持ち上げようとしたらズシリと重い。何だろうと袋を開き、金色に輝く数十本の延べ棒を見て驚いた。


「その男はこの金塊を本殿の屋根裏から盗もうとして、屋根の上から誤って滑り落ちたに違いない」

 異様な物音に目覚めた信者たちが、会館からぞろぞろと出て来てたむろする。その先に佇んでいる真理子を指差して幹部の男が大声で怒鳴った。


「お前も盗人の仲間だな。いったい何者だ。ひっ捕らえて監禁してやる」

 信者たちの眼差しが、月明かりに照らし出された真理子の黒装束に注がれる。


「待ちなさい。もうすぐに救急車と警察が来ます。警察がその金塊を見たらどう思うでしょうねえ。参考物件として取り上げられるかもしれませんよ。教祖さまに知れたらあんたたち、無事には済まされないでしょうねえ」


 真理子の言葉が終わらぬうちに、小さなサイレンの音がやがてけたたましく、静寂な杉の林を抜けて響いてきた。

 舌打ちをしながら幹部の信者たちは、慌てて袋を持って本殿に消えた。その隙に真理子は五右衛門のそばに駆け寄り、頬を撫でながら声をかけるが精気を取り戻す反応は無い。とっさにアメックスのゴールドカードが入っているグッチの財布を背広の内ポケットから取り出して、手に触れたダンヒルのライターも握りしめた。


 五右衛門の身体は救急車に乗せられて、その後ろを真理子のベンツとパトカーが従った。昏睡状態の五右衛門は、裾野の小さな病院から東京の病院へと移送され、三日三晩も眠り続けた。

 そして目を覚ましたのは、シボユの花の咲き乱れる香しい花畑であった。



 ー菩薩の審問ー


 立体画像のスクリーンが霧消すると、霊場峨眉山四峰に木霊(こだま)するような、清麗にして凛としたお声で普賢菩薩が仰せになりました。


「これ被告、汝が行動の軌跡に信の証左が霞んで見えます。振り返りみて己が信の主張を試みてみよ。減点失点にこだわらず、本心に(たが)わぬ思いを述べよ。我ら菩薩戒に照らして結審の基点と致しましょう」


「別に述べる事なんか無いけど」

「ならば問います。汝は金の延べ棒を盗もうとしたが、その金塊をいかにしようと考えたのか? 私利私欲によって己が懐に入れ、人生末期までの贅沢三昧を望んでいたのか?」


「違うよ。真理子は孤児院で世話になった。だから孤児院に寄付するのさ。そもそも悪徳非道の柏原がいかさまの教団を立ち上げて、多くの信者から騙し取った寄付金じゃねえか」

「その善行の思いを証として、何故に信の主張をしないのだ?」


「なんで善行が信なんだよ。そもそも行きがかり上の成り行きでそうなっただけだ。信なんて関係ねえよ」

「聞きたもれ、無知なる者よ。果てしない時空の狭間から一片の魂として、人は生まれて耐えて生き続け、そして消える。命の中に心を宿し、信を糧にして尊厳が守られる。信とは命がけにして澄浄ならしむ。愛も情も喜懼(きぐ)の念も、万象は信に交わりし天に通じる。悟りましたか蒙昧の者よ」


「悟れるかよ。天なんてどこにあるんだ、天婦羅か。俺は信とか尊厳とか、神や仏なんかも信じちゃいなかったよ」

「神や仏を知っておるのか?」


「知ってるよ。鳥居とか狛犬がいるとこに住み着いてる奴が神だろ。合格祈願のお守りや安産の祈祷に行って賽銭箱に十円玉を投げるけど、ほんとにご利益があるのかね。生臭坊主が定番の経本を見ながら役にも立たないお経をあげて、お布施とか騙して口銭を稼いでいるのが寺だろ。あんたら、あそこに住んでるのかい?」

 

 普賢菩薩への不敬の態度をたしなめるように、文殊菩薩が言葉を荒げて仰せになった。

「不遜な言葉を慎むが良かろうぞ、うすらぼけ。先に申したように、天に通じる聖なる霊場であります五台山、普陀山、峨眉山を聖域として、百億年の瞑想に耽り開悟した菩薩連合の大慈悲を、しかと聞いていなかったのか、愚鈍のバカたれ」


「知らねえよ、そんな山に寺があるなんて。麻布十番商店街の寺社巡りの旅で訪れた伊勢神宮や厳島神社は立派だったねえ。京都の大原三千院にも行ったが、先斗町(ぽんとちょう)の花街も粋だったねえ。あんたら行ったことは無いのかい」

「どこだ、先斗町とは。そもそも何しにここへ来たのだ、お前は」


「ここまで連れて来たのはお前らじゃねえか。俺は死にたくて死んだ訳じゃねえ。気が付いたら目が覚めて、勝手にあちこち連れ込まれてるうちに、仕方なくここまでたどり着いたんじゃねえか。文句があるなら娑婆の世界へ戻してくれよ」


「人は生まれた時から生きるための寿命をさずかっておる。その寿命が尽きる前に、誤って天から落ちて来るアホがいると三途の船頭から聞いたはずだ。その者だけに天空から一本の糸が吊るされるが、何ゆえに、お前はその糸を捨てたのだ?」


「糸には取説も注意書きも無かったぞ。勝手に糸だけ吊り下げやがって女郎の腰ひもじゃあるまいし、目的も行く先も分からずに、あんな細い糸なんか伝って上る奴がいるかい。思いやりの心遣いってものが足りねえんだよ。そうじゃねえかい」


「糸よりも、信よりも、被告の蒙昧獰猛な言動に減点百点」


「こら、カルテに何を書き込んでるんだ。さっき自分で言ったじゃねえか、瞑想して大慈悲の悟りを開いたって。何が減点だ。悟りの開き方が間違ってんじゃねえのか」


「やかましい! 人は信をもって生を受けると言うたはずだぞ。本能の基盤に信があり、猜疑が生じて憎しみが生まれる。親も他人も全ての信を断ち切りし時に見失った己の心を悔いて、大自然の摂理の中に真の信が目覚めるのだと、先ほど言うたはずだぞ愚か者。自己批判なき魂に減点百万点」


「ま、まあまあ文殊はん。しばし被告に配慮を与え、質疑を試みる事に致しましょう」

 眉を吊り上げる文殊菩薩を蓮の花香で慰みて、観音菩薩が新たな審問を試みられた。


「信とは信仰信心ではありませぬぞ。ここで審理をするは真の信なり。いかがわしきなり神や仏や狛犬などと、しょせん愚かな人間たちが苦しまぎれに作り出した絵空事に惑わされてはなりませぬ。煩悩なき誠の信に心の歪みが正されるのです。文殊菩薩さまは被告の信について問われているのですよ」

 片膝をついて指さす観音菩薩に、恐れ多くも五右衛門は目を剥いて反論を試みた。


「おい観ちゃん」

「気安く呼ぶな! 観音さまと呼べ、愚か者」

 五右衛門の無礼に、思わず文殊菩薩が怒鳴ってお諫めになった。


 五右衛門は文殊菩薩に構わず持論を吐いた。

「真の信だと? 人を信じろだと? 冗談言うな。人の信なんてものは(はかりごと)の裏帳簿みたいなもんだ。簡単に人を信じちゃいけないって、道徳の時間に二宮金太郎先生が教えてくれたぞ。その戒めを軽んじたから柏原に騙されたんだ。死ぬ間際に人は真実を語ると言うが、ありゃあ真っ赤な大嘘だぜ。人間の見栄ってのはなあ、鉄の塊よりも便秘のウンチよりもしぶとく固いんだ。死んだくらいでびくともするもんじゃねえ」


「被告は死に際に、真っ赤な大嘘をついたのか?」


「つく暇もなく三途の川を渡っちまったよ。だいたい葬式ほどいい加減なものはねえ。友人が死んだからって、それは運命だからしょうがねえじゃねえか。だからな、葬式に行くのは悲しいからじゃねえだろう。表向きはそうかもしれねえが、本気で弔う気遣いなんかありゃしねえ。親友だろうが親戚だろうが、他人は死んだらおしまいだからいいんだよ。そこに集まった人間たちが酒のネタにうわさ話で盛り上がれば、死んだ奴だって甲斐性があるってもんじゃねえか。神も仏も棺桶も戒名も、糞にもならねえ戯れ事だけど、生きていたという証をあざ笑う為に仲間が集って来るんじゃねえか。本気で泣いているのは、一緒に連れ添っていた男か女さ。死を悼んで泣くんじゃないよ、共有していた過去の思い出が泡沫の愛の幻影となって消えちまうから。それを一人で引き摺って孤独に生きてゆくのが辛くて泣くんだよ」


「不毛のアホよ、聞くが良い。神仏の加護を疎んじるは(やぶさ)かではないが、真の信と葬儀屋の棺桶を混同するでないぞ。騙すよりも騙されよと言うであろう。信におもねる安寧のゆえんであることが分からぬか。信を愛と、はき違えるでないぞ。愛は盲目だと叫ぶがそうではない。愛は煩悩の見せかけに過ぎぬ。愛の破綻は己の煩悩のはき違いゆえに、生死挙行の見境がつかなくなる。されどなお、葬儀の習わしを怠るでない。死への弔いが自らの生の糧になるがゆえに、悲しんでもあざ笑っても憎んでも、死者の顔は己の顔に同化する。それを紛らわすために、線香の煙に巻かれて酔いしれるのです」

 

 観音菩薩に代わって弥勒菩薩が判定を急がれて皆に問いかけられた。

「さて、判決を急がねばなりませぬ。愛情も善行も友情も喜びも妬みも苦しみも、信義に裏打ちされた心のひずみ、包括した心の持ちようについて質しましょう。被告五右衛門は、借用証書の一枚を、共に盗みに入った女盗賊に快諾して渡すのみならず一計を案じて弱者を救った。女への無心の信、弱者への道義の心を認め得られる。さらにまた、老人への仁義を信と知らしめ重んじて、老いらくの癒しの計らいに労を策し、たまたま過信が高じて予期せず寿命が尽きてしもうたが、際立つ無知と非業を鑑みる中で、わずかな信に相殺できるかと思われまする。天中命殺三十獄点で如何でしょうか」

 

 弥勒菩薩の判定に、文殊菩薩が異議を挟んで皆に問いかけられました。

「微妙なところで御座いますなあ。被告に一点の嘘が認められまするゆえに。天空からの糸の意味する運命の定めを、被告は気付いておりましたのです。天空の小さな穴を見上げた際に、一瞬の躊躇にたじろぎの逡巡は明白。俗世界に流され侵された、深き煩悶(はんもん)に嫌悪を抱き、娑婆からの逃避の迷いの後に、自ら糸を見捨てたのです。改めて被告に問う。糸に説明書きが無かったなどとほざいたが、それは本心ではないはずだ。嘘で偽り誤魔化し隠すことなく本音を申せ」


「…………」

「図星で口がきけなくなったか。それが己の内面に潜む背信の顕在なのじゃ。糸にシボユの花を結わえたのは、俗世との決別を望んだからだ。俗世を拒む、いな、煩悩濁(ぼんのうじょく)のわずらわしさから逃げ出したくて、芳醇芳香な風が舞う七色の花畑に身を委ねたのだ。かくした理由に於いて、一獄の加点を認めまするが、如何なものでありましょうか」


「それでは一獄の加点にて、天中命殺三十一獄点ということに致しましょう」

 弥勒菩薩が時間切れを気にして結審を急がれたが、五右衛門はたじろいで待ったをかけた。


「ちょっと待てよ。簡単に加点とか言うんじゃないよ。人間はねえ、生まれた時から宿命を背負って生きてきてるんだよ。その宿命を作ってるのはお前ら神や仏じゃないのかよ。その帰結を裁こうってのは、お前らの規定に矛盾の根拠があるんじゃないのかよ。人間に悪事の所業を押し付けて、お前らに何の責任も無いのかよ」


「カルマの帰結が宿命なるぞ。因果応報の報いは己が心に潜み操られる。善因善果、悪因悪果の判定をするのが我らの審判なるぞ。矛盾など無い」

 

 時間の軸上に現在があり、瞬時の積み重ねが過去になり未来へとつながる。永遠の過去と未来の流れの中で人は生きていると仁の裁判宮で卑弥呼が教えてくれた。

 過去も未来も定められた一生を送るのならば、いちいち面倒な裁判など不要ではないかと審判官に問いかけたら、過去も未来も不変ではありませぬと、定められた運命を基軸に煩悩が取り巻くのだと阿弥陀如来に諭された。


 宇宙も運命も難し過ぎて良く分からん。矛盾があろうが無かろうがどうでも良い。せめて人生を終えた霊魂に、仏さまから罪を暴かれ後ろ指を指されて減点などと言われたくない。そう思って五右衛門は四尊の菩薩を見上げて愚痴った。


「重箱の隅っこにこびり付いた食べ残しの飯粒を、爪楊枝の先でほじくり回すのが菩薩連合のやり方かい。仁の裁判宮では、遺恨があっても怨念があっても、慈悲の心を認めましょうと阿弥陀如来さまがおっしゃってたぞ。あんたらもなあ、もっと大らかに構えて、嘘の一つくらいは見逃すくらいの度量が無けりゃあ仏の道を究めたとは言えねえだろうよ、あん」


「一本の草木にも宿命がある。生きていくために本能を駆使して進化する。人間は進化の果てに本能を疎んじ、失い、魂が個々に宿った。煩悩の帰結が運命だ。言い分があるなら最後の審問で申し立てるが良かろう」


 かくして弥勒菩薩の裁量により『信』の審問は終了した。厳かな梵鐘の響きを残して立ちのぼる蓮の花々の香華の向こうに菩薩様たちのお姿が消えてなくなると、やがてすべてが靄となり、裁判宮そのものが霧消して五右衛門は冷気の中に取り残された。

 


 冷気が霊気となった混濁の時空の中で、脳味噌のない脳で五右衛門は考えていた。これまでの加点を合算すると百七十獄点、さらに『信』の審問で三十一獄点が加算されて二百獄点を一点超えた。何だ、この微妙な一点は。


 五つの審問を終えた後に天中命殺二百獄点を一でも超えると天には昇れぬと、『仁』の審問宮で阿弥陀如来に宣告された。冥土には七つの扉が待ち受けていると三途の川の爺が言っていた。極楽浄土へ導かれる扉から地獄の底へ落ちる扉があると。そして閻魔庁の最後の審判で、お前の開かれる扉が決まるのだと言っていた。


 一体、俺はどうなるのだ。五右衛門は(いぶか)ってはみるが、精気の抜けてしまった心には、不安という意識も畏怖の感情すらもない。

 娑婆の世界に生きていればこそ運命を杞憂(きゆう)し宿命に怯える。大海原のクラゲのように、理性を失い浮遊して漂うもぬけの魂に、思考の価値さえ無用であった。


次の章では、悪辣な苛めに対する報復と人類愛に言及し、煩悩の総合評価が行われて閻魔の審判が下されます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ